12/25/2012

"Is There a Santa Claus?"

クリスマスイブの朝、12月24日付けの日本経済新聞朝刊のコラム「春秋」が素晴らしかったので、全文を引用。

 どんなに小さい嘘でも、なにか大事なものを守る善意の嘘でも、嘘をつくときには、人の心はチクリと痛むものだ。これほど平気で堂々とつける楽しい大嘘は、ほかにない。「サンタクロースは本当にいる」。世界中の大人たちが、喜び勇んで子供をだますのが今夜だ。
 米国のかつての大新聞ニューヨーク・サン紙は、社説で「愛や寛容、献身が存在するのと同様に彼も存在する」と格調高く論じた。8歳の少女の投書に答える形で「本当の真実とは子供にも大人にも、目で見ることはできない」と書いている。質問を出した少女はやがて学校の先生になり、47年間子どもたちを教えたそうだ。
 ほしい物を手紙に書かせたり、夜空に叫ばせたり。家庭によって流儀はさまざまだろう。サンタは日本語を読めるのか、どこで買い物したのかと疑心暗鬼は膨らむが、幼い妹や弟のために、ひそかに演技を続ける子もいる。いつの間にか、大人が子供にだまされている。
 世の中には、子供だけが知っている真実がある。愛しているつもり。優しいつもり。一生懸命のつもり。でも大人は、ちっぽけな自分の欲のために、もっとも大事な何かを忘れることがある。子どもたちは大人よりずっと幸せに敏感だ。小さな子供は日経新を読まないと思うけれど、もしこれで嘘がばれたらごめんなさい。
同じく、僕のブログを読んでいる小さな子供は いないと思うけれど、もしこれで嘘がばれたらごめんなさい。


クリスマスは冬の季語となっている。iPhoneにダウンロードした辞書「大辞林」の季語でも、「熊手」の次にくるものが「クリスマス」「クリスマスイブ」。日本にしっかりと根づいた素晴らしい文化の一つと言っていいのではないだろうか。
日本のクリスマス事情は世界のそれとは少し異なる。先日、1頁を使って日本の少し変わったクリスマスの祝い方を祝福している記事がWall Street Journalに掲載されていた。記事の見出しは、
"In Japan, a Valentine's Day on Dec. 25"
「日本では、12月25日はバレンタインデーのようなもの」
日本では クリスマスは彼氏彼女のものだということを少しの皮肉と僕も知らなかったような事実・知識を交えながら伝える。
"Everywhere you go, you are constantly reminded that you don't have a girlfriend'"
「『どこにいっても、常に彼女がいないんだってことを思い出される』」
"While just  2% of Japanese are Christian, Tokyo is done up with Santas and candy canes for the holidays, with all the atmosphere of a high-school prom."
「日本人のわずか2パーセントがクリスチャンであるにもかかわらず、東京はホリデーを祝うためにサンタやキャンディーケーン(これは、僕の知る限りでは日本では余り見られないけれど。赤と白のシマシマのミント味キャンディ)で飾り付けられ、 高校の卒業ダンスパーティのような浮かれた雰囲気が充満する。」
"She will bring a homemade Christmas cake, which looks like a birthday cake but has become a staple of the holiday in Japan."
「彼女は、自家製のクリスマスケーキを持って(彼氏の家に)やってくる。クリスマスケーキは米国で言うバースデーケーキのようなもの。めでたい日には日本の過程ではしばしば登場する欠かせないものとなっている。 」
クリスマスにクリスマスケーキを食べるのが日本では常識となっているけれど、実はこれはイギリスとか旧英連邦国に残っている文化なのだとか。日本以外の国では、有名なところではドイツのシュトーレン、フランスのブッシュドノエル、イタリアではパネットーネといった季節特有のお菓子を作ってホリデーを祝う。我が家でも今夜はブッシュドノエルを母さんが買ってきた。僕が今年のゴールデンウィークに住み込みで働かせてもらったパン屋のオーナーからは、特製のずっしり重いシュトーレンが届いた。世界各国の祝い方や美味しいところを上手く融合させる。それが日本流のクリスマス。


先に引用した「春秋」のコラム。
その中に紹介されている8歳の少女の手紙、本文はこれ。社説の原文と訳がこの頁に全文掲載されている。(→"Is There a Santa Claus?")
嘘をつくのは悪いことだ、と多くの人は言う。でも、それがサンタクロースのように小さな子どもに夢を与えるものであったら。大切な誰かの命を守るためのものだったら。真実を伝えたがために誰かの涙や怒りが増えるのであれば、真実ではなくて、心をこめた嘘をつくことも必要なときもある。そんな難しくも大事なことを思い出させてくれる。


年を重ねるにつれて、信じるということが少なくなっていき、そのかわりに理解が増えてくる。それが人間の成長である。しかし次第に、世の中には理解できないこともたくさんあるということに気がついて途方にくれる。方程式や公式によってただひとつの最適解に落ち着くことは少ないということ。みんなが納得のいくものが得られることは少ないんだということ。理解していたと思っていた一番身近な自分自身のことですら実はなにも知らなかったと気づくこと。そんな時に、人は目に見えない何かを信じたくなる。愛、献身
、寛容、友情、絆、そしてサンタクロース。小さな頃には溢れていたこの「信じる」という感情の崇高で素晴らしいことに気がつく。


僕はクリスマスが好きだ。商業クリスマスであろうと、少なくともクリスマスやサンタがない世界よりも、街にも人々の心にも温かさが溢れている。すぐ後にやってくる年末やお正月というのは、日本では実家に帰ったり、本家や祖父の家に集まったり、あるいは家族と駅伝を見たりと、なんとなくおきまりのパターンに落ち着く。しかし、クリスマスには、どんなイルミネーションにしようか、何を食べようか、そして誰と何をして過ごそうかという創意工夫をみんなが考える。家族、友達、彼氏彼女のことを考えながら。そういった小さな創造が溢れているからこそ、このホリデーシーズンはなんだか街が温かいのだと思う。


思い立って、深夜から始まる立教大学の聖餐式へ行って来た。多くの人が集まり、聖書や聖歌を歌う。僕は大きな神様は信じていないし、クリスチャンでもない。それでも、そこに集まる人々の「信じる」という心は、なんだか暖かかった。


メリークリスマス!




12/23/2012

「日本はいい国だよね!」という妄想の崩壊?

衆議院選挙の投票から一週間が経った。
結果だけを見ると、自民党の圧勝。参議院での反対を押し切って法案を可決できる2/3以上の議席を自公併せて獲得した。勝利宣言で安倍次期総理が
「今回の選挙は自民党の勝利ではなく、民主党の敗北だ」
と笑顔を作らずに語ったように、様々な国内メディアが
「民主党に対する懲罰的選挙」
「乱立する政党に迷って安定を求めた選挙」
「自民党の自滅による勝利」
と述べるように、今回の選挙では、多くの有権者はネガティブな意志で物事を決めたのではないだろう。


批判や消去法によって成り立つ選挙のことを、米国大統領選ではネガティブ・キャンペーンと言う。今回の選挙も国民の乱立し集合離散する政党と、記憶に残る成果を出せなかった民主党に対する消去法、ある種のネガティブ・キャンペーンだったのではないだろうか。

消去法のおそろしいところは、自分は選択も心に何かを決めたのでないにしても、行く道が自ずと狭まり、結果として残るのは決断となってしまうこと。
つまり、今回の選挙が「民主にNO」を言いたかったというプロセスを踏んでいたとしても、アウトプットとなるのは「自民にYES」という決断。日本で日本のメディアを通じてだけ今回の選挙結果を聞いていれば、「あーみんな民主党がダメだったから自民にしたんだなぁ」とその思考プロセスも理解できるけれど、海外メディアが力を入れて取り上げるのは後者の、「日本人は自民にYESを言った!」というアウトプットだけであることが多い。


英語の勉強のために読んでいるWall Street JournalのAsia Editionでは、「アジア・世界における日本」という少し大局的に見た日本の様子を記事から得ているのだけれど、日本にいる僕の意識とは異なった意見が述べられる。具体的には、日本がどんどん右傾化している様子を多くの読者に告げる。以下に、今週一週間の中で気になった言葉を引用。

"Japanese voters on Sunday took a high-stakes gamble on a new prime minister who is vowing a sharp shift in economic foreign policy."
「日本の有権者は、経済と外交で急進な変化を予定する新首相を一か八かのカケとして選んだ。」
"Voters opt for a sharp shift in Government Leadership."
「投票者は、政府のリーダーシップでよりはっきりした変化を選んだ。」
"Close behind the once-ruling party was the recently formed Japan Restoration Party, co-headed by nationalist Shintaro Ishihara, the former Tokyo governor who has made a point of finding ways to provoke China."
「自民党による一党支配のすぐ後ろに着いたのは、中国との争いの火種を着けたナショナリストである石原慎太郎が率いる日本維新の党であった。」
"In Japan's notoriously unstable politics, he will become the sixth prime minister since he himself left the job in September 2007."
日本の悪名高い不安定な政治において、安倍晋三は彼自身がその職を退いた2007年から数えて6人目の首相となる。」

安倍次期首相の右寄りな思想(=国粋主義=日本の利益を最優先し、排外的にそれを守り広げようとする考え方)のみを、過去の発言から抜粋して集められた記事も見受けられる。
On the territorial dispute with China;
"There is no room for diplomatic negotiations over this issue. What is required in the waters around the Senkaku is not negotiations but - if I may say at the ris of being misunderstood - physical force."
-Essay in Bungei Shunju magazine, December 2012
「中国との領土問題について:この問題に関して外交的な話し合いの余地はない。尖閣諸島の領域において求められているのは、誤解を恐れずに言えば、物理的な力である。」
On nuclear weapons:
"The possessions of nuclear bombs is constitutional, so long as they are small."
-speech at Waseda University, May 2002
「核兵器について:核兵器の所有は合憲である、それらが小さいのであれば。」
On Japan's apologies to Asian neighbors for World War Ⅱ:
"If the LDP returns to power again, we will have to rebuild our East Asian diplomacy. Being excessively considerate to naighboring nations... has not brought us real friendship."
-interview with Sankei Shimbun, Aug.28 2012
「もしも自民党が政権を取り戻したら、我々は東アジアにおける外交を構築しなおさなければならない。近隣諸国に対して不当に優しくいることは、私達に本物の友好関係をもたらしてはくれない。

もちろん、上に述べた日本の右傾化を語る以外の金融政策の話も多いし、反対に次期安倍首相はそこまで国粋主義には走らないという記事もある。

"Japan's new leader won't be a dangerous nationalist."
「日本の新しいリーダーは危険なナショナリストにはならないだろう。」
"Mr. Abe is ofte smeared as a nationalist, yet he improved relations with China last time in office."
「安倍次期首相は度々ナショナリストであると批判を受けているが、しかし、前政権時には中国との関係改善に努めた。」
(以上全てWSJより引用)

それでも、多くの記事が語るのは上に引用したような内容であり、そして結果だけを見るのであれば、そんな首相を小選挙区制度による事実上の直接首相指名制度によって日本人は2/3以上の議席を預けるほどの「YES」を言ったということである。
「民主党・第三極に対するNO」であるとか、投票率60%のうちの半数の票であったから事実上は全国民の3割も自民を選んでいないという理屈は、国内では当然であっても、海外ではそんな細かいことまでは語られ伝わらない。伝わるのはわかりやすい「日本人の大多数が右傾化を語る党首を選んだ」ということである。


これを政治の話だと片付けていいのだろうか。海外旅行に行ったり、外人の友達を持つ人には、「日本はいい国だよね!」とろくに日本のことを知らないのに日本に対して好印象を持ってくれる海外の人々の反応に出会ったことがあると思う。
そういった反応が、もしかしたら今後、変わる可能性がある。それは今後の日本の政治や経済、アジア・世界の中での日本というフィールドでどのような役割や姿勢でいるかによる。
同時に、このような海外からどう見られているかということを意識して情報収集していないと、日本は、日本人は、ますます孤立してしまうと思う。政治家だけでなく、海外との接点が日本で暮らしていてもどんどん増えているこの時代においては、一般市民である僕達ひとりひとりが。


選挙は終わってしまったけれど政治に注目しなければならないのはこれから。
安倍次期首相の今後の動向に、しっかりと意識を傾けていきたい。

12/22/2012

「親切量」の配分について考える

昨日は冬至。北半球では太陽の高さが最も低くなる日。
日本では冬至の日にはゆず湯に入り、カボチャを食べる習慣がある。ゆず湯は「冬至」と「湯治」をかけたもの、かぼちゃは冬場の野菜に足りなかった栄養分を補うために保存がきく栄養価の高いものを食べたのだという。寒さが一段と厳しくなるこの季節。風邪予防のために語り継がれた先人の知恵である。我が家ではカボチャは食べなかったけれど祖父の家から大量のゆずが、祖父の達筆だとも悪筆だともとれるメモと共に届いたので、ゆず湯にして身体を暖めた。
時代が移り変わって、薬や医療は発達しても、人の免疫力はそこまで変わっていないだろう。何よりも健康が大事。食べるものをしっかり食べて、体を温めて、毎日元気に過ごしたい。

そんな湯治の日、SF留学中にお世話になった人にご挨拶をするために、飯田橋のホテルへ向かった。場所がら各国から来るビジネスマンや観光客が多く、ホテルの周りにはトランクを引いて歩く人々の姿もちらほら見られる。
予定より早く到着して、普段は利用しないコーヒーチェーン店で窓の外を見ながら珈琲を飲んでいた。店内の窓際の席にドイツ人の家族が座っていた。いかにもドイツ人らしい格好をしたお父さん、お母さんと、小さな子ども2人。珈琲を飲みながらのんびりと話をしていた。
今日の予定が決まったのだろうか、4人が席を立ちお店を出るときに、気づいたことがあった。自動扉を出るときに必ず後ろを振り返り、少し止まって中をみてから外に出るのだ。お父さんも、お母さんも、子供二人も。


