7/28/2014

台湾所感

初めて台湾を訪れた。
今回はバケーションとしての訪問であったので、あまり歴史的な場所を訪れることはなく、のんびりと街歩きをしたり、友人に会ったり、美味しいものを食べたり。
そんな旅のなかからも、感じたこと、見つけたこと、考えたことはたくさんある。
そんな所感の備忘録。


台湾は、僕が思っている以上に親日であった。
それは、おそらく、世界で最も親日な社会と言っても過言ではないように感じる。

台湾には、日本が占領(統治)していた時代があった。日清戦争後に台湾が日本に割譲された1985年から、第二次世界大戦が終わり中華民国に編入された1945年まで。
その時代には皇民化運動があり、台湾の人々は母国語を話すことが禁止され、日本語教育を受けさせられたり、様々な物資が接収された。当然、その当時を行きた人の中には日本軍や日本人に対して憎しみや怒りといった感情を持つ人が多数いてもおかしくはない。けれど、台湾はその後の中国本土からやってきた中国国民党の統治の杜撰さから、日本統治時代のほうがまだ良かった、むしろ教育やインフラを整えてくれて助かったと、相対的に日本の印象が良くなったという背景があるという。
「狗走豬擱來」、煩い犬(=日本)が去って、役立たずの豚(=国共内戦に敗れ遷台した中国国民党)が来た、そんな意味の言葉があったという。


日本統治時代の功罪については様々な意見があり、網羅するのが難しい。
話題を僕の台湾所感に戻す。

街の中心部には、日本由来の大型デパートが立ち並ぶ。SOGO、三越、阪急。
入っているお店も、店舗のレイアウトも、サービスも、ほとんど日本のお店とかわらない。そこで買い物をする人々のファッションも、仕草も、立ち居振る舞いなども、日本と同じものを強く感じた。
滞在中のお気に入りになった施設「誠品生活」
センスのいい雑貨やオーガニック食品が並ぶ
駅や町中にいる人々は、例えば中国五輪前に特に報道されたようなマナーの悪さなどは欠片もなく、ラッシュ時にもしっかりと整列して並ぶ。台湾のメトロMRTの中は飲食禁止。ガムですら食べてはいけない。当然ホームに自動販売機やキオスクなども設置されておらず、ゴミ箱も設置されていない。シミひとつない、綺麗なホームや社内は、日本以上だった。
入り口の近くに設置された「博愛座」(優先席)。
日本のそれよりも、しっかりとお年寄りに優先されていたと思う。
MRTの「博愛座」
名前が素敵だと思う
MRTの駅構内・社内で飲食をすると、
罰金(約2万5千円)を課せられる
 もちろん、日本と同等か或いはそれ以上のクリーンな生活環境に加えて、僕がイメージしていたような台湾の乱雑さや混沌さが残る場所もある。夜市や食品を販売するお店などの衛生状況は、「こんな蒸し暑いのに、外に出しておいて大丈夫?」と気にかかるようなことも多かった。
また、街中のいたるところで工事がされているけれど、昔ながらの道や建物は驚くほど古く、いまにも崩れ落ちそうな廃墟などが日本よりは多く見つかる。
古い町並みが残る迪化街(ディーファージエ)
有名な台湾の夜市には、屋台からの
独特な香りと熱気が溢れている
親日であることは、街のいたるところから感じられた。
日本人であることを伝えると、笑顔でもてなしてくれるお店の人々。片言の日本語で接客してくれる人も多く、そこにはお金目当ての作り笑いは全く感じられず、友好の気持ちが溢れ出ていた。
また、街のいたるところで日本語表記が見られる。例えば、Tokyo Disney Resortの広告をMRTの車内で見かけたのだけれど、そこには「夢の国へようそこ」といった文言がそのまま日本語で書かれている。思うに、日本人がフランス語や英語で表記されているものに無条件で憧れを抱くのと同様に、台湾の人々は日本のモノや文化に憧れを抱いているのだと思う。
前述した日本統治時代の歴史的な建造物の説明にも、「侵略」や「植民」といった言葉は(僕の訪れた場所では)見つからず、「治」という言葉が使われていた。そんな小さなところでも日本に対する意識が伺える。
Japanese colonial periodは「日治時期」と書かれていた

僕が今回得られた台湾の印象はとても好感的なものであったけれど、それはもちろん表層的な部分でしか過ぎない。もっと深いところでは本土中国と日本との関係で揺れている気持ちもあるのであろうし、反日感情を強く抱く人もいるのであろう。
しかし、こんなにも日本に親しみをもち、受け入れてくれる社会は、他にはない。お返しではないけれど、僕達日本の人々も、台湾の置かれている立場をもっと理解し、また彼らの言葉にも耳を傾けるべきだと思う。

昨年の留学中、研究室で最も仲良くなった台湾出身の友達と2週間のメキシコ旅行へ出かけた。その中で様々なことを語り合ったが、日本に好意を抱いていると断りを入れた上で、「日本の人も、ドイツのように、もっと歴史を学び、引き起こした悲劇に関して責任を感じるべきだと思う」と意見を述べてくれた。
同じ留学グループで台湾出身の友達は、僕が熱く日本について語っているときに、度々「それって思い込みじゃない?違うんじゃない?」と冷静な意見を投げ入れてくれた。

