12/17/2016

「気分」というもの

久々に、文字を綴ります。


ブログを書くことができないほど忙しいわけでもなく、
かといって書くこと思うことがないから手が止まっていたわけでもない。

一言で言えば、単に「書く気分」ではなくなっていた、それだけのこと。
「気分」というものは、当然僕だけに限ったことではなく、とても大きく人の行動に影響する。
ある人は気分屋なんて言われて、それはつまり癇癪を起こしやすかったり冷めやすい人のことを意味して、
否定的なニュアンスが多分に含まれていたりする。
けれど、裏返せばこの「気分」というものは行動の大きな推進力や支持力と捉えることもできて、
ある期間に、何かを成し遂げるために必要不可欠な力も、「気分」なのだと思う。

そういう意味で言えば、僕もやっぱり気分屋で、様々な気分が出たり入ったりしている。
書く気分のときは、かつて、ひたすら文字を書いていた。
旅の気分のときは、とにかく海外に行きたくて仕方がなかった。
学ぶ気分のときは、カフェやレストランにこもって勉強した。
走る気分のときは、1ヶ月に200kmも走った。
服の気分のときは、良いファッションを知りたくて仕方がなかった。

そして、最近で言えば、山の気分と本の気分。
今年はたくさんの山に登り、たくさんの(主に山が関わる)本を読んだ。
数えてみた。
山行の数、13。踏んだピークは30峰をこえる。
読んだ本の数、91冊。写真集や漫画も、数には含めないけれど多く手に取った。
これもまた気分だとすれば、いつかは違う気分に取って代わる一時的なものなのだろうけれど、
それを積み重ねていくことが、ちょっと大げさに言えば、人生のようなものなのだろうと僕は思う。
気分屋、万歳。


話はかわり、来年1月から3ヶ月間、オーストラリア・パースへ行ってきます。

旅立つ前にオーストラリアに関する本を数冊読んだ。
アメリカやカナダと同じ「新世界国家」でありながら、異なる歩みを進んだ歴史。
個人主義のアメリカとマイトシップのオーストラリアとの対比。
そのマイトシップを拡張し築き上げた多文化共生という国のかたち。
そんな共生謳う政府と大いに矛盾するアボリジニ社会の問題。

多民族主義、多文化主義も、いろんな国から来た人の料理が食べられるとか、
様々な国の踊りや音楽、芸術が楽しめるといった段階では「楽しいね!」でこと終える。
けれど、異なる文化の衝突や軋轢が、法律とか国のかたちにまで展開すると、難しい。
折しも今年は英国のEU離脱とか、アメリカの独自路線が決まる様子を、目の当たりにしてきた。

文化の共存ってなんじゃらほいと、そんなところまで感じ考えることができたらいいなぁ。


9/04/2016

夏の思い出としての映画、『君の名は。』

彼女との約束を反故にして、安く映画見れるチケットも使わずに、他にもやらなければならないことがあるのに、ただただ衝動に駆られて1人で映画を見てきた。

新海誠『君の名は。』



僕の好きなRADWIMPSが全編の音楽を手がけていて、見たいと思っていたけれど仕事や勉強で忙しく、後回しにしていた。

今日、久々に東京の地元に帰ってきて、晴れ空を見上げた。
夏の空だった。
ピークを過ぎ去り、もうすぐ終わりに向かう美しく、そしてどこか懐かしい夏の空だった。

小さいころの夏の思い出は、母さんと、弟と、池袋に映画を見に行くことだった。
人混みだらけのサンシャインシティ60通りを行く。
ポケモンであったり、クレヨンしんちゃんだったり、大抵なにかのアニメの映画を見る。
その帰りにはゲームセンターでゲームをして、デパ地下でジェラートを買ってもらう。
なんでもない夏休みだけれど、だからこそ、しっとりと心に染み付いた僕の夏の思い出となっている。

年をとって、大人になって、今でも映画は見る。
けれど、そこには「夏の思い出」を喚起させるものは、ない。
季節を問わず映画を見に行くようになってしまったし、意中の人と近づきたいという下心があったり、好きな人との、数多あるデートプランの1つとして映画を見るようになってしまっている。
それを悪いとは思わないけれど、小さいころのような純粋な気持ちだけを抱いて映画を見たことが久しくないことに気がついた。