「Thank you」って言いたいんだなぁ…と、僕には解った。日本では飲食店、とくにチェーン展開している店での食事を済ませた後に、お店の人に声をかけて出ていく文化や気配はない。小さな声での「ご馳走さま」「ありがとう」もなく、お店に入ってから出ていくまでに口から出る言葉はメニューの名前だけだということも多い。しかし、僕がバックパックしている時に感じたことだけれど、ヨーロッパの国々や僕の留学先のSFでは飲食店で食事が終わった後に、お店の人に一声かけて出ていく人が日本よりも多かった。「美味しかったよ!」「今日も良い日を」「ありがとう」そんな小さな言葉だけれど、そこに会話やつながりが存在することで心が豊かに、嬉しくなる。そのドイツ人家族の後に無言で店を去るお客さんを見ていると、なんだか足早に店から逃げていくような印象を受けて、悲しく虚しくなった。



お店を出るとき、品物を受け取ったときの小さな「ありがとう」という声かけ以外にも、海外では見かけるけれど日本では見かけない日常の小さなことはたくさんある。留学から帰って来たのちの、留学仲間との「そういえば米ではみんな〜やっていたよね」の話の中に必ずでてくることが、例えば、ドアを開けてあげること。
教室のドアや、レストランの入口で、後ろから続いてくる人のために自分が開けたドアを押さえ、開けたままにしてあげる。小さな親切であるけれど、サンフランシスコではみんなが自然にこれをやっていた。そしてそこにも、開けてくれた人に対する「ありがとう」「どういたしまして」という小さな会話やつながりが生まれる。


こうやって、「アメリカでは〜」的な話をすると「まーた下山はアメリカナイズされやがって」という声が聞こえてきそうだけれど、僕はいいなぁと思ったものことに関してはどんどんアメリカナイズされて良いと思ってる。日本ではとにかく、多数派ではないものを小さくまとめて異質な奴というレッテルを張って、あまりそれを主張しないように楔を打つ風潮や、新しいものを融合させずにそのままブロックとしてまとめて置いておく文化があるように思える。
アメリカナイズ、リア充、キョロ充、ゲイレズバイセクシャル、理系文系という言葉…
異国の素晴らしい文化を伝えようと思っている人、人間として素晴らしい恋をしている人、そうなろうと努力している人、他人とは違った性の好みがある人、異なったフィールドの勉強をしている人、そういった人に対して上のような言葉を使って抑制もしくは理解したつもりになる。無条件に「あ、リア充ですみません」といったような雰囲気を作ってしまったり、マイノリティの人が持っている素晴らしい価値観を分かち合えなかったりする。とてももったいないことだと思う。


国の文化論を語るときには、日本人はよく集団志向で仲間意識が強いというが、その集団という言葉が包括するのは日本列島ではなくて、自分が所属するサークル、ゼミ、会社、大学といった単位であって、その他の人には打って変わって排他的。自分の上司や友達に対しては挨拶や礼儀をしっかりとしていても、その他の人々に対しては粗暴であったりすることがある。
人間の持つ、他人に「ありがとう」って言える優しさの総量=「親切量」は、何処の国の人もそんなに変わらないと僕は思う。そうであれば、日本人はこの「親切量」を身内に対してだけで消費し過ぎていないか。もうちょっとだけ、この「親切量」の割り当てを社会に向けてみる。それだけで日々の閉塞感は一気によくなると思う。


普段言わないところで、「ありがとう」といってみる。それだけで心が軽くなることもある。自分自身の「親切量」の割り当ては、偏ってないだろうか…。そんなことを考えた、冬至の日の朝のこと。

12/19/2012

20年後、自分の子供にどんな話をしたいのか

20年後、2032年はどのような世界になっているのだろうか。
僕や、僕の家族や、子どもや、日本、世界、地球は宇宙はどうなっているのか。
テクノロジーは、エネルギーは、政治は、国際関係はどう変わっているのだろうか。
ふとそんなことを考えたりすることがある。


20年も経てば、おそらく、僕や僕の友達の多くに子供が生まれている。
そんな子どもたちから、
「お父さん、お母さんの子供の頃ってどんな時代だったの?」
と聞かれることからはじまる、自分と世界の昔話。
今、僕達が生きているこの瞬間は、将来生まれてくる世代のだれかにとっては経験したことがない未知のものとなる。文章や映像によってどんなに鮮明にその当時の知識を得られることができても、そこにリアリティは感じられない。戦争というものに実感が沸かないように。インターネットが存在しないことが考えられないように。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。腹に入って消化され、血となり肉となったが最後、咀嚼したときの感動や苦痛は頭の中からは消えてなくなる。僕らにとっての今日の常識も、子どもたちにとっては「昔の時代の不便なもの、大変だったこと」で片付けられてしまうかもしれない。


平成元年生まれの僕や同年代の人たちは、デジタルネイティブ世代と言われる。しかし、記憶の片隅にかろうじでインターネットが生活に根ざしてなかった時のことも覚えている、パケホや無料でネットが使えずにアナログで代用する重要性も見知っている、言わばデジタルとアナログのバイリンガル世代とも言える。しかし、現役の高校生の4人に1人は初めて買うモバイル端末がスマホという時代、生まれてすぐの赤ちゃんがタッチパネルのフリック動作をする時代、アナログはこれまで以上に淘汰されデジタルの世界で全てのことが完結するようになる。バイリンガルの数は減っていく。これからはもっとデジタルネイティブ世代が幅を利かせることになる。


例えば、お金、電子マネー。
SUICA、PASUMO、ICOKA、SUGOKA…
10種類以上の交通系ICカードが連合を組み、来年春から相互利用が可能になる。東京でチャージしたお金が、日本全国どこの交通機関やコンビニ、飲食店で利用できるようになる。
日本のガラパゴス技術で有名だったおサイフケータイ機能、NFC(Near Field Communication)も、地域制約がなくなりNFCの国際基準が統一されたら爆発的に利用者は増えるだろう。国際基準を作り広げるということで一役買うのがおそらくApple。次期iPhoneにはNFC搭載が噂される。(→iPhone5Sは2013年6月にカラーバリエーション、NFC(オサイフケータイ)搭載でリリースされる??
20年後、子どもたちにあげるお小遣いは全て電子マネーになるかもしれない。落とす心配はない。生体認証なんかで利用者を限定しておけば盗まれる心配もない。利用履歴も全て残り、家計簿はネット上にリアルタイムで更新される。財布も軽い。


例えば、紙とペン。
KDDIテレビ会議システムが謳うのは、タブレットやスマートホンを用いた便利な未来の会議のかたち。インターネットでつながっているために一同に介さなくてよいのは当然で、会議をしながら同時にタッチパネル上でメモをとったり資料を共有したりすることを可能にして、紙やペンなどを一切持たずに会議できる。会議録は映像も音声も含めてデータで残しておける。
会議の場のみならず、大学における授業のノートも全てデータ化。クラウドにあげて共有して、いつでも好きなときに授業ノートも本も読める。タイプ、タッチパネルでその場での補修も簡単。これは既に実現していて、僕の友達や後輩はiPadをフル活用してこれを実現している。これからはこの光景がスタンダードになるだろう。


便利なものには人間は抗えないもので、その便利さが血肉にかわって常識となったころには昔の不便な物事は忘れ去られる。でも、便利ではないもののなかにも大切なこと、大事なことってたくさんあると僕は信じたい。例えば手書きの手紙で伝えるメッセージとか。そんなことを思って、
「みんな、クリスマスや正月ぐらいは手紙書こう!」
ってメッセージをこめて下のポストをFacebook上で公開した。

Just one week before Christmas Day. 
I usually don't plan to do anything special around Christmas time, maybe just have a bit special dinner with my family and hang out with my friends or gf if i have. However this year, I will send Christ
mas cards to my best friends. I usually send Japanese traditional new year's greeting cards to my relatives on a New Year's day, but my family is mourning for my grandpa who passed away this spring. Traditionally, it is prohibited to exchange those new year's greeting cards between the family with someone departed in the year before here in Japan, so I decided to send Christmas cards instead.

Thanks to Go Kurihara just came back fron Germany, I got some nice and original Christmas Cards. Writing messages takes time. It is also a hard work to my hand which gets used to sending messages by flicking and typing. We are living in the world really convenient with smart technology, but something important is hidden under the something inconvenient.

We still have one week before Christmas. If you have one you really thank, like and love, why don't you send a card with just one comment such as "Hey, thanks, daily!!" or "I love you, seriously."

Too romantic? so when will you be romantic if you miss this happy season?
I would rather be romantic and happy than be cynical and doing nothing.

I wish you a Merry Christmas.


20年後には、紙とペンを使って誰かにメッセージを送るなんていう「常識」は、なくなっているのかもしれない。現在、既に年間での年賀状や手紙の配達件数が減っているというペースを考えればありえないことではない。


すごいスピードで変化する最新のテクノロジーについていくだけでも精一杯かもしれない。このスピードについていくこと、あるいはその先を見据えてアクションを起こすことはとても大事。しかし同時に、僕は昔の不便なものの大切さや重要性を理解して、利用できるうちはしっかりと利用し続けたいとも思う。
それが、デジタルとアナログのバイリンガルとして生まれた僕が、20年後に自分の子供にしたいストーリー。最新のデジタルだけではない、古き良きアナログだけではない、その両方をしっかりと経験して、感じたことや考えたことなんかを、僕達の子供に伝えてあげたい。僕はそう思っている。



12/16/2012

ポケットには常にメモとペンを。

毎日を生きていて、ただの学校や職場と家の往復だけの日々であったとしても、僕たちはたくさんの言葉を目にしたり耳にしたりする。電車の宙吊り広告の言葉、テレビのCMのワンフレーズ、友達との何気ない会話、新聞のコラムの片隅、映画の台詞、歌詞の中…

「うまいこと言うなぁ……」
「わかる!」
「この言葉は深そうだぞ」

もしかしたらその中の一言が僕達の人生の一生を変えてしまうようなフレーズであったり、素晴らしいアイデアだったり、本物の言葉だったりするかもしれない。しかし、人間はその瞬間にはすごーく大事だと思ったことも、感じたことも、直感も、感情の移ろいとともにいつかは忘れてしまう。
失恋したときの心苦しさも、素晴らしい映画をみて泣いたときのことも、自分の思うようにならず悔しいと思ったことも、誰かとの話し合いの中で生まれた感情も。


忘れるということは、僕たち人間が持ち合わせている素晴らしい能力の一つである。それと同時に、忘れるということは、僕達を成長させるチャンスの芽を摘むものでもある。例えば、なにか失敗をしてしょげているときには、僕たちは酒を飲んで忘れたいと感じる。それはストレスを発散して次の事柄に移れるというプラスの面と同時に、その失敗を繰り返さないように行動を改めるチャンスを失ってしまうというマイナスの面もある。だから、忘れることも大事だけれど、忘れないことも同じくらい大事だろう。


忘れないためにどうすればよいのか。一つには、その出来事を誰かと共有するということがある。FacebookやTwitterなどのSNSを用いて誰かと共有するということもひとつの方法ではあると思う。しかし、僕の友達が以前、
「ほとんどの人にとってFacebookは自慢のSNSで、TwitterはぼやきのSNS。極端に良いこととつまらないことばかりが集約されていて、そこに価値を見いだせない。」
と言っていたように、そこに掃き出される感情には偏りが生じる。それに、忘れないでいたいと思ったこと、それはつまり自分自身が大事だと思ってもっともっと自分で考えたり悩んだりしなければならないと感じたことのはずなのだけれど、それを多数の人のLikeやRTによって成り立っている世界においてしまったら、周りの人の反応の数だけで出来事を判断するようになってしまう。
感じる、思う、考える、選ぶ、決める…そういった人生の根っことなることは、1人でしかできないし、1人でするからこそ意味がある。


共有する誰かは、自分が本当に信頼していて、大事だと思う人。これからもずっと付き合っていきたいと思う人にするべき。そういう人であれば、親身になって話を聞いてくれるし、よきアドバイスをくれるし、時がたっても相談したことを覚えていてくれる、かもしれない。だから、時間が経過しても、自分で話しておいてその当人は忘れてしまったことも、「そういえばあの時はお前は〜なことを言ってたよね。」なんて言って思い出させてくれる、かもしれない。自分の本音を語ることの出来る友、家族、愛する人がいることはとても大事で、彼らに語っておくことはコンピューターのメモリに残しておくという確実な共有方法ではない、「かもしれない」方法だけれど、それぐらいの方がいい。親友の心にも残せないような出来事は、実はきっとそんなに大切なことじゃないんじゃないかって考えて、忘れていいんだという判断基準にもなる。


全ての出来事を、心動いた時事や言葉を、誰かに話したり共有することには限度がある。だから、僕は、メモをとることにした。ロディアの小さなメモ帳と、4色ペンを常に携帯して出歩くことにした。そして時間のあるときにその言葉を振り返ってみると、
「俺はこんなことをメモしてたのか。そんなに大事なことだったのか。」
と振り返れる。それってすごく意味の有ることであると僕は思う。


僕は今年の夏から、とにかくそういった僕の心に響いた小さなことをメモに残すことにした。旅先で気づいたこと、新聞のコラムのワンフレーズ、本の中で感銘をうけた言葉、友達が薦めてくれた映画の名前。アイフォンのメモ帳にフリック入力するのではなくて、ペンで手書きで記しておく。この行為は、正直面倒だ。でも面倒であるからこそ、本当に大事だと思った言葉しか残さないようになった。どーでもいいことは、自然とフィルターされるようになった。なんでもかんでも残しておくのではなくて、自分自身がその一瞬だけでも大事だと思ったことをしっかりと手を動かして残しておく。まだ始めたばかりだけれど、雨が降っていて凄く寒かった今日のような日にそのメモ帳を読み返してみると、まだそんなに月日が経っていないのに忘れていた感情や出来事があることに気がつく。例えば、
「自分が生まれる前に起きたことを知らないでいれば、ずっと子供のままだ――。」
そんなどっかのコラムで読んだ共和制ローマ末期の政治家キケロの言葉を読み返して、「そうだ、もっと歴史を勉強した方がいいんだった…」と真剣に考えたことを思い出したり。