日中関係の悪化が叫ばれて久しい。
僕は、生まれ育った国のことを愛する気持ちは大切であると思うけれど、その愛する気持ちは気づけば危険なナショナリズムへと傾倒する。相手の気持ちを考えられない状態になっていることを自覚することは、自力では難しい。
そんなときに、日本のことをしっかりと思ってくれ、客観的に判断することのできる台湾の友人の意見などをしっかりと聞くべきだろう。親しい友人が語ってくれる言葉の中にこそ、本人は気がつかない真理が含まれていることが、多くある。

赤い提灯が魅力的に映え、大陸中国と日本、その他様々な国の文化を有機的に交えがら成長してきた台湾。また、ゆっくりと訪れたいと思う。



7/19/2014

もっと、手をつなごう。

ドイツから友人・Timoが訪ねてきた。
留学先で知り合った彼には感謝してもしきれないほどの恩がある。というのも、彼がほぼ毎週ビールを飲みに行こうと声をかけてくれ、たくさんの友達と引きあわせてくれ、会話する時間をつくってくれたから。
英語力が伸びたことはもちろん、お互いの国の文化、世界のこと、エンジニアとしてのキャリア、恋愛…たくさんのことを語り合った親友であった。




そんな彼が、初めてのアジアである日本を訪れ、街をぶらぶら歩きながら、ふと、言ったこと。
「日本人は、手をつながないね」
「ドイツ人はもっと手をつないでる?」
「ドイツ人だけじゃなくて、ヨーロッパの人は若いカップルも、おじいちゃんおばあちゃんも、もっと自然に手をつないでると思う」
日本人は、手をつながない。
それは、僕が異国を訪れるたびに得られるたくさんの気づきのひとつでもある。


異国の街を歩いていると、ひとりである寂しさがが余計にそうさせるのか、家族やカップルの姿が普段以上に目に入ってくる。そして、彼らはたいてい肩を寄せあわせていたり、手を組み合わせていたりすることが多い。
その姿は、とても、自然。
息を吸うように、会話を交わすように、とてもとても気軽に手をつないでいる。僕にはいつもそう見える。


いまでも心に残っている光景がある。
3年前の夏、パリのルクセンブルグ公園。白髪の、いまにも倒れてしまいそうなおじいちゃんおばあちゃんが、のんびりと手をつなぎながら散歩している姿。何気ない、どこにでも見られそうなワンシーンだったのだけれど、僕の心の深いところに響いた。
一人旅も2ヶ月を迎えるころで、たくさんの出会いを楽しみながらも、出会いとは不思議なもので、すぐに別れがくるんだ…悲しいなって、人との付き合いの有限性というか、儚さを感じていたまさにそのときであったから。人は結局は1人であるということを漠然と考えていた。
そんな矢先に出会ったおじいちゃん、おばあちゃん。出会った時のように、しっかりと手をつなぎ合っている様子から、恋って愛って素敵で強いなって心あらわれる気持ちになった。


手をつなぐことなく結ばれたカップルは、きっといない。でも、日本人のカップルはだんだんとみんな手をつながなくなっていく。キスもしない。ハグもしない。
新渡戸稲造はその著書『武士道』の中で、
「外では妻や子には厳しく接するが、家の中ではいたわるのが日本流、外ではラブラブぶりを見せていても、見えないところで妻を殴ったりするのがアメリカ流」
と、日米における妻や子に対する態度の比較を、ウィットに富んだ言葉で紹介している。我が妻のことを「愚妻」、我が子を「愚息」なんて呼ぶ武士的価値観の一環で、身内を褒めること=自らを褒め称えることを「美」としない日本古来からある価値観である。


日本人は、手をつながない。
美しくないから。恥ずかしき行為であるから。きっと、いまでもそんな価値観が残っているのだろう。
でも、手をつなぐ行為は、本当に今でも「美しくない」ものなのだろうか。
僕は古典的な考え方や美意識に憧れを抱いているし大切にしている。けれど、それら全てを良しとは思わない。時代の変化に合わせて、過去の価値観を守り続けるだけでなく、その価値観を変化させていく必要があると思う。


「愚妻」とか、「いや、自分の彼女は人に見せられるような人じゃないんで…」なんて謙遜使うの、やめません?
もちろん今でも謙遜であることは伝わるから本気で言っているのではないことはわかるけれど、やっぱりそんな汚い言葉を好きな人・愛する人に対して使うのは、今の時代では逆に無粋。もっと、身内を大切にしましょう。人の目線とかうんぬんとか言うけれど、今の世の中、思っているほど周りの人はあなたを見てはいないのだから。


その最初の一歩として、もっと、手をつなごう。
付き合い始めだけではなくて、これからも、ずっと。
大人も子供も自由に手をつなぎあえる「美しさ」が、共有されたらいいな、日本にも。