そんなことを歩きながら考えていたら、たまらなく映画が見たくなって、その足で見に行ってしまった。



映画はとにかく良かった。
鳥肌が立つぐらい甘酸っぱい青春の映画だった。でも、それをたくさんの大人が本気で届けているという事実。
子供は、子供なりにこの映画から何かを得るだろう。
大人は、かつての子どもとして何かを悟るだろう。
少し笑ったし、たくさん泣いたし、
なんか色々と話したくなった。

「おーい、今晩暇?俺今東京にいるんだけど、飲もうぜ!」

そう言って集まってきてくれた小学校時代の親友たち、4人。
数年ぶりに会った奴もいたけれど、思い出は腐らない。
小学校の時の足の速さ、自転車で繰り出した小さな冒険、意味もなく集めまくったオナモミと酒蓋、 恋愛と、映画の話。
飲み屋の閉店まで飲み続けて、友達の家で奥さんに怒られそうになるギリギリまで酒を飲んだ。

買い出しに行ってきた馬鹿野郎が花火を買ってきて、やろうぜ!って言って火をつけた。
晩夏の花火。
きっと、27歳になった今年の夏のハイライトは今日になるだろう。

子供は大人ではない。
でも、大人はきっと大きくなった子供だ。いつまでも。

兵庫、いまっち、隼人、たけち、ありがとう。
今日は本当に良い一日だった。


8/04/2016

あなたはどうして日本人?

英国は6月23日に行われた国民投票でEU離脱を選んだ。
その後関連するニュースが連日取り上げられ、その影響が、とりわけ経済面で及ぼすであろう悪影響がいまも盛んに論じられている。
でも、しかし、このタイミングで僕はもっともっと「国」という形式について議論や解説があってもよいのではないかと思う。英国・UKという国が、EUという枠組みを離れる決意をしたこと。これは国という形式に現代の人間はまだまだ依存しているということを強烈に示したものである。
国という人工組織から卒業できない、現代人間の限界を示しているものであると僕は思う。


大きな問題だけれど、よくよく「国」について考えてみると、これは全くもって人間が作ったものである。数千年も前に、人間の恣意によってできた形式に事を発している。そして、1000年、2000年もそういう形式を継続した結果、多くの人間の心の拠り所、根付く土台としての堅牢な「国」ができあがった。


親の思想、学校の教育、日々接する情報(昨今巷にあふれる「日本」「和風」を強調したテレビ番組とかね)、そして税金の納める先とそれにより得られる保障の由来などから僕らは知らずしらずのうちにナショナリティーが芽生えたり、あるいは植え付けられたりする。
この世に生まれ落ちたばかりの赤子は、実は純粋無垢な「人間」であって、「◯◯人」ではない。そういったナショナリティーはすべて後天的なものであり、だから、先天的日本人なんてものは実は存在しない。


そこで、タイトルの質問。
このブログを呼んでくれている方の多くは自分自身を日本人であると認識している人だと思うので、「自分はどうして日本人なのか?」「なぜ自分が日本人だと思うのか?」、少し考えてみてほしい。


日本国籍を持っているから?
なぜ、日本国籍を付与されたのか、さらにその先を考えてみたことがあるだろうか。
日本列島に生まれたから?
じゃあ、生まれ落ちた場所(さらには育った場所)が日本の領土の外だったら(例えば返還される前の沖縄生まれの人)日本人とは呼べないのだろうか。
父母・先祖が日本人だったから?
現行の「国籍法」による日本国籍の定義では正解かもしれない。日本は血統主義、身体を流れる血液によって定義される。でもさ、身体を流れる血なんて、輸血できるんだから、世界中皆一緒じゃん。
国籍なんて他の国籍を取得すれば喪失してしまう実はとても形式的なもの。


僕が言いたいことは、国籍の定義だとかそういう細かい法律の話ではない。
国というものは誰かが勝手に定義した形式であって、人間はそんな形式には本質的にはとらわれていない、とらわれるべきではない存在なのではないかと思っているということ。


もちろん国家という枠を取り外すなんていうことは、非常に大変な作業で、僕らが生きている間にできることではない。でも、人間として難しいことではないと僕は感じる。大切な人を思う気持ちを、肌の色、宗教、言語、思想、出生地が違う人々に抱くことができればオッケー。
きっとそれだけで、
「あれ、国ってよくわからん形式に固執して怒ったり叫んだりしてなんかかっこ悪かったね、ごめんごめん」 
って世界中の人が思う日がいつか来る、来てほしいと僕は思う。