人は常に前に前に、先を先をみて生きてしまいがちだけれど、時に大事なことは一瞬立ち止まり、振り返ることであると思う。その振り返るときに、振り返るべきヒト、モノ、コトがあればそれはとても心強い。このブログも、僕の中では備忘録であり、自分自身で考えたことをしっかりと整理するための一つのツール。
日常の小さな出来事の中に、日々を豊かにする、僕らを成長させるたくさんのキーワードが散らばっている。それらをこぼれ落とさないために、社会人になってもおじいちゃんになっても、ポケットには常にメモとペンを持って生きていきたい。


12/14/2012

僕と情報と社会の距離感と関係性

近代から現代へと移り変わるなかで、新聞・雑誌や本にくわえて、映画・ラジオ・テレビなど、様々なメディアを通じて情報が伝達されるようになった。そしてインターネットの時代が到来し、僕達の身の回りには常に様々な情報が溢れかえっている。
そんな「情報」と自分自身が、どのような距離感を持ち、関係性を築いて生きていくのか。どの情報を重要だと思い、取捨選択していくのか。一人ひとりが意識しておくべき大切なことであると僕は思う。


一昨日、12月12日、北朝鮮が事実上の長距離弾道ミサイルを発射した。
発射の時期を1週間延期させるという報道があったために、日本政府や韓国、中国、近隣諸国は年内の発射はないのではないかと考えた矢先の発射と成功。不意を打たれた形での発射に、日本のメディアは大々的にこの事実を報じた。
しかし、この事実を僕が知ったのは丸々一日経過した昨日の朝のことだった。
最近、社会のことをもっとよく知っておこうとアンテナを張っていた(とくに国際関係に関して)にもかかわらず、隣国のミサイル実験の報道を知ったのは丸々24時間が経過してからだったことに軽くショックを受けた。 


でも、これは至極当然のことだった。というのは僕が情報源としているのは主に新聞であるからだ。おそらく、twitterやテレビといったものを情報源としている人は、発射の数分後には緊急ニュースのテロップや誰かからのRTによって即時的にこのニュースを知ることが出来ただろう。朝刊をがっつりと読むことにしか情報収集の労力や時間を割いていなかった僕には、スピード感のある情報が届かなかった。


同じ日に、研究室の尊敬する友達と、
「新聞とインターネット・メディアのどちらが優れているのか」
というトピックで議論をした。
彼は、ものすごくコンピューター&情報リテラシーが高く、SNSを利用した情報収集もただ集めるだけではなく自分なりに活用している。GunosyやTweetedTimesなどの情報収集アプリも利用し、偏りのない情報を集められているようだった。
しかし、僕はインターネットを用いた情報収集には今はまだ懐疑的で、どちらかというと新聞派であり、彼との議論はちょっとした言い争いとなった。


僕の考えをまとめて言うと、
「インターネットは情報媒体としては最高かもしれないけれど、それを使う人間がまだそれを使いこなすレベルにまで到達していない。だから、今はまだ、古臭いけれど普遍的な情報媒体(新聞など)にも眼を通すべきじゃないか。」
ということ。


インターネット上には無数の情報が存在するけれど、人がそこから情報を取り出そうとすると、とにかく自分の好きなものに偏ってしまう。Gunosyのようにユーザーの傾向を読み取りバランスよく情報収集したとしても、それは結局自分だけのオーダーメード新聞ができあがるだけであって、全く同じ生地を何百万人という『社会』と共有しているわけではない。最近聞くようになった「キュレーション」も、一緒。情報が集められると、それは『個人』にとっての最適な情報とはなっても『社会』にとってのそれとは異なってくる。


わかりやすくするために、グラフにしてみた。



面積の広さや位置はかなり適当。でも大体こんな感じではないだろうか。
つまり、「情報収集する!」と言ってインターネットを開いたり、自分のために最適化されたキュレーションサービスを利用したものばかりに頼っていると、自分の関心ばかりに眼がいってしまう。その結果、そこにある情報だけで地球が周っているような感覚に囚われてしまう。Apple製品やGoogleの最新サービスは確かに今後の未来の社会を作り出すものかもしれないけれど、現実に目を向けるとインターネットを利用していない人・できない人が日本にも世界にもたくさんいる。そういった『社会』がまだ存在する以上、インターネットだけを情報源とするのはまだ時期尚早な気が僕はする。


もちろん、新聞が最高のメディアであるとは僕も思っていない。社会の関心をつかむためにはよいけれど、専門性を深めることはできない。北朝鮮のニュースから僕が痛感したように即時性もない。より自分自身の興味関心が強いものを知りたい時にはインターネットの情報や本、テレビ、ラジオを利用することも必須であると思う。


自分自身が、今、必要としている情報はどのようなものなのか。それには何を使うべきなのか。それをしっかりと考え理解し、使い分けること、取捨選択がとても大事。


人びとを楽しませたり虜にすると同時に、民衆動員の手段でもある各種メディア。
それらとの関わり方は、真剣に考えて対峙しないと煽動され翻弄され知らぬ間に社会の上にある大きな権力や、自分の中にある小さなぐうたら心に操られてしまう。
僕と情報と社会の距離感と関係性は、情報があふれて自由自在に手に入る時代になったからこそ、今まで以上に真剣に退治するべき大事なことではないだろうか。


12/08/2012

自分自身の弱い心と向き合う

自分自身が、人よりも強いエゴをもっていることを認めなければいけない。そして、その強いエゴは僕の弱い心を刺激して、無力感やストレスをもたらす可能性がある。だからこそ、それを乗り越えるために、そのエゴと上手くつきあっていくために、悩むのではなく、考えて決断して乗り越えていける人間になりたい。


誰にでもエゴはある。自分自身のことを認めてもらいたい、もっとわかってほしい、そんな自己顕示欲だ。この気持ちは、ある時には人を成長させる大きなエネルギーとなり、ある時には人を悩ませる大きなカベとなりうる。
僕は、他人からどう見られているかということ、どう見せていくのかということを人一倍気にするタイプであると思う。これは「かまってちゃん」であるということではなくて、人から見られる自分自身の姿や、団体の中での自分という存在が、自分は意識をしていなくても誰かに影響を及ぼす可能性があると感じているから。僕たちは無人島で1人で生きているわけではない。自分自身の言動は常に誰かに見られている。そうであるならば、自分の身形(みなり)は清潔に、真っ直ぐにしておきたい。そして、他人のことをみてくれで判断はしないようにする。そう生きていきたい。


しかし、そうやって他人や社会の中での自分を意識するということは、他人のことも気にするということであり、エゴの強い僕にはときに無力感を喚起させる。特に、活躍している同年代や友達の存在なんかが、その気持に拍車をかける。

例えば、研究室で勉強や研究をしているときに、同じ分野を学んでいる友達の圧倒的な知識量や研究に打ち込んでいる姿をみて、そうなれない自分を悔やんだり、そこまで頭の回転が早くない自分を悲しく思ったり。
例えば、夏のインターンシップで一緒に活動していた友達が、ビジネスコンテストにどんどん参加して成果をあげていて、就職活動に必死で取り組んでいたりして、どうしてその場に自分がいないんだろうと悔しく思ったり。
例えば、ずーっと続けてきたテニスを僕はやめてしまったけれど、それを続けてきてた中学高校の同期や後輩が活躍している姿をみてみたり。

もちろん、彼らがそうやって何か活動をしている間に、僕だってただぼんやりしているわけではない。「何かをしよう!」と決断したからその道を離れたのだけれど、そうなれる可能性があったという気持ちが、心の中で無駄に「機会損失」を計上して、焦りと虚しさを起こさせる。
つまり、僕はまだ芯ができあがってないブレブレの人間であり、僕はなんでも出来るようになりたい強欲な人であり、僕は些細なことにも心動かされて自分の決断を信じることができない弱い心をもっているということだろう。


弱い心に襲い掛かってくる、無力感。
この気持ちを、僕は留学中やバックパック中に嫌というほど味わった。言語の壁、専門知識のなさ、日本に対する無知、世界に対する無関心、自分自身の努力の足りなさ、理想と現実…
なんだか全てにやる気が無くなって、消極的になって、ベッドの上でボーッとして一日が過ぎた日もあった。無知な方がよかったなぁって。辛いなぁって。


でも、2年前、僕は確かにそれを乗り越えた。目が覚めたら急に英語が上手くなってるなんて夢のようなことはないのだからと自分に言い聞かせて、英語の参考書をジャパンタウンで買い求めて勉強したり、飲み会には面倒でも必ず参加して交流を深めたり、所属してた学生団体での取り組みに注力したり。その結果は、まだまだやりきったなんて言えないけれど、徐々に出始めている。
成長って、決して一歩一歩すすむものだけではない。、三歩進んで二歩下がり、一瞬止まって横道それて、グルっと回って気づいたらちょっとだけ前進。そんなもん。そんな成長もきっとある。


何かを手に入れるということは、何かを失うこと。
そんな当たり前のことが、僕は未だにわかっていない。何を手に入れるたいのか、それによって何を失うのか。それが理解できないままであると、僕の弱い心は常に悩まされ続ける。
悩むのではなくて、考える人間になりたい。考えるというのはつまり、決断をするということ。「決断経験値」を積めば積むほど、人は強く賢くブレなくなる。決断とは取捨選択をすることであり、取り続けることだけではない。挑戦することだけではない。失うもの、諦めること、捨てることまでも考慮して初めて、「考えて出した決断」と言える。


悩む気持ちがあるときは、考えるチャンス。どうすればこの状況を打破できるのか、どうしてこうなってしまったのか、考えて、行動を起こすために決断をする。
例えば、ビジネスコンテストとかに参加したいなぁという気持ちがありつつできていない自分がいるのは、きっと夏のインターンでプレゼンターをやろうという積極性がなかったことや、偉そうな態度をとっていたことや、知識・スキルが欠落していたことが原因。この原因を解決しないと、ビジコンなんて参加できないし、一緒にやろうと友達から声をかけられもしない、声をかけても誰もふりむいてくれない。


目が覚めたら、英語ペラペラになれている自分はいなかったように、或る日急に理想の自分になっているわけではない。理想の自分に足りないスキルを他人が持っているからといって、羨むことなく、どれが自分の目指す姿なのかを見極めて、足りないスキルを手に入れるために今日からでもできることを少しずつ、手の届くことからでいいから取り組んでいきたい。


それが、自分自身の弱い心を向き合うこと。数年後に、「あ、オレって成長してんなぁ」って実感できること。そう信じて、今日もまじめに生きていきたい。

12/06/2012

「政治家と話そう」

この前、youtubeサーフィンをしていたらこんな広告と出会った。


「政治家と話そう」
日本の未来について直接話し合う、オンラインミーティング。質問締め切り間近に、ほとんど利用していなくて眠ったままだったgoogle+のアカウントから質問を投げかけてみた。

#政治家と話そう  
私は23歳の、工学を学んでいる大学生です。米への留学、中東やヨーロッパへのバックパック、祖父が亡くなったこと、守りたい人が出来たことなどから、日本の政治や将来というものにとても興味を持ち始め、日々、新聞を読みくらべ、ネット・TV上で討論を聞いています。
私が政治家の方と話したいのは、討論で話題となっているTPPや増税というさまざまな論点に関するひとつひとつの"what"や"how"ではなく、その先にある大きな"why"、この国の目指すべき「ビジョン」です。世界の中での地位が相対的に、さらに絶対的に弱くなっている日本が、50年後、100年後に目指すべき姿が何なのか。それをしっかりと政治家の方とシェアすることができて初めて、一つ一つの答えを出すのが難しい論点に自分なりの賛成・反対を見つけられるとおもいます。
「老楽国家」「ものづくり大国」「日本独自の文化やサービスを強める」「ポジティブガラパゴス」色々なビジョンが考えられると思います。政治家の方がどのようなものを目標として考えているのか、それはなぜか、「ビジョン」と"why"について話ができたら嬉しいです。

僕の質問に対して、尊敬する友人と、同じくこの企画に興味を持ってくれていた初めましての方がコメントを残して、アドバイスや新しく考える種を与えてくれた。
実際に政治家と話しができるかどうかはまだわからないけれど、最近とても興味を持ち始めた政治に関して、各党のキーポイントをまとめたり、党首討論を聞いたりと、僕なりにできることを少しずつやっている。


いよいよ10日後に迫った選挙日。昨日告示が終わり、政党乱立する直近2回のわかりやすい選挙とは趣きの異なる闘いとなった。なにかにつけて「自由」が欲しいとか、なにかに縛られるようなことは嫌だと言う人が僕の周りにいる。けれど、軽々しくそういうことを口にする人は今回の選挙のように色々と選べる自由があることを喜んで、しっかりと考えて自信のある一票を投じるのだろうか。僕の直感では違う。多くの人は、選択肢が増えたことによって得られるものは開放感や自由ではなくて、無気力感だと思う。
「なにがなんだかわかんない。」
「どれ選んでも一緒じゃない?」
「もっとわかりやすくすればいいのに」
そんな言葉を言い訳に、選挙権を放棄する、無関心になっている僕と同年代の若者が多いと、選挙が行われる度にニュースになる。今回の選挙は今までよりもさらに無関心になりやすい要素が多い。多すぎる論点、10党を超す政党、ぶれる政治家の発言。


