12/22/2012

「親切量」の配分について考える

昨日は冬至。北半球では太陽の高さが最も低くなる日。
日本では冬至の日にはゆず湯に入り、カボチャを食べる習慣がある。ゆず湯は「冬至」と「湯治」をかけたもの、かぼちゃは冬場の野菜に足りなかった栄養分を補うために保存がきく栄養価の高いものを食べたのだという。寒さが一段と厳しくなるこの季節。風邪予防のために語り継がれた先人の知恵である。我が家ではカボチャは食べなかったけれど祖父の家から大量のゆずが、祖父の達筆だとも悪筆だともとれるメモと共に届いたので、ゆず湯にして身体を暖めた。
時代が移り変わって、薬や医療は発達しても、人の免疫力はそこまで変わっていないだろう。何よりも健康が大事。食べるものをしっかり食べて、体を温めて、毎日元気に過ごしたい。

そんな湯治の日、SF留学中にお世話になった人にご挨拶をするために、飯田橋のホテルへ向かった。場所がら各国から来るビジネスマンや観光客が多く、ホテルの周りにはトランクを引いて歩く人々の姿もちらほら見られる。
予定より早く到着して、普段は利用しないコーヒーチェーン店で窓の外を見ながら珈琲を飲んでいた。店内の窓際の席にドイツ人の家族が座っていた。いかにもドイツ人らしい格好をしたお父さん、お母さんと、小さな子ども2人。珈琲を飲みながらのんびりと話をしていた。
今日の予定が決まったのだろうか、4人が席を立ちお店を出るときに、気づいたことがあった。自動扉を出るときに必ず後ろを振り返り、少し止まって中をみてから外に出るのだ。お父さんも、お母さんも、子供二人も。


「Thank you」って言いたいんだなぁ…と、僕には解った。日本では飲食店、とくにチェーン展開している店での食事を済ませた後に、お店の人に声をかけて出ていく文化や気配はない。小さな声での「ご馳走さま」「ありがとう」もなく、お店に入ってから出ていくまでに口から出る言葉はメニューの名前だけだということも多い。しかし、僕がバックパックしている時に感じたことだけれど、ヨーロッパの国々や僕の留学先のSFでは飲食店で食事が終わった後に、お店の人に一声かけて出ていく人が日本よりも多かった。「美味しかったよ!」「今日も良い日を」「ありがとう」そんな小さな言葉だけれど、そこに会話やつながりが存在することで心が豊かに、嬉しくなる。そのドイツ人家族の後に無言で店を去るお客さんを見ていると、なんだか足早に店から逃げていくような印象を受けて、悲しく虚しくなった。



お店を出るとき、品物を受け取ったときの小さな「ありがとう」という声かけ以外にも、海外では見かけるけれど日本では見かけない日常の小さなことはたくさんある。留学から帰って来たのちの、留学仲間との「そういえば米ではみんな〜やっていたよね」の話の中に必ずでてくることが、例えば、ドアを開けてあげること。
教室のドアや、レストランの入口で、後ろから続いてくる人のために自分が開けたドアを押さえ、開けたままにしてあげる。小さな親切であるけれど、サンフランシスコではみんなが自然にこれをやっていた。そしてそこにも、開けてくれた人に対する「ありがとう」「どういたしまして」という小さな会話やつながりが生まれる。


こうやって、「アメリカでは〜」的な話をすると「まーた下山はアメリカナイズされやがって」という声が聞こえてきそうだけれど、僕はいいなぁと思ったものことに関してはどんどんアメリカナイズされて良いと思ってる。日本ではとにかく、多数派ではないものを小さくまとめて異質な奴というレッテルを張って、あまりそれを主張しないように楔を打つ風潮や、新しいものを融合させずにそのままブロックとしてまとめて置いておく文化があるように思える。
アメリカナイズ、リア充、キョロ充、ゲイレズバイセクシャル、理系文系という言葉…
異国の素晴らしい文化を伝えようと思っている人、人間として素晴らしい恋をしている人、そうなろうと努力している人、他人とは違った性の好みがある人、異なったフィールドの勉強をしている人、そういった人に対して上のような言葉を使って抑制もしくは理解したつもりになる。無条件に「あ、リア充ですみません」といったような雰囲気を作ってしまったり、マイノリティの人が持っている素晴らしい価値観を分かち合えなかったりする。とてももったいないことだと思う。


国の文化論を語るときには、日本人はよく集団志向で仲間意識が強いというが、その集団という言葉が包括するのは日本列島ではなくて、自分が所属するサークル、ゼミ、会社、大学といった単位であって、その他の人には打って変わって排他的。自分の上司や友達に対しては挨拶や礼儀をしっかりとしていても、その他の人々に対しては粗暴であったりすることがある。
人間の持つ、他人に「ありがとう」って言える優しさの総量=「親切量」は、何処の国の人もそんなに変わらないと僕は思う。そうであれば、日本人はこの「親切量」を身内に対してだけで消費し過ぎていないか。もうちょっとだけ、この「親切量」の割り当てを社会に向けてみる。それだけで日々の閉塞感は一気によくなると思う。


普段言わないところで、「ありがとう」といってみる。それだけで心が軽くなることもある。自分自身の「親切量」の割り当ては、偏ってないだろうか…。そんなことを考えた、冬至の日の朝のこと。

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