2012年のノーベル平和賞で『EU』が受賞したとき、僕はとても感動してメッセージを綴ったりした。(→Dear my friends from/in Europe,
『EU』という枠組みは問題だらけではあったけれど、「国」という形式を超えた新たな一歩、人類の進歩だと思っていたから。今回のUKのEU離脱は、そんな理想と逆行する動きで、僕はとても悲しい。


でも、あらためて人間と国について思いを巡らせる良いきっかけを得た。少し「日本人」というものに固執しすぎていた自分の立ち位置を、「地球人」に寄せるきっかけになった。(→「日本を勉強しようと思い立った」


「国なんて形式はさ、どうでもいいじゃん。俺たちみんな地球人なんだし。」
そうやって話しながら肩組み合って、酒飲んで、歌って、踊って、互いの文化を尊重して、平和に生きる。
そんな姿を究極の理想形として、心のなかに宿しておきたい。



7/04/2016

"LIFE!", 「人生の真髄」について

映画を見ました。

「LIFE!」(原題:The Secret Life of Walter Mitty)


2014年日本公開の映画、以前に予告編を見て、きっと自分の好きなジャンルの映画だろうなぁ見たいなぁと思い続けていて、やっと見ることができた。そして想像通り、自分自身の心に刺さる映画でした。

「LIFE」は僕もそのロゴに見覚えがあるアメリカの雑誌。1936年から2007年まで刊行され、その表紙に代表される素晴らしい写真を使用し、アメリカの思想・政治・外交を世界に魅力的に伝える「グラフ雑誌」であったという。(出展:Wikipedia-ライフ(雑誌)
2007年に刊行を終了、現在はオンラインに移行している。(→LIFE | TIME

映画はその移行期を描いているようで、体制の変更、社員の首切り、いけ好かない再編担当者を前にして、主人公である冴えないサラリーマン、LIFE社の写真ネガ管理部のWalter Mittyが最終号の表紙となる「25番」のネガとその撮影者であるカメラマンを探すというストーリー。

この映画はコメディタッチになっていて、主人公の妄想が随所にはいってくる。
笑い要素も多いのだけれど、芯に据えられていつのは以下の「LIFE」誌のモットー。
「To see the world,
Things dangerous to come to,
To see behind walls,
To draw closer,
To find each other and to feel.
That is the purpose of life.」 
「世界を見よう
危険でも立ち向かおう
壁の裏側を覗こう
もっと近づこう
もっとお互いを知ろう
そして感じよう
それが人生の目的だから」 
この言葉を、純粋に多くの人に伝えたい、広げたい。撮影者達や原作者はそんな心意気を抱いてこの映画の作成に臨んだように思われる。

旅、写真、冒険、雑誌、ジャーナル、絶景、自然…
一歩を踏み出すことで得られるものの素晴らしさ(あと、少しの痛み、悲しさ、孤独)を知り、それを心に届けてくれる/とどめてくれるツール達を愛してやまない人たちにとって、この映画はきっと心に残るものだと思う。
映画のキーワードであり、最後のオチにもつながっているように僕には思える言葉、"Quintessence of Life", 「人生の真髄」。
何が「人生の真髄」であるかについての素晴らしい模範解答を提示してくれる作品でもある。

是非、見てみてください。

そして旅について、人生について、話しましょう。
To be a man is to be responsible: to be ashamed of miseries you did not cause; to be proud of your comrades' victories; to be aware, when
setting one stone, that you are building a world.
−Antoine de Saint Exupéry

4/01/2016

社会人2年目、三現主義、挑戦する姿勢

社会人生活の1年目が終わり、今日から2年目となりました。


1年間、エンジニアとして必要な知識を学ぶ座学と天然ガス生産の現場・LNG受け入れ基地でのOJTが続いた。お金を生み出すような仕事はほとんど行わなかったけれど、振り返ってみれば、昨年の今頃は知り得なかった様々な知識・経験を積むことができた。

もっと実務に携わりたいなぁと少し腐っていた時期もあったし、これが自分自身の描いていた社会人像なのだろうか?と考えた時期もあった。
けれど、お金をもらいながら学ばせてもらえている環境に感謝して、積極的に学ぶ姿勢を保ち続けようと努力することができたように思う。
残り少しのOJT期間もこの気持を抱き続けていきたい。


先日、5月以降の配属に関する面談があった。
専門はどうするか、勤務地はどこを希望するか、中長期的にどのように仕事に携わりたいか…。事務系であっても技術系であっても、どのような会社であっても、人事面談で聞かれることに大きな違いはないと思う。