テレビやニュースで耳にする各党の政策や、論争は全て「方法」("what"&"how")である。この「方法」が多すぎるから、僕達は考えようとする前に投げ出してしまう。しかし、この「方法」が語られるときに考えればいいポイントは2つだけである。それは、「状況」と「目的」(2つ併せて、英語では"why"のことだと僕が考えている)だ。「方法」とは、「ある特定の状況」のもとで「ある目的を達成する手段」のこと。「状況」と「目的」のふたつを見定めることで、「方法」の有効性が決まってくる。わかってくる。方法ありきでものごとが進んでいくわけではない。


政治とは、僕の生まれたこの日本という船の行く末を見据え、しっかりと舵を取ることである。そうであれば、「状況」は自ずと「現在の日本の状況」であることがわかる。しかし、その次にある「目的」が選挙では見えづらい。もちろん政治家一人ひとりは確固たる目的・目標を持っていて個別には発信しているけれど、そこのレベルでの論争や直の声を聞くことはなく、結局、「方法」のつぶしあいとなってしまう。そうなってしまうと、どの政党を選べばいいのかという指針がブレブレで、ゴールのないマラソンを走るような、何ラウンドで終わるかわからないボクシングをするような、なんだか締まりのない惰性な気持ちで選挙に臨むことになる。


「目的」は、僕達一人ひとりが心に描く「明日の日本」である。「ビジョン」であり、物語の行き着く「ハッピーエンド」である。それを尋ねるのは野暮かもしれないけれど、僕にはどうしても日本の「ハッピーエンド」がどういうものなのかがどんなに情報収集をしてもしっかりとした形では思い描けなかった。ぼんやりとは考えたけれど、それが正しいのかわからない。だから、プロの人と、政治家の考え方と僕の考えをぶつけてみたかった。それが僕がGoogleが行った政治家と話そうという企画に応募した理由だ。


今朝の日経新聞朝刊一面、論説委員長・芹川洋一さんのコラムから一部を引用。
経済力がどんどん落ちて、もはや二流国家になりさがろうとしている日本。ぎりぎりのところで立て直すにはどうしたらいいのか。政党に求められているのは、国の力をみなぎらせつための政策のきそい合いだろう。
(中略)たしかに脱近代で、つつましやかに生きていくのもひとつの考え方かもしれない。しかし、子や孫の代まで豊かで自由な生活を営むためには、一流国家で踏みとどまろうとする頑張りがいるにちがいない。
(中略)政党には、明日の日本をたしかなものにするための大きな物語を語ってもらわないと困る。そうしないと有権者は判断を間違える。ひとつの争点だけで選挙をやった結果、何がもたらされたかは過去2回が教えるとおりだ。
各党の政権公約に盛り込まれた各論の点検だが、そのとき大事なのは、政策を個別にみて比較するだけでなく全体としてとらえることだ。(後略)

同じく今朝の、朝日新聞一面、政治部長・曽我豪さんのコラムから一部を引用。
わかりにくい衆院選である。
正統派乱立、争点はあまりに多種多様で、賛否で仕分ければ対決構造はあまりに複雑だ。信を得てどんな政権が生まれるか、先行きの見通せなさは増すばかりだ。
過去2回は違った。(中略)しかし、単純明快で単線にすぎたその衆院選が、日本によりよきものを残したか。
(中略)わかりにくいからといって、この選挙がダメだと見切るには早すぎる。各政党に不明な点を答えてもらおう。どこで合意でき何で争うか、その全体像がみえて初めて、来たる政権像を選択肢が姿を現すのだ。
(中略)わかった気は禁物だ。丁寧に確かめ直しバージョンアップしたい。
12月16日は全国で、しばし鉛筆が止まりため息がもれる光景が続出しよう。書かずに帰る人もいるだろう。それでも、正しくきちんと悩む行為こそが、日本の政党政治を出直しさせる第一歩となるはずだ。

みんな、選挙とか本気で考えているのかな。
もしも興味があるけれどあまりよくわからないという人、めっちゃ考えてるよって人は、声をかけて欲しい。是非語り合いましょう。僕の分かる範囲でよければ偏っていない知識をおすそわけもします。


選挙を楽しもう。



12/04/2012

I'd like to have my ego tagging along.

12月、手帳を新しくした。
一昨年からずっと使い続けているのが、無印良品のシンプルな手帳。マンスリーでざーっと予定が見渡せればそれでいい。
家族の誕生日、じいちゃんの写真、友達の住所、忘れたくない言葉を背表紙に書き写し、2013年を向かえる準備をはじめる。それと同時に、今年の手帳を読み返してみる。
「あぁ、いろんなことがあったなぁ、いろいろな人と出会ったなぁ」
と、しみじみ感じ入る。書き写した好きな言葉を、読み返す。
"I'm a part of all that I have met."
「自分はこれまで出会ってきたもの全ての部分」 


1年がまた終わる。
人はさまざまなことで悩んだり、失望したり、場合によっては死んでしまおうかとか考えたりする。特に年の瀬は普段と違って余計なわずらわしさがむかうからやってくる。気温の寒さと心の寒さが同時に襲いかかってきてきて、身も心も慌ただしくなる。さらに、就職活動が本格化するのがこの時期。僕の同期の大学の友達や弟の就職活動が始まった。友達からウェブテストのヘルプを頼まれたり、OB訪問やなんやの集まりから帰ってきた弟と夜中に数時間語り合ったり。ソーシャルネットワーク上には様々な情報が飛び交う。嫌でも人の動向が気になってしまう季節。情報収集をすることと、雑音に耳を傾けることは違う。その二つを混同していると、心に迷いが生じる。就活中も、日々の生活でも。


「隣の芝生は青い病」
昨日は久々に会った友達と街を歩きながら、こんな話をしていた。人間は誰でもエゴがある。現在の自分が置かれた立場や環境と、他人の状況を比較してしまって、なんだか悲しい気分になったりする。でも、それは当たり前のことだ。他人のことが気にならない人はいない。ようはそのエゴと、どうやって折り合いをつけて行くかということに尽きる。このエゴや欲望や煩悩というものは、人間が存在していいくための、新たな一歩を踏み出し続けるエネルギーにもなるから無視してはいけない。でもそれは同時に、人間を耐えず苦しめて、人生を台無しにするような負のエネルギーにもなりうる。そんな自分の身の中にある強く大きなエネルギーをコントロールすることが本当に大事で、それは同時に一生かけて行うとてもむずかしい作業なのだと思うけれど、具体的にはつねに誠実でいること、感謝の気持ちをもつこと、反省の気持ちをわすれないでいること、挑戦し続けること、そんな当たり前の日々のことを大切に行なっていくということの積み重ねであると思う。


週末に、久々に祖母を訪ね、仏壇の前に座り祖父に挨拶をした。
祖父が亡くなってから9ヶ月が経過したけれど、いまでもよく涙をながす。僕がいまここに生きているという当然は、祖父が存在していたから成り立っているだと考えると感謝の気持ちが溢れて本当に胸が苦しくなる。祖父の死以来、なにげない日常に涙することが多くなった。優しさと悲しさの涙が流れるところに、本物の幸せが存在する。僕の幸せはきっと大金持ちになることでも、誰かを騙すことでもなくて、みんながなにげない日常を幸せに生きていくようなものを築き上げることなのではないかと最近感じる。


言い古された言葉であるけれど、恋愛と就職活動は似ている。
でもそれは、自分に足りないものを補ったり欲望を消化するための薄っペらい恋愛とのアナロジーではない。本気の恋をすると、苦しくてもその人になにかを与えたくて仕方がなくなる。利他の心、無償の愛、キリスト教で言われる「愛」が生まれる。そういった本気の恋愛とのアナロジーだ。そんな気持ちを抱けるような、与えられるではなく与える側に将来的になれるような会社や団体で働けることが本当の幸せだ。


来年の就活になんとなく思いをはせながら、アナロジーで使われる恋や愛についても考えてみる。誰かを愛するってことは、誰かから何かを一方的にしてもらう・してあげるだけではない。さらにはただお互いの似通っている場所を見つめ合って共感するものでもない。共に同じ方向を見つめること、ベクトルの向きを合わせることだと思う。そのためにはやっぱり、同じ空間や同じ時間をなるべく共有している必要がある。そうでないと、人は毎日毎日ちょっとずつ、人生というベクトルの向きも大きさも変わってくるのだからその変化に対応できなくなる。遠距離恋愛なんかが難しいのはこういうところからだろう。


恋愛が苦しいのと同様に、就職活動も苦しいもの。でもそこから得られるものもたくさんある。妥協せずに、みんな頑張って欲しい。そして(おそらく)来年就活をする自分も、このブログを読み返して「こんなこと考えてたのか…」と振り返って、頑張って欲しい。未来へのエール。





11/28/2012

二人称で考えられる人やコト

英語を学び始めた時に習った言葉、一人称、二人称、三人称。

一人称=I(私)
二人称=You(あなた)
三人称=he, she, they...(彼、彼女、彼ら)

この言葉の頭についている数字が示すように、僕たちにとって大事なものは概ねこの順番になっている。何よりも一番大事なものは、自分。その次が、youという単語で呼べる相手、そしてその他大勢のもの。
僕達は当然自分自身のことが大好きだ。そして、インターネットのおかげで不特定多数の誰かとのつながりも強くなった。その結果、相対的に、2番めに大事なはずの『You』の大切さが薄れてきてしまっている。二人称で呼べる相手について真剣に考えることを忘れている人が多くなっている。そんな気がする。でも断言したい。世の中で一番大事なのは、この二人称で考えられる人やコトだ。


「あなたが二人称で呼べる相手は誰ですか?」
と問われたら、多くの人が、「愛する人」と言うと思う。
この愛ってのは、ロマンチックな愛だけではなくて、もっと一般的な愛も含まれる。家族愛とか友愛、隣人愛なんかも含まれる。簡潔に言うと「涙を流せる相手」と、「誰よりも喜ばせたい相手」、自分の感情が生まれる場所のすぐとなりのスペースにいつもいる人、いて欲しい人だと僕は考える。
「もしもこの人がいなくなってしまったら泣いてしまう」
「この人を笑わせたい。」
「あいつが悲しむ姿は見たくない」
そういった感情が生まれると、その人を取り囲む「二人称の人の二人称」まで考えられるようになる。感じられるようになる。そしてその人たちも幸せになって欲しいと思えるようになる。


震災から一年八ヶ月が経った。日本において何かしらのターニングポイントになったあの日以来、今まで意識していなかった「家族の絆」をみんな深く強く考えることになったと思う。でも、あえて言わせてもらうと、それが強すぎる。家族が良ければそれでよし。そんな風潮が少なからず社会にあるように感じる。二人称で呼ぶべきであった「家族」を、一人称の中に取り込んでしまったような、1.5人称で考えるようになってしまったような、そんな感じ。その結果、「二人称の二人称」が生まれなくなり、広がりに欠け、家族も含めた個人主義に拍車がかかっているのではないか。自分のことしか考えられない人をジコチューと人々がけなすように、自分と家族のことしか考えられない人もジコチューで、社会・世界の中で生きていくなかでそれは美徳にはならない。


一人称と三人称だけの世界。そんな国や世界や社会は成り立たないし、きっとなんだか虚しい。インターネットの発達なんかで、情報や知識はいくらでも手に入るようになった。けれど、それは三人称の数を爆発的に増やしただけで、二人称の数を増やし質を高める力はあまり持っていない。世界のどこかで今も紛争で多くの人が命を落とし、飢餓で幼い子供が死んでいく。ニュースや広告でその事実を僕たちは知っている。それでも多くの人は涙をながせない。今日の一杯のラーメン、晩酌、スナック菓子を我慢して募金をしようという人はそんなに増えなかった。悲しいけれど、それが事実。それがリアル。それが二人称と三人称の圧倒的な違い。二人称は愛情を生み出す。三人称は無関心とジェラシーを生み出す。


二人称で考えられる人、モノ、ことってなんだろうと自問自答してみて、その人たちのことをもっと大切にしてみる。もしもそういった人が見当たらないのであれば、感受性を高めて意識をして、その数を1人ずつ増やしてみる。涙を流せる人、笑わせたい人、悲しませたくない人はきっと誰にでもいるし、その数に限りはない。もっともっと見つけられる、増やせるはず。どうすれば増えるか考える。
その人たちを幸せにするために学び、働き、生きる。それが人の存在理由なのかなと、ぼくは思う。そういった人が見つかってはじめて、人はブレなくなる。強くなる。人生が美しく、意味あるように見えてくる。


"Life is beautiful."
そんな言葉は、二人称の相手がいて初めて心から湧き出てくるもの。

11/21/2012

自転車乗りの哲学

朝の気温、最低気温が一桁になった。それでも僕は、毎朝片道10キロの道のりを自転車を漕いで大学まで向かう。今朝の授業で友達から、
「こんなに寒いのにまだ自転車に乗ってるの?」
と驚かれた。まだまだ乗ってるし、去年は真冬でも乗り続けた。


以前のブログで、これから暑くなってくるのに汗をかきながら自転車に乗っていることを友達から突っ込まれて、なぜ自転車に乗るのかを考えたけれど、それは電車が嫌いだからというネガティブな結論を出した。(→僕が、朝の電車が嫌いな理由
今日は真夏でも真冬でもなぜ僕が自転車に乗るのかというポジティブな理由を考えた。
自転車乗りの哲学。


まず、自転車のスピード感が丁度いい。歩くのも好きだけれど、僕の行動範囲は歩きだけではカバーしきれない部分があるし、ちょっと遅い。反対に車やバイクは早くて便利だけれど、交通ルールにのっとって走らなければならないために惰性的に走ることが多いし、急に止まることができない。
僕の好きな自転車のスピード感とは、
  1. 人の顔の表情が見れて季節を感じることができて、
  2. 困っている人がいたら助けることができて、
  3.  それでも多くの人を追い抜いて走ることができる
そんな速度感だ。