面談に臨んで、思い出した言葉が2つある。

1つは、僕の会社の技術系の役員さんが入社後に伝えてくれた言葉、「三現主義」。
「三現主義」とはトヨタやホンダなどのものづくり企業が実践している考え方であり、
  1. 現場
  2. 現物
  3. 現実
の頭文字からとったもの。
机上の空論ではなく、実際に「現場」に赴き、「現物」を確認し、「現実」を認識した上で問題解決を図る
そんな考え方や行動の仕方。

僕は大学院を出て、工学の修士を得ているけれど、圧倒的に経験値が足りない。(さらに言えば「工学」に関する知識も足りない)
学歴があるぶん頭でっかちになって、実際の現場を見もせず机上の空論を振りかざしてばかり。無意味な提案をする。現場に迷惑をかける。
このままOJT研修を終えて、再びスーツを来て、デスクワーク中心の生活に戻ってしまったらいずれそんな嫌な先輩・上司に自分がなってしまうように思えた。
そうなりたくはなかった。

もう1つは、大学院のときに受講した「技術系経営幹部講話」という講義の中での言葉。
この授業は技術系のバックグラウンドを有した経営幹部が、自身のキャリアアップの跡をたどりながら、それぞれのレベルでの目標の立て方や課題への取り組み方などを教授する科目。
様々な大企業の経営幹部の方々の話の中で、印象に残ったある企業の社長の言葉。
「私は、なるべく本社から離れた現場で仕事がしたかったんですよ。ふりかえると、田舎の工場長だった時代が一番楽しかったですね。本社のうるさいルールに縛られずに、色々なことに挑戦できた。失敗しても本社の権力から離れていたから許されたことも多かった。だから若いあなた達にも、工場長を目指してたくさん失敗してほしい(笑)」
ひょうひょうと話すその姿には威圧的な雰囲気はなく、人を引き付ける魅力があった。
そうなりたいと思った。


2つの言葉を思い返しながら、面談で希望を伝えた。
都会の綺麗なオフィスでの業務や、海外出張・勤務に憧れる気持ちもある。
けれど、若いのだからなるべく現場に近い場所で経験値を積みたい。
泥臭く仕事をしてみたい。

「三現主義」と「挑戦・失敗する姿勢」を常に持ち続け、いざ2年目。


3/24/2016

「倫理と科学」

卒業した大学のOB/OGに届くメールに、心に残る随想が寄稿されていた。
本文中に出てくる小貫天先生は、僕の指導教授の恩師でもある。
「倫理と技術」について同様の言葉を先生から飲み会の席で伺ったことがある。

科学技術の進歩を、人を殺める道具の進化を例にして考えてみる。
投石から始まり、弓矢、刀、鉄砲、爆弾、核兵器、化学兵器…より残虐性を増し、より多くの人を殺傷する能力を高めるようになっていく。
これらは科学技術の進歩によるものであり、ほぼ不可逆的なものである。
だれも弓矢や刀という古い技術を、運動エネルギーを用いようとはしない。

しかし、それを扱う人間はどうだろう。
弓矢を用いて争っていた人々と比べて、現代に生きる僕たちは進化しているのだろうか。
一瞬の感情の昂ぶりを抑えるだけの道徳心を、僕たちは涵養してきているのだろうか。
他者を思いやる気持ちを、僕たちは広く共有できているのだろうか。
下のエッセーにあるとおり、僕ら人間の倫理・道徳は科学技術とは異なり蓄積されない。

「あいつムカつくな、やっつけてやろうぜ」
そんな気持ちから振り下ろした腕によって、石が投げられる時代から、ミサイルが飛び交う時代を僕らは暮らしているのだ。

僕らが優先的に行わなければならないのは、テストで良い点数を叩き出す公式を覚えることや大金を稼ぐノウハウを蓄積することではなく、道徳心を磨くことなのではないだろうか。
無慈悲なテロのニュースを見るたびにそんなことを、ふと考える。