1.について。
自転車に乗っていて街を走るときによく見ているのが、街往く人の表情や、季節感とか雰囲気だ。例えば先週日曜日には、上野まで自転車を走らせたのだけれど、よく晴れた秋の日の午後で、家族連れやカップルの顔がすごく穏やかで笑顔が多いことに気がついた。それはきっと、バイクや車といったスピードを持っていてはあまり感じられない・気づかないものなのではないかなと思う。ある程度のよそ見ががゆるされている(もちろん、し過ぎは危ない!)、少し早めのスピード感。それが僕は好き。

2.について。
これは1.と少し似ているけれど、誰か困った人を見つけたらすぐにでも自転車を降りて助けてあげることのできる、人間味のある乗り物とスピード感だということ。僕は以前はバイクに乗っていたけれど、今は通学のためにバイクに乗ろうとは思わない。今の僕には少し速すぎるように感じる。エンジンがつくるスピードは、どうしても急にとまることができない。結果、自分のすぐ後ろで事故があったり、困っている人がいたとしても、機会がつくるスピードに支配されてわざわざ止まろうという感覚が弱くなる。交通ルールを厳守して走らなければならないので止まることができない場合も多い。自転車乗りが増え、交通ルールを守ることや車両を走ることを徹底されているけれど、僕はエンジンのつくりだすスピードと人力のスピードは全く性質のことなるものだから、自転車を車・バイクと同じように扱うのは違うと思う。歩行者と車両の中間、人間味のある乗り物、グレーな感じでいいと思う。(自転車乗り一人ひとりの交通マナーがしっかりしているという大前提のもとで。)

3.について。
じゃあ歩け、と言われるけれど、歩くスピードは僕には少し遅すぎる。誰かより少し早く、少し前を走っていたい。1番の速さを追求する必要はないけれど、ドベは嫌だし、平均よりはちょっと上で、俺は結構早いんだぜ!といばれるような、そんな立ち位置が僕は自転車のスピードに対しても普段の立ち位置でも、あっていると思う。乗っている自転車もレースに出て1番を目指すようなロードレーサーではなく、ただ自転車であるというママチャリやマウンテンバイクでもなく、街でそこそこのスピードが出せるというクロスバイクだ。


他にも自走する乗り物であることや、孤独な乗り物であることとか、僕が自転車に乗り続ける理由は考えはじめたらきりがないので、これぐらいで。
最高気温40度の日も、最低気温が0度の日も、小雨の日もたいてい自転車に乗って学校に通い続けた。乗りながら気がついたことや考えたことは数しれない。
僕にとって自転車は、携帯のディスプレーやノートから眼をはなして生きている人や街、巡る季節に出会わせてくれる、物凄く人間味のある乗り物だと思う。これからも乗れるうちは、自転車に乗り続けていたい。






Universal Children's Day

日付は変わってしまったけれど、今日11月20日は、「世界こどもの日」だった。


子供の「生きる権利」「守られる権利」「育つ権利」「参加する権利」を定めた条約が、国連で採択された日を記念しての記念日とのこと。日本ではこどもの日は5月5日の端午の節句であり、春風になびく鯉のぼりとゴールデンウィークの陽気を連想させる、なんだかほのぼのとした春の温かい印象の祝日。しかし、その半年後の秋から冬に移り変わるこの季節に、世界こどもの日に放たれるメッセージというものは「遊ぶ」「学ぶ」「生きる」「笑う」…そんなあたりまえのこと。逆に言うと、こんな日をつくらなければならないほどそのあたりまえがあたりまえでないという厳しい現状にさらされている子供が世界にはたくさんいる。


イスラエル軍によるパレスチナ自治区ガザへの空爆が止まらない。14日の空爆開始からのガザの死者99人(あくまでも、公表された人数)のうち、25人が子供。負傷者750人のうち約7割が子どもと女性だという。今回の大規模空爆はハマス軍事部門最高幹部の暗殺から始まった。戦争、紛争、喧嘩、そのほとんどは力を持った男の怒鳴り声で始まり、無力な女子どもの悲しみ泣く声で終わる。「世界こどもの日」に命を失った子どもたちはどれほどいたのだろう。


今年の9月に僕はチュニジアを旅した。朝、コーヒーショップで新聞を読みながら、顔なじみになったお店のおじさんとニュース番組を見る。そこには綺麗に着飾ったキャピキャピした大学生キャスターや、イケメン俳優の料理コーナー、クイズコーナーなんてものはない。延々と放送されるのは近隣のイスラム国家で続く紛争の様子や政治の話ばかり。コーヒーショップに集まるおじさんたちは、ガラスのコップに入った甘いコーヒーを啜りながら、苦しい現実を悲しげな顔をして見つめる。僕も言葉はわからないけれど、その映像を見つめる。目が離せなかった。


日本に戻りすごく平和な日々を過ごしているけれど、僕にはそのコーヒーショップでの朝が昨日のことのように鮮明に思い出すことができる。そして、今日もチュニジアのおじさんたちが、イスラエルとガザの争いの映像を映すテレビを見上げて、少し眼をつぶって首を小さく横にふって、ため息をつく様子がわかる。


「遊ぶ」「学ぶ」「笑う」「生きる」「働く」
こんな当たり前のことのどれもできない子供がいる。そんな子どもの様子をすごく身近に感じて、自らもそういった感情を出すことのできなくなっている大人もたくさんいる。
僕は毎日、遊べるし、学べるし、笑えるし、生きれるし、働くこともできる。この感情を抱けることをすごく幸せだと思うし、この感情を僕だけでなくて世界中の人に届けたいと、心から思う。そのためにできることは、今の僕には募金でもボランティアでも政治家になることでもない。当たり前の権利が与えられていない人の分まで、毎日、真剣に、学び、遊び、笑い、働き、生きていく。そういうことだと僕は思う。


世界に平和が訪れますように。
世界中のこどもたちが遊び、学び、働き、笑い、生きて行けますように。

11/18/2012

よく晴れた秋の日、日曜日の昼下がり

1年前の11月15日付け、読売新聞朝刊のコラム『編集手帳』より、一部引用。
紅葉が美しく色づくには3つの条件があるという。昼間の日差し、夜の冷気、そして水分である。悩みと苦しみ(冷気)に打ちひしがれ、数かぎりない涙(水分)を流し、周囲からの温かみ(日差し)に触れて、人の心も赤く、黄色く色づく。紅葉の原理は、どこかしら人生というものを思わせぬでもない。(後略)

本日の朝日新聞の朝刊のコラム『天声人語』より、一部引用。
紅葉は山海の恵みにも似て、はしり、さかり、なごりの各段を踏む。緑があせ、赤緑の錦が乱れ、色が散り敷かれる。(中略)昼夜の温度差、程よい湿度と陽光が色を磨く。葉の彩りは残暑から秋冷への急坂を転げ、時雨に洗われて深まる。秋が短い今年は木々の見せ場も重なる。東京の街路樹はケヤキ、サクラ、ユリノキあたりが散りぎわの芸を競う。真打のいちょうも盛りが近い。(中略)毎年、ホップ、ステップ、ジャンプの順で巡る季節がやけに頼もしい。一歩進んで二歩下がるような、人の世を見るにつけ。

日々のランニングでは、街路樹の移りかわりを見ながら走る。最低でも1週間に1度は同じコースを走っているので、劇的な変化というものはないはずだけれど、ふとした瞬間に「あ、イチョウがこんなに黄色くなってる…」といった気付きがある。
神宮外苑の銀杏並木もそろそろ見頃だろうか。来週か再来週あたりにでも、晴天の日を狙いすまして散歩に行きたい。よく晴れた日の東京の秋の青空には、イチョウの黄色がよく映える。


研究の中間発表が昨日終わり、少しだけ心に余裕ができたので今日は前々から行きたかった東京都美術館展へ行って来た。展示は、『メトロポリタン美術館展』。ニューヨークのセントラルパークに立つメトロポリタン美術館から、大地、海、空―自然をテーマにした作品が展示される。ゴッホの描いた有名な『糸杉』が目玉であったけれど、それ以外にもたくさんの素晴らしい作品が集う。その中で僕が一番「いいなぁ…」と感じたものが、アメリカの風景画家ウィンズロー・ホーマーの《月光、ウッドアイランド灯台》。


月光と名前があるけれど月は描かれておらず、灯台とあるけれどそれは画の奥にたったワンポイントの赤色で載せられた点だけで灯台の存在を示す。
ホーマーの名前は今日はじめて知ったけれど、次の展示からは彼の名前を探してみたい。こうやってお気に入りの画や画家が少しずつ、少しずつ増えていく。絵心皆無でアートを学んだことがない僕でも、最近少しずつ、人々が美術を慈しむ理由がわかってきた。


上野まで、秋の日差しに包まれてのんびりと街や人を見ながら自転車を走らせた。よく晴れた秋の陽の午後、日曜日の午後って、本当に素晴らしい。街が幸せで溢れているように感じる。この幸せが何よりも大事なのだと思った。僕はイエスとかブッダとかある特定の大きな神様の存在はあんまり信じていないけれど、一週間に一度の安息日を設けてその時間を大事な人と過ごしたり自分のやりたいことを過ごすような社会の制度をつくった、昔の頭のいい人は偉大だと思う。


さて、また新しい一週間が始まる。パワーチャージ完了。毎日を真剣に、丁寧に、楽しんで生きていこう!




英語を再び学び直す

この前、Facebookに次のようなポストを載せたら、思いがけずたくさんの友達や先輩・後輩からlikeをもらったり、直接連絡をくれた人もいた。

4年前、大学1年生のこの時期に、留学を決断して下手くそだった英語の勉強をして、ここまできた。その経験があったから今の自分がいる。でも、それで満足してないか。震災があって、祖父がなくなって、恋をして、旅をして、走って…そのたびに、壮大に聞こえるかもしれないけど、この世のなりたちや、自分、家族、社会、国、世界についてくっそ考えて悩む毎日。研究なんかよりも新聞読んで哲学書読んで誰かと教育や幸せについて語って考えることのほうが正直楽しい。 
"Think globally, act locally.""Today is the first day of the rest of your life." 
actの範囲やキャパを、狭めてないか。thinkとのバランスを間違えてないか。僕の(そしてほとんどの学生の)生活には、もっと詰め込む余地があると思う。無駄になっている部分が多い。SNS上やベッドで過ごす時間を減らせることはあきらか。
変えよう。今日から。残りの人生のために。

この中で、僕が引用した"Today is the first day of the rest of your life."は、僕の中の座右の銘のようになっている。留学を志して、通い始めた予備校の最初のクラスで学んだ格言であり、そして、同じサインを留学中のSan Franciscoの街中で巡りあい、なんだか運命的なものを感じて僕の心に刻みこまれた。言葉でも、人でも、本でも、巡りあうものとは人間は必然的にめぐりあう。僕はそんな風に感じることがたまにある。


上の文章を衝動的に書いた理由は、父から薦められた一冊の本を読んだから。
ファーストリテイリング社長、柳井正さんが書いた『現実を視よ』。この本に書かれている内容は、耳を塞ぎたくなるような、眼を閉じたくなるような、日本が今後向かえる(いや、すでにむかえている)深刻な問題についてである。
「このままでは日本はやばい。本当にやばい。」
そんな感情は、新聞を開く度に、旅先で話をする度に、前々から薄々とは感じていたけれど、それを実際に文字にされて訴えかけられて、本当にどうにかしなければならないと心から感じた。それは日本のため、そこに住む僕の家族のため、僕のため、僕の未来の子供のため、愛する全ての人のため、世界のため、だ。


それで、僕にはいったい何ができるのか。著書の中では柳井さんは「企業しろ」「海外を知れ」と若い世代である僕らに訴えかける。ただ、その言葉をかけられたからといって、すぐに僕がそういったことができるわけではない。海外だって、行きやすくはなったけれど、はい、じゃあ行ってきますといって今まで築きあげてきたものや考えてきた道を急に変更することは、僕は美徳ではないと思う。
毎日5回ぐらい大学やめてやろうと思い、6回目で思いとどまる。それは今の道が正しいと信じる気持ちと、新しいことを挑戦することへの恐れの気持ちから。


何かを変えたい。でも、何が出来るのか。
そんなことを考え込んでいて、いまだに明確な答えは出ていないけれど、とりあえず自分の中で少しでもこの感情と折り合いをつけるために決めたことが、『英語を学び直すこと』。
留学に行き、バックパックに行き、平均的な日本人よりは英語ができるようになった。しかしそれで満足して奢っている自分が間違いなくそこにいた。その気持ちを払拭して、入れ替える。そのために、英語を学び直す。これは間違いなく今の僕にも、そして今後の日本や世界を生きるためにも必須のことだ。
英語がネイティブの友達がいる。彼らと比べると、僕の英語力のなさや、今までまなんできた量が違うから…と諦めてしまう人がいる。でも、それは間違っている。人はみんな、自分だけの生き方、自分だけのボキャブラリーを持っている。僕は日本人だけれど、おなじ日本人が日本語で喋る会計や難しい政治の話とかは全くわからない。それはその領域でのボキャブラリーや知識がないから。
英語ネイティブに負けないぐらい、僕の好きなトピックに関する英語の勉強をしていく。それがきっと僕の強みにもなるし、継続できる英語の学び直しになると思う。


具体的にはどうするか。ただ文法とかをまた学んでも、僕は絶対に飽きてしまう。だから、僕の好きな「人間性が豊かになること」「コミュニケーション」「世界事情」そういったテーマに英語で取り組む。

「人間性が豊かになること」
TEDの動画を見る。週に3〜4日。日本語の字幕を出しつつ、英文の全文を読みながら、スピーチを聞く。トピックは全て心を豊かにしてくれるものであるし、なによりもプレゼンテーションの上手さ、笑いのとり方、発音の仕方など学べることがたくさんある。
一つの動画の時間は15分〜20分だ。Facebookなんかをダラダラとチェックする時間があるのならば、TEDを一本見よう。

「コミュニケーション」
新聞で見つけた、"Vital Japan"という団体が開催する英語での勉強会に参加することにした。来週の土曜日が一回目。トピックは"2012 US Presidential Election - Communication Strategy & Implication for Japan"
比較的僕が興味を持っていたトピックであるけれど、しっかり話し合いについていけるのか。事前にしっかりと勉強をして望みたい。

「世界事情」
アメリカ大統領のスピーチ、ノーベル賞の受賞者の話、世界中のいたるところで行われている人の心を動かすような「平和」をトピックとした話が、僕は好きだ。そういったスピーチを、インターネットを利用して週に一回は聞いて、考えてみたい。また、大学の生協には無料でThe Wall Street Journal for Asiaが置いてある。それを読む。これは帰国後続けいていることだけれど、NHK World News Radio Japanを毎朝の自転車での通学時間にこれからも続けて聞いていく。


まだまだ出来ることはある。
合わなかったらやめて、また新しい楽しそうなことをやる。世界がどーだとか、政治がうんちゃらだとか、なまじ世界をみて新聞が好きで知識があるから、語るクセができてしまってる。評論家になるのはもうやめよう。
”行動者のほうがかっこいい”
心で感じて、頭で考えて、身体を動かす。
何かを成すのに遅すぎるということはない。今日は、残りの人生の最初の一日なのだから。


11/13/2012

Benedict Andersonのナショナリズム

世界には4つの『リズム』が溢れている。ナショナリズム、ポピュリズム、グローバリズム、テロリズム…

そんな話は、新聞を読んでいる人や社会に興味がある人であったらよく聞くことだろう。これらは全て、つながっている。でも、多くの人が本気で考えたり悩んだりしていないから、国が、世界が、社会が危ない方向に煽動されてしまう。


今日の朝日新聞のオピニオン欄に、ナショナリズム研究の第一人者、名著『想像の共同体』を執筆したBenedict Andersonがナショナリズムについての考えを語っていた。彼の考え方は、僕のもやもやとしたナショナリズムに対する考え方に光を与えてくれた。種を与えてくれた。ここから自分でどれだけ考えられるか。意識することができるか。それが大事なことだけれど、まずは先人の、賢人の知恵を学び理解することが大事だと思う。忘れないために、心に響いた彼の言葉を抜粋する。全て2012年11月13日のオピニオン欄より引用。
「自分の国がどうもうまくいっていないように感じる。でも、それを自分たちのせいだとは思いたくない。そんな時、人々は外国や移民が悪いんだと考えがちです。中国、韓国や在日外国人への敵対心はこうして生まれる。これはナショナリズムというよりは民族主義、人種差別的な考え方です」
「通常のナショナリズムは生活の一部であり、習慣やイメージであり、空気のようなものなのです。(中略)誰もが、『日本人』であることを当たり前に受け入れています」
「ナショナリズムそのものが悪なのではありません。それは、いわば社会の接着剤であり、人々に『自分は日本人だ』と感じさせるものです。(中略)そして、この当たり前の感覚が崩れるとしたら、それは社会の危機を意味します」
「本来、ナショナリズムは未来志向なんです。考えてみてください。私たちはなぜ税金を払うのか」
「黒人の権利、同性愛者の権利を認めるとき、人々は『彼らだって同じ米国人なんだから、同じに扱わなければ』と考えたはずです。国家という概念が、こんな考え方を可能にする。ナショナリズムは、人種偏見や性差別を乗り越えるのです」
「ネット上には、差別を助長するような内容の情報が漂っています。(中略)人は、自分が信じたいものを信じるものです。ネットでは、自分のお気に入りのリンクだけ見ていれば、他のニュースは見ずに過ごすことができる。政治、経済、国際などのニュースが一つになっている新聞とは正反対のメディアです。『リンクの世界』では24時間、特定の情報にだけ接して過ごすことができるし、グーグルで検索すれば何も覚える必要がない。コンピューターの前に座るだけの生活はもうやめたほうがいいと若者たちには言いたい」


日本人の、特に僕の世代の人々のナショナリズムは既に間違った方向に向かっていると思う。例えば、同時期に発生したオスプレイ配備問題と、尖閣諸島問題。なぜ、ナショナリズムは重すぎる負担を分担してくれと訴える多くの同胞より、むしろだれも住んでいない島に向かったのか。 メディアのせいだと煽る人がいるけれど、そのメディアを作りあげて支えているのも僕達のナショナリズムや、社会に対する無関心や無知である。


韓国人の友達が、日本が右傾化していることが怖いと言っていた。右傾化とは、国粋主義、自分の国の文化・伝統を他国よりも優れたものとして、排外的にそれを守り広げようとする考え方。Benedictが語るように、排外主義や人種差別は、ナショナリズムとは本来、別物であるのに、それが混同している。この傾向の行き着く先は、自明だ。
争い、奪い合い、憎しみあい、嫉み、妬み、無関心、非協力…
戦争だ。


僕たちは争いを求めているのだろうか。歴史は繰り返すというけれど、戦争が生んだ無意味な死も繰り返されなければならないのだろうか。涙が出る。


元米国大統領、ビル・クリントンは言う。
"We live to prove that cooperation works better than conflict."
「我々は、紛争よりも協力関係のほうが有効だと証明するために生きている。」 

戦争を生み出すのは、国や権力ではない。僕達一人ひとりの優しさの欠落、間違った愛の形、 無関心、そして間違ったナショナリズム。
正しいナショナリズム、Benedictの語るナショナリズムを、心の柱にして毎日を生きていきたい。僕のため、家族のため、社会のため、日本のため、世界のため、未来のためのナショナリズムを。

11/08/2012

言葉、アメリカの求心力

アメリカ遊学中(最近は、あまりこの「アメリカ」という言葉を使わないようにしている。それは、僕が留学していたSan Franciscoという街と僕を取り囲んでいた環境は、いわゆるアメリカではなかったから。人種のサラダボウルという言葉の極みをゆく街で、アジア人とヨーロッパ人入り乱れる留学生団体をベースに日々を過ごしていたから。でも今回はアメリカという一般論に関する話なのであえて使う。)、 International Relationship(国際関係論)という授業や、American Sign Language(アメリカ手話)という授業で与えられたDeaf(耳が聞こえない人たちのこと)というマイノリティから見たアメリカや世界文化比較に関する本で、「何をもってアメリカ人はアメリカ人たる意識を持つのか」ということについて学び考えたことがある。


アメリカの歴史は浅い。建国してから200年の歴史しかなく多民族多宗教が入り混じる。数代遡れば祖先はイタリア人・ドイツ人という人や、じいちゃんばあちゃんはベトナム人やチャイニーズという人たちの集まりなのがアメリカ。日本やヨーロッパ諸国のような家系図を見たらずーっと同じ民族であるというような単一民族国家(Nation state, mono-tribe country)とは異なる。外見も、祖先から受け継がれている思想も、家族感も異なる。それなのに、戦争や紛争があると国のために命をかけて戦う人がいる。税金を払う人がいる。家族のため、愛する人のため、それは当然。そのひとつ上の層にある、アメリカという国をまとめている力。彼らが拠り所にする、求心力をもつその中心にあるものは何なのか。


それに対する答えは、僕はアメリカ人でも専門家でもないのでそれが正しいのかよくわからないけれど、当時一緒に同じ授業を受けていた中国系アメリカ人(ちなみに彼はゲイ。ゲイの人が言うことは説得力があるように感じてしまうのはなぜだろう)の友達が言った答えが僕の中の結論になっている。
「アメリカを一つにしているもの、それは星条旗と英語だよ。」


留学終了後、僕は電車で1週間かけてアメリカ大陸を横断したのだけれど、その旅の最中にも彼の言葉を反芻しながらアメリカというものを見て感じていた。
東にすすむにつれて、白人が多くなり、街中に教会などが現れたり、広大な土地が広がっていたり摩天楼があったり…全く違う土地、景観、人々が住んでいるのだけれど、そこには必ず星条旗があった。目に見える軒先にも、目に見えない彼らの心の中にも。それは確かに彼らのなかでアメリカという、ネイションという、目に見えないものを具現化して視覚化して、広く深く彼らの心の中に刻み込まれているように感じた。


そして、もう一つ。英語。言葉。アメリカ人をひとつにしているのが言葉であるというのが、昨日決着のついたアメリカ大統領選を追っているうちに強く感じた。人々は候補者に言葉を求め、胸に響く言葉によって深め合う。当然政策であるとか外交であるとか経済といったものも考慮して人々は自らの票を投げる。しかし、そういった政策と同じくらい彼らが、そして僕も、注目しているのが候補者が放つ言葉であるようだった。
今回の選挙戦でも、"Forward"(先へ)、"horses and bayonets"(馬と銃剣)、"one nation"(一つのアメリカ)というような響きの良いオバマの言葉が討論会やスピーチで使われると、twitterなどのソーシャルメディア上で一気に拡散し、少なからず人々の思想に影響を与えたのだと思う。


改めて、言葉の強さやそれに対するアメリカ人の感度の高さ、言葉(とその中のメッセージ)がアメリカをまとめあげる求心力となっている要素のひとつなのだということが感じられた。そこにはメディアによる操作や、大言壮語で中身をもたないレトリックで、それに操られている国民は悲しい…といったようなことも言えるのだけれど。しかし、すくなくとも誰かの言葉に耳を傾けるということ、聞く耳や態度があるということ、そしてその中で国民一人ひとりが判断をする機会と自由と意識あるということは、素晴らしいと思う。
世界経済で3位の日本の政治家の放つ言葉に対して、僕たちはあまり聞く耳を持たない。政治家は発信をしているのに。
2位の大国中国の共産党大会が今日からはじまり、国のトップが変わるけれど、アメリカ大統領選のような熱狂はない。注目してみても、とてもクローズな感じでなんだか楽しくない。アメリカ大統領と同じくらい、世界に影響力を持つ人が変わるというのに。メディアの規制が強い中国では、海外メディアの入国を現在強く制限していたり、SNS上では「胡錦濤」「習近平」といった言葉は削除されている。


言葉って、本当に強くて危ない力をもっている。
オバマの勝利宣言スピーチを見ながら、そんなことをしみじみと感じた。それは政治の世界だけではなくて、僕みたいな普通の人にとっても。
John Mayerの"My stupid mouth"の歌詞を思い出す。





11/05/2012

"The transformative power of classical music"

僕は今、家のむかいの美容院で働いているおばちゃんに週一回1時間、英語を教えている。


60歳前のお向かいの美容師夫妻は、あと数年働いたらお店をしめて、将来はバリなどでのんびりと暮らす予定なのだという。それに向けて、英語の勉強を再びスタートしなければ…そんなことを思っていた矢先に僕が留学から帰ってきて、英語を教えてくれないかと突然家の前で頼まれた。


1年間の留学とバックパックを経たけれど、もちろんネイティブのようにペラペラと英語を喋れるようになったわけではない。誰かに英語を教えるなんてとんでもないレベルなので、最初は断った。それでも、おばちゃんに「まぁ、お互いにのんびりと英語を勉強するつもりでお願いします」と言われて、引き受けることにした。


正直に言って、おばちゃんは英語がぜんぜん喋れない。文法からやりなおさなければならないレベルだ。でも、彼女はこれから英語のテストを受けるわけではない。ただ誰かと笑顔でコミュニケーションをとるための英語や英会話を学びたい。だから、英文法を叩き込むような僕らが中学高校の頃にやったような英語をまた教えても意味が無い。


そこで、僕は自分が「いいなぁ」と思った映画や、youtubeや、音楽や、コラムを題材にして、おばちゃんの知的好奇心をくすぐるようにして徐々に英語に馴れていってもらおうと思っている。著名な人が放った金言や、音楽の詩とか、日本の文化や宗教のこととか、アメリカ大統領選のこととか…わかりやすくするために、それらを文字に起こして毎週おばちゃんに渡している。
おばちゃんのためを思ってはじめたことなのだけれど、「いいなぁ」と感じた言葉を日本語でも英語でも文字にして考えることは、それが心に響いた理由をしっかりと考え心に刻むことができていて、結果として僕のためにもなっている。


題材のいくつかは、このブログでも以前にいくつか引用して紹介した。
「世界がもし百人の村だったら」の英文(→"If the world were a village of 100 people"
TEDで見たスピーチ"The power of introverts"(→”「内向的な人が秘めている力」
Harvard Business Reviewの中のコラム「幸せになるために、夢をあきらめる。」(→”To Find Happiness, Forget About Passion


今日はまた、TEDで一つのプレゼンテーションを見て考えた。
Benjamin Zander "The transformative power of classical music"

「全ての人間が、クラシック音楽を愛でるセンスを持っている。ただそのセンス、可能性に気づいていないんだ。そして僕の仕事はその可能性を人々の中から呼び覚ましてあげる事。できたかどうかは、輝く眼をみればわかる。」

彼のユーモアある語り口調と、時折見せる少し悲しみを帯びた、心からの気持ちを込めたメッセージに心打たれた。


こちらのリンクはTEDのオフィシャルサイト、日本語の字幕つき。おすすめ。
(→”The transformative power of classical music"


こんな音楽の先生に人生の早い段階で出会っていたら、僕はなにも楽器を弾いたりすることが出来る人ではないのだけれど、「将来はクラシック音楽奏者になる!」なんてことを言う子供になっていたかもなぁ…そんなことを思った。


Benjamin Zanderがこのスピーチの中で言うように、統計ではクラシック音楽を聞く人は全人口の3%だという。僕は97%であった。でも最近、クラシックにふれる機会が少しだけあり、そしてこのスピーチを聞いて、もっとたくさん聞いてみようと思った。
Benjamin Zanderから、彼がスピーチの中で言う"shining eyes"をもらえたようだ。


今週末の、英語学習の題材は多分この動画。僕がいいなと思った彼の言葉をいくつか、引用。おばちゃんにも、僕の友達にも、本当にたくさんの人にBenjaminの伝えたい熱いメッセージが伝わってくれたら嬉しい。

"Classical music is for everybody."
"I've one last request before I play all the way through. Would you think of somebody you adore, who's no longer there. A beloved grandmother, a lover - somebody in your life who you love with all your heart, but that person is no longer with you. Bring that person into your mind, and at the same time follow the line all the way from B to C, and you 'll hear everything that Chopin had to say."
"I realized my job was to awaken possibility in other people. And of course, I wanted to know whether I was doing that. And you know how you find out? You look at their eyes. If their eyes are shining, you know you are doing it."
"I have a definition of success. For me, it's very simple. It's not about wealth and fame and power. It's about how many shining eyes I have around me."
"I walked out of Auschwitz into life and made a vow. And the vow was, I will never say anything that couldn't stand as the last thing I ever say."