以下に、全文を引用させて頂きます。
矢幡明樹様(1964年電気工学科卒)
「倫理と技術」 
 もう随分昔の話になるが、私は大学院時代の恩師(小貫天先生)の最終講義に行って、非常に感銘を受けた話を聴くことができた。その恩師も、「実はこの話は大学時代に高木純一先生から聴いた」と言われていた。私も大学の教壇に立っていたときに学生にしばしばこの話をした。この話の主旨は次のようなものである。 
 「技術は蓄積であり、ある人が発明・発見・開発した技術を基礎として次の人が成果を積み重ねるので、どんどん進歩していく。しかし、倫理とか道徳というものは個人に属すものであって、その人が亡くなれば、その人の倫理観とか道徳観は無くなってしまい、積み重ねができない」 私なりの理解も含めて、もう少し話を展開して見る。 
 人間の行動原理は「本能」、「感情」、「利害」がベースとなり、それに「倫理・道徳」と「社会的制度・慣習」が影響を及ぼしている、と言ってよいのではなかろうか。「倫理・道徳」は「利害」とは無関係に、人を自由意志による社会的行動に導く。「社会的制度・慣習」には、刑罰・報償などの実際的な損得で行動を規制・誘導する「法律」等と、天国・地獄やご利益(りやく)・罰(ばち)などの抽象的な損得で行動を規制・誘導する「宗教」が考えられるが、行動に影響を与える要素としては「利害」の下位の要素としてもよい。 
 さて、「倫理・道徳」は社会において蓄積されて進歩していくものであろうか。教育などによって作られる社会全体の道徳的規範というものはあろう。その規範は時代や民族・文化によって異なったものになるが、現代人が昔の人より道徳的に優れているとは決して言えない。法律を厳しくして、反道徳行為を少なくなったとしても道徳観が進歩した訳ではない。親の生活態度が子供に影響を与えることはあるが、親が道徳的に優れていても子供がそうなるとは限らない。人は育つ環境や教育などの社会の影響を受けて、「倫理観・道徳観」を生まれたときから自分の中に育てていく。 
 一方、技術は過去の成果を基礎として進歩していく。技術の進歩は一方向性で、退歩することはない。公害の原因となるような好ましくない技術もあるが、そういう技術は使われなくなるか、それを克服する新しい技術が出てくるだけで、技術が退歩する訳ではない。 
 問題は、限りなく進歩を続ける「技術」を扱う人間の「倫理・道徳」の進歩は本質的に期待できないことである。つまり、一人の不心得者の「技術」の悪意の使用により、世界が破滅や破綻するような可能性がどんどん増えていくことであり、それを止める手立ては残念ながら見あたらない。理工系人間は社会に対して大きな責任を負っているのである。 
以 上

3/13/2016

僕の3.11

東日本大震災から5年。
職場では弔意を表す半旗が掲げられ、2時46分には1分間の黙祷が捧げられた。
5年間、長かったような、短かったような。
1分間、長かったような、短かったような。
時間は流れていく。

職場で、同期と、地震があったとき何をしていた?と雑談をした。
大学にいた人、部屋にいた人、旅行をしていた人…。
みんなそれぞれの3.11を体験し、それをしっかりと心に刻んでいるようだった。
「東日本大震災が発生した時、俺は留学先で友達と一緒に飲み歩いていたんだよね」
5年前の、ある1日の記憶。
一昨日の夕食ですら言えないのに、覚えていないのに、僕らはきっと3.11の記憶を生涯にわたり語り続けるだろう。
恋人に、友人に、子供に、同僚に、孫に。

5年が経ち、僕の記憶も風化をはじめている。
10年後、僕は子供に当時の記憶をしっかりと伝えられるだろうか。
20年後、僕は部下に記憶を語れるだろうか。
30年後、40年後、僕は子供が好きになった人にうるさい親父として喋れるだろうか。
50年後、60年後、僕は孫に何かを伝えられるだろうか。

僕の3.11を思い出せるうちに書いて残しておこうと思った。


5年前の2011年3月、僕は2010年8月から始まった交換留学でアメリカ・サンフランシスコにいた。
日本時間の3月11日金曜日2時46分は、米西海岸の現地時間では3月10日木曜日21時46分。毎週木曜日の夜、世界各国から集まった留学生は"Thirsty(Thursday) Night"と題してサンフランシスコの街中のバーを飲み歩くイベントを開催していた。
その実行委員の一人であった僕は、夜の22時頃にそのバーに向かっていた。ヨーロッパ系が多い留学生団体の飲み会は、毎回スタートが21時前後、参加者はバラバラの時間にバーに集まり、思い思いのままに飲み語るという緩い集まりだった。



その日のThirsty Nightは、CIRCAというマリーナディストリクトにあるおしゃれなレストラン&バーで企画されていた。留学生グループのFacebookページ(まだ、残っていた。懐かしい。)で、企画者のDanaeが次のようなポストをしていた。


アメリカのバーは年齢確認が厳しい。
合法的にお酒が飲める21歳以上であることをパスポートや免許証で見せなければバーへの入場すら断られる。しかし、CIRCAはレストランでもあるので、当日は18歳以上であれば入場できるはずだとDanaeは話していた。

18歳以上ならば普段は行けないメンバーも参加できる!と、僕はアジア系の留学生に参加を呼びかけた。そして、僕自身は留学仲間で親友の恭平と、彼のアメリカ人の彼女を誘った。
二人とも18歳以上21歳未満であり、バーへ潜り込むのに毎回苦労していた。
「今日は一緒にバーで過ごせる!楽しもう!」
僕ら3人はDivisadero St.にある恭平の家に集まり、軽く飲んで、21時過ぎに夜遊びに向かった。

バスの22番に乗り北へ向かい、確か降りるバス停を間違えて、Fillmore St.の急な坂を歩いている時に、友達の彼女がiPhoneを見ながらこういった。
「竜之介、恭平、日本で地震があったみたいだよ」
僕も恭平も、インターネットが使えるようなスマートフォンは持っていなかった。
「日本では地震はよくあるんだよ、気にしなくていい。それよりも飲み会に遅れすぎた、急ごう」
CIRCAに到着したのは22時頃だったと思う。
店の前ではアジア系の留学生が集まっており、なにやらもめていた。
「18歳以上でも入れるって言われて来たのに、キックアウトされた!入れてもらえない!」
CIRCAからはダンスミュージックが漏れ聞こえ、中はクラブのような雰囲気になっていることがわかった。入り口に立つIDチェックをする人にパスポートを見せ、僕は中へ入ってDanaeを探した。彼女は留学生達とフロアで踊っていた。
「ごめんなさい、このお店も夜は21歳以上だったみたい」
酔っ払った彼女はそう言い捨て、踊りに戻った。僕は外へ出て、アジア系の留学生たちと一緒に来た友人にその旨を伝えた。アジア系の留学生は呆れて帰り、僕も、恭平と彼女をその場に残すわけにもいかず、ぶらぶらとマリーナディストリクトの夜の散歩をして帰ることにした。
おしゃれなカップケーキ屋、高級な紳士服や、閉店しているカフェを通り過ぎ夜風に吹かれていた。坂を登り帰りのバスを捕まえようとしていたら、再び恭平の彼女が行った。
「さっきの地震だけど、相当大きかったみたいだよ」 
胸が、ドキッと鳴った。
大きいってどれくらいだ、アメリカ人の彼女に地震の大きさの判断がつくのか、とにかく急いで家に帰ってインターネットで調べよう。僕はちょうど来たバスに乗り、家へ向かうことにした。


焦る気持ちを抱いてバスに揺られていたら、テキストメールが携帯に来た。
カメラ好き同士で仲良くなった、フィリピン系アメリカ人のJonからだった。
「竜之介!お前の家族は大丈夫か?東京が津波に襲われたみたいだぞ! 」
身体から血の気が引いていく感覚だった。東京が津波に襲われた?家族?いったいどうなっているのかわからず混乱した。
関東に実家がある留学友達のチャコに電話した。ニュースとか見てる、日本で地震があったって聞いたんだけど、と伝えたら、電話からは鳴き声とどなり声が飛んできた。
 「今更何言ってるんだよ!!日本が大変なことになってるよ!!東北で大地震があって、家族に連絡がとれないんだけどどうしよう…」
いつも明るく元気な彼女が、ボロボロに泣いていた。
僕もいよいよ気が気じゃなくなった。知りうる限りの日本人の友だちに電話をし、情報交換をしながら、家に駆け戻った。

部屋に着くやいなや、インターネットで日本のニュースを調べた。
東北地方で震度7という情報、大津波や火の海の映像が次々に入ってくる。
調べる手が震える。
目から涙が溢れてくる。
国際電話で実家に電話をかけたが、つながらない。しかし、Skypeで母さんを呼び出したらすぐに出てきた。東京もすごく揺れたけど、被害は東北のようにひどくはない。母さんと弟は無事、東京で働いている父さんとは携帯では連絡がとれないけれどきっと大丈夫であると聞いた。ひとまず、安心した。
Jonが伝えてくれた「東京で津波」は、どこかの海外ニュースが間違えて伝えた速報だった。