11/04/2012

秋はなんとなく人恋しくなる。

なんとなく人恋しくなる。そんな季節、秋。


東京ではコートやジャケットを着飾る人々、「少し気が早いんじゃない?」とつぶやいてしまいたくなるけれど、マフラーや手袋を着けた人もちらほら見かける。
夏の陽気は人を大胆にさせ、露出も増えて、官能的・肉体的にに人の感性を刺激する。その後に続く秋の涼しさは、触れられる部分、目に見える身体が少なくなるせいか、誰かと心を通わせたくさせる。街を歩くと、肩を寄せ合い穏やかな笑顔を交わす人をたくさんみかける。文化の日、大学祭、デザイナーズウィーク、読書週間…そんな夏とは違った文化的・精神的な行事が集中する。いい季節だなぁ…と、朝眼が覚めて、青く澄み渡る空を仰ぎ見る度に思う。


昨日、父母に連れられて初めて高尾山に行って来た。
最近は登山がブームらしく、お洒落なマウンテンパーカーにマウンテンブーツを履いた僕と同年代の人が多くて、登山と言うよりは観光地へ赴いたような心地であったけれど、久々にそんな人ごみを経験したからなんだか楽しい。少し気の早い木々が紅葉を始めており、カラフルな山ガールの格好と山の景色とを交互に見ながらの、のんびりとした登山(というより、散歩)であった。いいなぁと思ったのは、あれだけたくさん人がいたのにゴミが全く落ちていなかったこと。小さな子供連れの家族がたくさんいて、雰囲気がやんわりとしていたこと。「紅葉と楓の違い」「ももんがとムササビの違い」といったような小さな発見があったこと。


10/27~11/9は2012年読書週間。
読みたい本をリストアップしてがっつりと図書館から借りて、父の本棚から何冊か本を拝借して、本漬けの日々にする予定だった。机の上には本の山。しかし、イベントや食事会、気の早い忘年会のような飲み会、社会人になった友達との久々のご飯といった機会がたまたま多く、まったく消化できていない。
特に決まったゴールがない、誰が、いつ、どんな話をしても自由である飲み会での雑談も楽しい。それでも、客商売をしているわけでも社会人では参加必須のお付き合いの飲み会をしなければならない立場ではないのだから、会いたいと思う人にだけ会って、会いたくない人にはなるべく会わずにすませる。1人になって、あるいは大事なひとと2人で、本と向き合ったり少し深い話をする。この季節はそんなささやかな贅沢をしてみてもいいんじゃないかなぁと思ったりもする。


朝のランニングの時に、最近はラジオを聞きながらのんびりと空気をめいいっぱい吸いながら走るのだけれど、選曲やその中の歌詞なんかが本当に自分の気持ちやツボにはまって嬉しくなったりする。
この前流れたのが、Des'reeの"You Gotta Be"。
歌詞の一部を引用。
Herald what your mother said Readin' the books your father read Try to solve the puzzles in your own sweet time 
母親が言っていたことを伝えて
父親が読んでいた本を読んで
そして、好きなだけ時間をかけられるときにしっかり考えてパズルを解こう
秋にするべきことって、この歌詞にある言葉に全て集約されている。そんな気がする。
その日は終日この曲をリピートしながら研究したり、本を読んだり。明日はどんな曲が流れるのか。楽しみ。おやすみ。







10/30/2012

「夕日の美しさに素直に感動できる勤勉な日本人でありたい。」

野田首相の国会所信表明演説より、「いいな…」とおもったフレーズを引用。

 誰しも、10代さかのぼれば、そこには1024人の祖先がいます。私たちは、遠い昔から祖先たちが引き継いできた長い歴史のたすきを受けつぎ、この国に生を受けました。戦乱や飢饉のさなかにも、明治の変革期や戦後の焼け野原においても、祖先たちが未来の世代を思い、額に汗して努力を重ね、将来への投資を怠らなかったからこそ、今の私たちの平和と繁栄があるのです。
 子や孫たち、そして、10代先のまだ見ぬ未来を生きる世代のために、私たちは何を残していけるのでしょうか。
 夕暮れ時。一日の仕事を終えて仰ぐ夕日の美しさに感動し、汗を流した充足感に包まれて、あしたを生きていく力が再び満ちていく瞬間です。10年先も、100年先も、夕日の美しさに素直に感動できる勤勉な日本人でありたい。社会にぬくもりがあふれる、平和で豊かな日本を次の世代に引き継いでいきたいのです。

僕の弟や、大学の友達が就職活動の時期を向かえる。
面接やグループワークを通じて、自分の力不足や社会を知らないことに直面し、やりたいことを模索し、悩み、志望する会社からふられ、落ち込み、志望が通り喜び…
今まで無関心でいた自分自身と向き合い、本当にさまざまな感情が冬の風とともにやってくる。

「自分のやりたい仕事が見つからない」
そういう人もたくさんいると思う。僕もそうだ。特出するような技術ももっていなくて、ただの頭でっかちになりたくないからフラフラと出かけて見せかけの知識を溜め込んでいるにすぎない。

仕事を選ぶ時って、結局、「俺は一体、私は一体何を幸せと考えるんだろう」っていうことからスタートするしかない。もちろん、そんなに簡単に結論は出ないし、一生死ぬまで答えが見つからない可能性が高いけれど、すくなくともどちらが自分にとってベターか、ということではなくて、どっちが「悪くはないな」と思えるか、そういうことだと僕は思う。

僕の父さんは、学生の時はメディア志望だったと、この前二人で飲んだ時に教えてくれた。僕の母さんは、ラジオDJにあこがれていたと昔言っていた。そんなふたりが、志望していた業界は念願かなわず、本命ではない保険会社で勤め偶然に出会い、僕が生まれた。僕の父さん母さんは、何か夢を追い求めたわけではないけれど、とりあえず、幸せそうだ。そして僕も、色々悩みはあるけれど、幸せだ。


幸せって、今現在の自分の内側にのみ存在するものではない。僕の外側、家族や、友達や、社会やコミュニティからくる幸せもたくさんある。10代前の1024人の幸せも、10代後の僕の血をひく1024人の子供たちの幸せも、しっかりとつながっている。


現代に生まれた僕達は、すぐに答えが得られる状況に慣れすぎている。わかりやすくて見栄えの良いものを自然と選択する。複雑で困難な課題に直面すると、単純明快でわかりやすい解決策や偏った極論をよしとしてしまう。でも、そういった極論の先に、真の解はない気がする。すぐに手に入るものを手に入れて、何かが上手くいってると思ってはいけない。すぐに役立つものはすぐに役にたたなくなる。そんなことを自分にいい聞かせている。


冒頭の所信表明で、野田首相は「夕暮れ」の話をした。この話と呼応するかのようなフレーズを、ドラマになった「オレンジデイズ」の脚本の中で北川悦吏子は綴っている。
「やりたくもない仕事で一日働いて、帰り道に見上げた空の夕日がキレイで、それだけで生きていて良かったとは私は感じられない。」
野田首相と、上の台詞を発したドラマの主人公。どちらの主張が正しいのだろう。それはきっと、一人ひとり違う。そして、違っていいのだと思う。
夢を追い求めるのも幸せであるし、素晴らしい。でも、幸せになるために夢を諦めるのも、僕は素晴らしいと思う。


空が澄み、天高くなるこの季節、一日の終りに綺麗な夕日が見れることが多い。
自分は何を幸せと考えるのだろうかとか、そんな少し哲学的なことを1人で、あるいは大事なひとと、考え話し合ってみてはどうだろう。
就活の第一歩は、企業研究をすることやインターンに参加すること、セミナーに赴いたり企業を考えることではなくて、今まで無関心だったり勘違いしていた自分自身としっかり向きあうこと。夕日をぼーっと眺めることは、忙しい毎日にそんなきっかけを与えてくれるはず。




10/25/2012

金木犀と記憶と記録

ランニングのみちみちに、金木犀が咲き誇っている。


昨日の台風のような通り雨で、オレンジの小さな花の多くは地面に落ちてしまったけれど、アスファルトに並ぶオレンジの点々もまた綺麗。雨に打たれてその儚くも特徴のある香りが一層際立つ。
「金木犀」を辞書で引いてみた。"orange osmanthus"とか"fragrant olive"とあまり聞き覚えのない言葉が出てきた。欧米ではマイナーな木や花なのだろう、アメリカや旅先で金木犀の花や香りに気づいたことがない。日本では昔から洗面所の窓の近くにこの木を植えたものだと母が言っていた。今ではラベンダーや石鹸の香りがメジャーになったけれど、一昔前まではトイレの芳香剤の香りというとこのキンモクセイの香りであったという。
小さい頃から社宅・マンションで住み暮らしてきた僕には、「庭に金木犀」なんて風流なものはなかったけれど、小学校・中学校にこのオレンジの小さな花は咲いていた。当時はなにも意識していなかったのだけれど、金木犀の香りを嗅いで、中学校の図画工作室の窓の外にあるその木と、その当時のことなんかをふと、思い出した。


嗅覚や味覚から過去の記憶が呼び起こされることを「プルースト効果」という。
フランスの文豪マルセル・プルーストの長編小説『失われた時を求めて』の中で、主人公がマドレーヌを熱い紅茶に浸して食べたことからさまざまな記憶がフラッシュバックして物語が進行していく…そんなさまから、この名前がつけられた。匂いや味をスイッチとして蘇る心の奥底に眠っている記憶、特別に努力して覚えておこうとしたのではないぼんやりとした記憶、そんな「無意識的記憶」を金木犀の香りが連れてきてくれて、なんだか嬉しくなる。


「無意識的記憶」ってなんだか面白いし素敵だ。
しかし、悲しいけれど、インターネットの普及でどんなものでも無尽蔵に記録することができる世界が出来上がりつつあるいま、「無意識的記憶」が薄れ弱まりなくなってしまう日もいずれ到来するかもしれない。
自分にまつわるものをすべてネットに取り組んで残そうとする「ライフログ」が当たり前の時代になった。文学の発明、活版印刷の実用化、コンピュータの開発…こういった進歩はまさに記録を残そうとする人類の欲求の表れだ。Facebook、twitterなどのSNSもすべて「ライフログ」である。今日食べたもの、出会った人、ため息やつぶやきもすべて記録したくなる。人間には自分や世界の出来事を残したい本能がある。


先日、研究室の友達とEvernoteのCEOであるPhil Libinのインタビュー記事を読んで少し話し合った。
「すべてを記憶する」「第二の脳」とうたう情報蓄積サービスのEvernoteを僕はサービス開始と同時に使い始め、その当時はその便利さやキャッチコピーに惹かれて使いこなそうと躍起になっていたけれど、最近は使うのをやめてしまった。「第二の脳」があったとしても、インプットやアウトプットの量が2倍になってスーパー頭よくなるわけでもないし、学生のうちはそんなになにかを効率的にこなす必要はないんじゃないかと思っている。そして、気がついた。無尽蔵のEvernoteに記録させたモノコトは、そこに情報があるという安心感のせいか、ふとした気付きやひらめき、「無意識的記憶」をもたらしてくれなくなるということを。「記録」と「記憶」は似ていて異なるということを。


僕は写真が大好きで、デジタルカメラや携帯カメラを日々使っている。写真に残しておけば、データとしてさまざまな情報は手軽に、即座に、無尽蔵に記録される。そこから生まれる安心感ゆえか、撮りに撮った写真を整理整頓したり現像しようという作業をしなくなった。間に合わなかった板書を撮った写真を見て、それをノートに写そうとはしなくなった。
素晴らしい景色を見て、写真に納める。あるいは誰かに出会ってすぐにFacebookで友第になる。その結果、手のひらの中のデバイスに記録できたことに満足してしまって、記憶をしなくなる。ふとした瞬間に思い出す必要がなくなって、思い出さなくなる…そんなことがあるのではないだろうか。


香り、味覚、あるいは視覚や音、5感で感じられる全ての刺激が「無意識的記憶」を呼び戻すスイッチとなりうる。そして呼び起こされるその記憶は、「第二の脳」やCドライブなどの中の記録からは出てこない。
効率的に生きるのは、もっと賢く大人になってからでいいと最近思い始めた。今はもっともっと「第一の脳」をしっかりと使って考え悩み、さまざまなリアルなことに敏感に真面目になって、日々を過ごす。それがきっと、50年後の僕の「無意識的記憶」の一端となっていて、素晴らしい思い出となっているはずだから。


記録より、記憶を。
人が死ぬ瞬間に見ると言われる走馬灯、一生の記憶のリピート現象。天国にいるじいちゃんに負けないぐらいたくさんの良い記憶や思い出に包まれて最後を迎えたい。走馬灯がすべてFacebookで事足りてしまうなんていうのは、なんだか悲しい。
そうならないためにも、感性豊かに、元気に、笑顔で、リアルな会話や出会いや体験を大事に、家族や友達や大切な人を愛して、毎日を丁寧に、生きていきたい。