この時点で、サンフランシスコの時刻は深夜を回っていたと思う。
それから、朝まで、ひたすらパソコンの前でニュースを見続けた。ニュースから目が話せなかった。
津波、原発、被害状況、安否情報。
NHKやTBSが、ウェブサイト上でニュース番組を特別に放映していたために、アメリカにいながら日本の情報は逐一入ってきた。
弟からSkypeで連絡があり、父さんが無事だったこと、勤務場所から歩いて4時間ほどかけて家までたどり着いたことを教えてくれた。
アメリカのテレビニュースでも日本で起きた地震と津波と原発の映像が何度も流された。

外が明るくなってきたときに、家族が安全だった安心感からか、泣きつかれたからか、僕はパソコンの前で寝落ちた。
長い長い夜、僕の3.11はこのようにして終わった。

それからの日々は、日本で地震を経験した人とは少し違う日々を送ったかもしれない。
日本では大変なことが起きているけれど、何事も無く過ぎていく留学先の日々。
アメリカ人、留学生の友達からは「家族や友達は大丈夫だった?」と聞かれる日々。
津波の被害と原発の状況の情報「だけ」が暴力的なぐらいに眼と耳に入ってくる日々。
何かしなければと焦りながらも、遠いアメリカにいて何もできずにいる自分にもどかしく感じる日々。

日本人留学生団体が、キャンパスで募金活動を始めた。
僕ら交換留学生もそれとは別に、チャコとユキが中心となり日本食レストランでの募金活動を始めた。
授業には通常に出席した。留学生団体の仕事も努めた。
Candlelight Vigil、チャリティイベントにも参加した。
それでも、心が一つに定まらず、虚無感と意味のない焦りが僕を遅い、味のしない砂を噛みしめているような日々が続いた。
その時の気持ちを、拙い言葉で残していた。
(→2011年3月20日、All Over Coffee: 遠く離れたアメリカから出来ること。





それからは、徐々に、普段の生活へと戻っていった。

節電のために真っ暗になった東京の夜や、企業が広告を自粛したために流れ続けたACのテレビCM、地震速報の音が携帯から鳴り響いた日々や、コンビニから品物がなくなったことは、後から家族や友達から聞かされて知った。
留学を終え、バックパック旅を終え、東京に帰ってきたのは震災から6ヶ月後の2011年10月。東京の街はほとんど元の姿を取り戻していた。


以上が、僕の3.11と、その後の日々。
特別なドラマが有ったわけでもない、普通の一般人である僕が経験した震災の日とその後の日々の出来事。

5年が経過した。
震災の風化が、メディアで盛んに叫ばれている。

5年前、僕はブログにこんなことを書いていた。(→All Over Coffee:Consulate-Genaral of Japan
復興活動の最大の敵は、風評被害でも憎しみでもなく、無関心だ。
これからも続く復興活動に参加することはできなくても、常に情報を追い続け、現在の復興ステージを知り、関心を持ち続け、忘れる事のないようにしていきたい。
風化をすこしでも食い止めるための、備忘録としたい。

3/10/2016

大切な人に薦めたい12冊の本

彼女から、本をおすすめされました。

ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か


彼女が勤める会社の尊敬する先輩が薦めてくれた本だという。
会社の先輩、両親、親友、彼氏彼女、恩師…自分と深く関わりを持つ人から薦められた本というものには、様々なメッセージが込められている。
その本から得られる知識の他に、なぜ、大切な人がその本に感銘を受けたのか。
それを想像するだけでもきっと人生は豊かになる。

「おすすめの本のリストを作って教えて」と、彼女から言われました。
そういえば、本はたくさん読んでいるけれど、あまりおすすめとかはしていなかったかも。

大切な人に薦めたい本を思いつくがままにリストにしてみました。
また増えたら、追加するかも。
彼女だけではなく、その他の僕が大切だと思う人たちに読んでもらえたら嬉しいです。

  1. 人間の土地 (新潮文庫) サン=テグジュペリ (著), 堀口 大学 (翻訳)
  2. 愛するということ(紀伊國屋書店) エーリッヒ・フロム (著), Erich Fromm (原著), 鈴木 晶 (翻訳)
  3. 場所はいつも旅先だった(集英社文庫) 松浦弥太郎 (著)
  4. 坂の上の雲 (文春文庫) 司馬 遼太郎 (著)
  5. 幸福論 (岩波文庫) (著), Alain (原著), 神谷 幹夫 (翻訳)
  6. いかにして問題をとくか(丸善) G. ポリア (著), 柿内 賢信 (翻訳)
  7. 男の作法 (新潮文庫) 池波 正太郎 (著)
  8. 自分の小さな「箱」から脱出する方法(大和書房) アービンジャー インスティチュート (著), 金森 重樹 (著), 冨永 星 (著)
  9. アルケミスト―夢を旅した少年 (角川文庫―角川文庫ソフィア) パウロ コエーリョ (著), Paulo Coelho (原著), 山川 紘矢 (翻訳), 山川 亜希子 (翻訳)
  10. ザ・プロフィット 利益はどのようにして生まれるのか(ダイヤモンド社) エイドリアン・J・スライウォツキー (著), 中川 治子 (翻訳)
  11. アメリカのデモクラシー (岩波文庫) トクヴィル (著), 松本 礼二 (翻訳)
  12. これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学(早川書房) マイケル・サンデル (著), Michael J. Sandel (原著), 鬼澤 忍 (翻訳)

1/12/2016

『ブリッジ・オブ・スパイ』

映画を見ました。
『ブリッジ・オブ・スパイ』


舞台は、アメリカとソ連が冷戦状態にあった1950年から1960年代。
アメリカ人弁護士、ジェームズ・ドノヴァン(トム・ハンクス)は保険分野の裁判を主に扱う実直な男。愛する妻と、子供達に囲まれ、一人の善良なアメリカ人として平凡な人生を歩んできた。

そんな彼のもとに、ソ連のスパイとしてアメリカ国内で囚われたルドルフ・アベル(マーク・ライランス)の弁護依頼が来る。核兵器を明日にでも撃ちかねない敵国のスパイであるアベルに対して、社会の趨勢は電気椅子による死刑を当然とする。ポーズとしての弁護を求められただけであるドノヴァンは、しかし、アベルを敵ではなく一人の依頼人として、さらには一人の友人として受け入れ法廷で闘う。

数年後…今度は米国のスパイがソ連国内で捕らえられる。
アベルと米国人パイロット、さらに不運にも捕らえられた米国人学生との1対2の取引交渉に再度臨むドノヴァン。スパイ同士の架け橋(原題:"Bridge of Spies")となるべく、敵地東ベルリンに赴く。「ちょっと、釣りに行ってくるよ」家族にはただそう告げて。

2つの大国の運命と、スパイたちの命、時代に巻き込まれた一般市民の命が、彼の交渉にかかっている。交渉は上手くいくのか。核戦争は回避されるのか。ドノヴァンは愛する家族のもとに帰れるのか。そして小さな友情が芽生えたアベルはどうなるのか。
単なるスパイ映画ではない。少しのスリリングを含んだ、奥深いヒューマンドラマ。



僕は1989年に生まれた。
映画に登場する、冷戦の象徴とされるベルリンの壁が崩壊した年である。だから、「冷戦」というものが何かを実体験としては知らない。アメリカとソ連がぶつけあっていたイデオロギーのこと、東ベルリンと西ベルリンの人々を隔てた壁の意味を、核に怯える生活を、僕は知らずとも生きていける時代に生まれた。(そのぶん、昔はなかった新たな世界の問題に直面している)

映画ではそんな暗黒の時代の様子を映す。当時の雰囲気を捉えた映像表現は素晴らしい。それを見るだけでも、僕達の世代はこの映画を見る価値が有ると思う。
しかし、主題はただその悲惨さを映すことにはない。
イデオロギーを越えて貫かれるドノヴァンの「信念」。いがみ合う相手とでも、どんな極限状態においても、美しいと思える行動がある。感銘できる人間性がある。
騙しあい、疑いあい、憎しみあう。「スパイ」に象徴される冷戦時代の不安定な存在の上にかけられたドノヴァンという「ブリッジ」の偉大さを証明すること、これこそがこの映画の主題であり、それが証明されるから人生は素晴らしいのだと思える。

トレイラーではかなり暗ーい印象を持ち、さらに映画自体も冷戦時代が舞台であって明るいシーンは少ない。
それでも、見終わった後には心地よい清々しさが残る。
荒野に咲いた一輪の花の生命力に感動するような充足感が心に宿る。
"homecoming"(帰郷)と名付けられた映画音楽が、強く心に残った。

おすすめの映画です。
是非、見てみてください。