10/20/2012

『小さな恋のメロディ』

映画を見ました。
『小さな恋のメロディ』(原題"Melody", "S.W.A.L.K")



1971年のイギリス映画。実に40年以上前の映画だけれど、素晴らしかった。当然話される英国訛りの英語や、主人公の子供たちが通う学校のギンガムチェックとブレザーの制服、階級社会、ティーカルチャー、宗教のクラス、ダンスパーティー…古き良き時代のロンドンがそこにはあり、当時の人の姿や生き方が上手くまとまっている。
最近は活字にどっぷりつかっており、想像力かきたて考えさせる活字文化の方が映像よりも素晴らしいなぁなんて考えていたのだけれど、映像でしか伝えられないことや雰囲気もあると再認識。もうちょっと、もっと、映画見たいな。

この映画のあらすじを、wikipediaより引用。

舞台はイギリス。伝統的な価値観を受け継ぐパブリック・スクールで、ささやかな対立がはじまっていた。厳格な教えを説く教師たちや子供に干渉する親たちと、それらに従うことなくそれぞれの目的や楽しみを見つけようとする子供たち。
どちらかと言えば気の弱い11歳のダニエルもそんな生徒の一人だったが、同じ学校に通うメロディという少女と出会う。二人はいつしか互いに惹かれあい、悩みを打ち明け、はじめて心を許す相手を見つけたと感じた。純粋ゆえに恐れを知らない恋の激しさはやがて騒動を巻き起こし、旧弊な大人を狼狽させる。
事情を聴くこともなく押さえつけようとする大人たちに対し、二人は一つの望みを口にする。それは「結婚したい」という驚くべきものだった。「どうして結婚できないのか」と問うが当然親も教師もとりあわない。ある日、教師が授業を始めようとすると教室はほとんどもぬけらの空であった。自分達の手で2人の結婚式を挙げようと同級生らが集団でエスケープしたのである。



この映画を見て、印象に残ったシーンと、感じたこと。

学校を休んで二人で海へ遊びに行くシーン。ダニエルが、メロディに愛の言葉を告げる。その後の会話。
「結婚しよう。」
「いつかね。」
「でも、どうして大人は結婚するとあんなに不幸になるのかな。」
「きっと全部わかっちゃうからかな。」
「両親や大人が、どうあるべきなのか私にはわからないわ…本当に。」
その後、学校を休んだことを咎められた二人。メロディは両親に、なぜ子供が結婚してはならないのかを尋ねる。


「いまダニエルと一緒にいたい。」
「地理も好きだけど、ダニーといるほうがいい。」
「幸福になりたいだけなのになぜ(結婚しては)いけないの?」
お父さん「私は君に幸せになって欲しいと願ってるよ。」
「じゃあなんで助けてくれないの?邪魔をするの?」

子供の、純粋な恋心と質問に、両親は何も答えることができない。


もしも、自分の子供にこんな質問をされたら、自分は、なんて答えればいいのだろう。
法律でそう決まってるから?社会的に許されていないから?養う力が備わっていないから?きっと他にもっと素敵な人がいるから?
大人の理屈や倫理を語る答えならばいくらでもみつかるだろう。けれど、それが本当に子供たちにとって正しいと思ってもらえる答えになるのだろうか。


もっと幼かった時、僕は、周りの大人は本当にわけわからんと思っていた。「なんで僕達の気持ちをわかってくれないんだ…」と。
それが今となっては、そう思っていた年頃よりも、自分の子供がそういった年を向かえる可能性のほうが高い年頃になってしまった。いや、むしろ丁度その中間といったところか。
お金のこと、将来のこと、他人のこと、社会のこと…そういったさまざまなものに配慮してバランスを取った生き方をするのが大人である。しかし、それが子供たちには見えていない。子供は無垢だというけれど、その通り。汚れておらず、純粋である。だから、彼らにそういった大人の論理を押し付けるのは間違っているし、だから、大人の考え方や意図を汲むことができない。いつの時代にも取り扱われる、「大人VS子供」というテーマ。『小さな恋のメロディ』を見て、自分が大人サイドに近づいているのだということを感じる。


小学校のころの友人が、春から先生になった。初めての担任は小学校1年生。彼が先生になってくれるなら安心だ…と心から思える、尊敬できる友の1人。
僕が彼を尊敬できる理由。それは彼が子供から全力で学ぼうとしている姿勢が伝わってくるからだ。先日、会ってゆっくり話をしたときに言っていたこと。
「自分の年の三分の1にも満たない子供を”教える”なんて…って最初は思っていたけれど、今は違う。彼らから”教わる”毎日だよ。」
7歳になったばかりの子供たちの、無限に自由に広がる思想と可能性を前に日々考えている彼は、きっと子供の気持ちを汲める大人にいつかなるだろう。それは物凄く難しくゴールのないものかもしれないけれど、彼なりの答えを導き出してくれると思う。そして彼の出した答えなら信じられる。真面目で、ちょっと適当な部分もあって、笑顔が素敵な変態のイマッチなら。


「シモと違って世界を見ていないから―」
そんなことを彼は言っていた(たしか)けれど、世界を見ている僕が凄いとはまったく思わない。日本にいようが、地元にいようが、働いていようが遊んでいようが、感じて考えられる人が僕は凄いと思う。
子どもという可愛く、厄介で、自由で、無限の世界を日々みて感じて考えている彼の放つ言葉の方が光り輝き生きている。僕も負けないでいたい。


子供を持ってもおかしくなくなった、あるいは既にもっている僕の友人達へ。
もしもメロディの純粋な質問、
「幸せになりたいだけなのに、どうして私たちは結婚できないの?どうしてそれを大人は邪魔するの?」
この質問をされたら、どう答えますか。
結婚という言葉をさまざまな自分がやりたいコトと置き換えて、大人という言葉を社会と書き換えてみる。みんなが常々抱いている気持ちに近いものが出来上がる。


だれもが昔は子供だった。この質問に対して考えることは、自分の中の子どもの気持ちと素直になって会話することだと僕は思う。無限に広がる可能性を摘むのは、いつの時代でも皮肉な笑顔をつくる大人と決まっている。
僕の笑顔は、まだ純粋か、それともすでに皮肉さに冒されているのか。子供たちと自分自身の写真を見かえし、質問の答えを考えてみる。


追記:以前見た映画の感想記は、これ。






10/16/2012

感情の言語化と数値化

東証一部の最年少上場記録を更新して、一躍時の人となったリブセンス代表の村上太一さん。
出身高校が一緒で、代はかぶっていなかったけれど同じテニス部で同じくキャプテンを務めていた。顧問の先生から、「下山ぁ、お前の雰囲気とかプレースタイルは村上太一っていうお前の3個上の代のキャプテンと似ててなぁー…」って話を何度も何度も何度も言われていて、面識はないけれど名前は知っていた。
(村上太一さんが、学院テニス部のことを話している記事を見つけました→<早稲田大学高等学院へ>


そんな村上さんが、今朝聞いていたラジオのインタービューで答えていた内容に関して。DJの質問に対しててきぱきと、25歳とは思えない口調と考え方で話す村上さんが、会社の経営理念や自らの信念というものを語る中でこう答えていた。
「社長になりたいという漠然とした考えはあったけれど、それが明確になったのは19歳のとき。感情の言語化ができて、ぶれなくなった。」


「感情の言語化ができると、ぶれなくなる。」
最近、その事実をものすごく感じる。僕はもともと「何かを書く」というのが物凄く苦手で、下手だった。「これいいな…」と思うことはあっても、それをアウトプットすることなく、上手く伝えられず、そして時間が過ぎるにつれて忘れていったり、ただそういった考え方を持っているだけで満足していた。しかし、それではいけないと最近になってやっと思い始めた。
人の感情は日々、時々刻々、移ろいそして忘れていくもの。この瞬間に大事であると思ったことやいいなぁと感じたこともいつかは失われる。だから、それらをしっかりと記録しておくこと。そして誰かにそれを伝えようとすること。備忘録ブログという形ですすめているこのブログを書いていることで、自分の中に生まれてきたさまざまなアイデアを再構築して、言語化することができている。結果、僕のなかのアイデアの間違いや矛盾点を見つけたりでき、ロジカルに話の流れをつくることができ、村上さんの言う「ぶれない」意見を持つことができるようになってきた。


この「ぶれない」意見は、おそらく間違ったモノのほうが多いと思う。それでも、こういった形でアウトプットをすることで、少なからず誰かが見ていてくれているし、そして自分でも何度も自分の記事を読み返すことで、間違いを正すチャンスを増やすことができている。アウトプットしてハイ終わりではなくて、その後のフィードバックを得るという点でも、できる限りこのブログは続けていきたいと思っている。


「読み書きソロバン」という言葉がある通り、昔から読み書きという「言語化」や、そろばんという「数値化」は大事なものとみなされていた。人間の文明がここまで発展できたのも、おそらく過去の過ちを言語化して忘れることなく記憶することができ、感覚に頼るのではなく定量的にものごとを判断することができたからであろう。「言語化」と「数値化」、さらに今後は「視覚化」や「意識化」なんていうものも社会のバズタームとなってくるかもしれない。


しかし、忘れないでいたいのは「言語化」の罠や、「数値化」の非道徳性だ。
「言語化」は、優れた表現方法をもっていると、そこにある感情や考えが優れているような錯覚をもたらす。ロジカルに話をすすめていくとその考え方が強く正しいように聞こえてしまうけれど、その論の発端となったアイデアが実は間違っていたりすることがある。言葉は万能ではない。広辞苑や多種様々な辞書を用いれば、この世の全ての事象を説明することができるのか。そんなことはない。「空は青い」と昔から語り継がれていて、僕たちは空を描くときには青色鉛筆を手に取るけれど、空は本当に青一色なのだろうか。そんなことはない。世の中には言葉で表せないものがたくさんある。


「数値化」にも「言語化」と同じくらいの罠と、そしてそれがもたらす非道徳性がある。「データがこのように示してますから。」おそらく社会に出ればそういった言葉を何度も聞くことになると思う。数値ほど明確でわかりやすい指標はない。それがゆえに数を出されると妙な説得力が増す。けれど、そのために、すべての考えや出来事を数値で表現する―これはつまり、みんなが最も理解しやすい数値、オカネに換算することが多い―と、非道徳的な考え方がまかり通るようになる。ベストセラーになった「それをお金で買いますか」の中でMicheal J. Sandelが説明するように市場原理が経済の範囲を越えて社会にまで及ぶと人間の非道徳性が増す。例えば、これは極論であるけれど、誰かがなくなった時に、悲しいという感情の前にその人の機会損失やどうやってその抜けた穴を補おうとか、「死亡者1人」としてしか処理できなくなってしまうこと。朝の通勤電車で自殺や死亡事故に巡りあって長い遅延を被ることがある。そんなときに「あーあ、なんでまたこんな時間に飛び込むんだよ。おかげで遅刻だよ…」って感情が亡くなった人を思い弔うよりまえに訪れること。僕たちは既に充分に道徳心が弱まっていて、数値化や市場化がすすむとその傾向には拍車がかかる。


感情を言語化したり、数値化することは大事であると思う。その結果、人は感情を誰かに伝えられるようになり、そのために思い悩み、間違いを正される機会を得て、ぶれなくなる。ただしそれらが完璧ではないということ、それらはあくまでもツールでしかないということを頭の片隅に入れておきたい。
「オーラ」、「音楽」、「美術」、「宗教」…そういった、感覚を数値や言語を用いないで表現するものが近年再認識されていたり、多くの人を魅了しているのも、きっと言語化や数値化につかれた人の無意識の選択なのかもしれない。

10/13/2012

Dear my friends from/in Europe,

Nobel Peace Prize 2012


Dear my friends from/in Europe,

Congratulations on your Nobel Peace Prize winning!
I know that there are so many problems happening among you guys, and some of you may doubt if EU has a right to get awarded at this moment. 
But I just want to say "Good Job!!" for the EU's decades-long historical role in promoting reconciliation, and PEACE.

I remember the conversation of exactly two years ago.
I have traveled to Vancouver with my study-abroad Engineering-Major friends Timo from Germany and Giorgio from Italy.
We were on the way to Vancouver on Route 5, Giorgio and Timo driving, I acting as a guide.
We talked a lot, from our backgrounds to future dreams, how weird and nice it is to study in states where our grandpa's generation battled against and lost to, and our nationalities.
I asked them,
"What do you think about EU? Do you guys have any idea about being a member of EU?"
Timo or Giorgio(I forgot who said) told me,
"Yes... I think I have a feeling that I'm a member of Europe over my nationality, and this kind of feeling among our age should be stronger than our father's age."
From this comment, one strong feeling came up in my mind that I'm a member of world which is changing at a slow speed, is wandering up and down, and is trying to get together.

Two years have passed since then, and found that it is not so easy to be one than I thought. Euro Crisis, Conflicts between countries, religious and tribe problems... those on-going problems are insinuating that world cannot be a global, but be a international.
However, I believe that the world will be a global in the future. It could be a 50 years later, 100years later, or 1000 years later. But I hope and believe that we can achieve it.
EU is a very first step of that. It could be a step in the wrong direction, but it is okay. We can step back and think about it again and again.

“The EU helped transform Europe from a continent of war to a continent of peace.”
Thorbjoern Jagland, Council of Europe Secretary-General, said.
I don't know politics much, I'm not an International Relation or Economics Major student, and I don't care who will pick up the gold medal of the Nobel Peace Prize.
I'm just happy to hear that EU got awarded, because there are my friends in EU members of 500 millions.

Again, congratulations! I would like to see you guys someday again;)
Take care, and peace,

Ryu