『小さな恋のメロディ』(原題"Melody", "S.W.A.L.K")
1971年のイギリス映画。実に40年以上前の映画だけれど、素晴らしかった。当然話される英国訛りの英語や、主人公の子供たちが通う学校のギンガムチェックとブレザーの制服、階級社会、ティーカルチャー、宗教のクラス、ダンスパーティー…古き良き時代のロンドンがそこにはあり、当時の人の姿や生き方が上手くまとまっている。
最近は活字にどっぷりつかっており、想像力かきたて考えさせる活字文化の方が映像よりも素晴らしいなぁなんて考えていたのだけれど、映像でしか伝えられないことや雰囲気もあると再認識。もうちょっと、もっと、映画見たいな。
この映画のあらすじを、wikipediaより引用。
舞台はイギリス。伝統的な価値観を受け継ぐパブリック・スクールで、ささやかな対立がはじまっていた。厳格な教えを説く教師たちや子供に干渉する親たちと、それらに従うことなくそれぞれの目的や楽しみを見つけようとする子供たち。
どちらかと言えば気の弱い11歳のダニエルもそんな生徒の一人だったが、同じ学校に通うメロディという少女と出会う。二人はいつしか互いに惹かれあい、悩みを打ち明け、はじめて心を許す相手を見つけたと感じた。純粋ゆえに恐れを知らない恋の激しさはやがて騒動を巻き起こし、旧弊な大人を狼狽させる。
事情を聴くこともなく押さえつけようとする大人たちに対し、二人は一つの望みを口にする。それは「結婚したい」という驚くべきものだった。「どうして結婚できないのか」と問うが当然親も教師もとりあわない。ある日、教師が授業を始めようとすると教室はほとんどもぬけらの空であった。自分達の手で2人の結婚式を挙げようと同級生らが集団でエスケープしたのである。
この映画を見て、印象に残ったシーンと、感じたこと。
学校を休んで二人で海へ遊びに行くシーン。ダニエルが、メロディに愛の言葉を告げる。その後の会話。
「結婚しよう。」
「いつかね。」
「でも、どうして大人は結婚するとあんなに不幸になるのかな。」
「きっと全部わかっちゃうからかな。」
「両親や大人が、どうあるべきなのか私にはわからないわ…本当に。」
その後、学校を休んだことを咎められた二人。メロディは両親に、なぜ子供が結婚してはならないのかを尋ねる。
「いまダニエルと一緒にいたい。」
「地理も好きだけど、ダニーといるほうがいい。」
「幸福になりたいだけなのになぜ(結婚しては)いけないの?」
お父さん「私は君に幸せになって欲しいと願ってるよ。」
「じゃあなんで助けてくれないの?邪魔をするの?」
子供の、純粋な恋心と質問に、両親は何も答えることができない。
もしも、自分の子供にこんな質問をされたら、自分は、なんて答えればいいのだろう。
法律でそう決まってるから?社会的に許されていないから?養う力が備わっていないから?きっと他にもっと素敵な人がいるから?
大人の理屈や倫理を語る答えならばいくらでもみつかるだろう。けれど、それが本当に子供たちにとって正しいと思ってもらえる答えになるのだろうか。
もっと幼かった時、僕は、周りの大人は本当にわけわからんと思っていた。「なんで僕達の気持ちをわかってくれないんだ…」と。
それが今となっては、そう思っていた年頃よりも、自分の子供がそういった年を向かえる可能性のほうが高い年頃になってしまった。いや、むしろ丁度その中間といったところか。
お金のこと、将来のこと、他人のこと、社会のこと…そういったさまざまなものに配慮してバランスを取った生き方をするのが大人である。しかし、それが子供たちには見えていない。子供は無垢だというけれど、その通り。汚れておらず、純粋である。だから、彼らにそういった大人の論理を押し付けるのは間違っているし、だから、大人の考え方や意図を汲むことができない。いつの時代にも取り扱われる、「大人VS子供」というテーマ。『小さな恋のメロディ』を見て、自分が大人サイドに近づいているのだということを感じる。
小学校のころの友人が、春から先生になった。初めての担任は小学校1年生。彼が先生になってくれるなら安心だ…と心から思える、尊敬できる友の1人。
僕が彼を尊敬できる理由。それは彼が子供から全力で学ぼうとしている姿勢が伝わってくるからだ。先日、会ってゆっくり話をしたときに言っていたこと。
「自分の年の三分の1にも満たない子供を”教える”なんて…って最初は思っていたけれど、今は違う。彼らから”教わる”毎日だよ。」
7歳になったばかりの子供たちの、無限に自由に広がる思想と可能性を前に日々考えている彼は、きっと子供の気持ちを汲める大人にいつかなるだろう。それは物凄く難しくゴールのないものかもしれないけれど、彼なりの答えを導き出してくれると思う。そして彼の出した答えなら信じられる。真面目で、ちょっと適当な部分もあって、笑顔が素敵な変態のイマッチなら。
「シモと違って世界を見ていないから―」
そんなことを彼は言っていた(たしか)けれど、世界を見ている僕が凄いとはまったく思わない。日本にいようが、地元にいようが、働いていようが遊んでいようが、感じて考えられる人が僕は凄いと思う。
子どもという可愛く、厄介で、自由で、無限の世界を日々みて感じて考えている彼の放つ言葉の方が光り輝き生きている。僕も負けないでいたい。
子供を持ってもおかしくなくなった、あるいは既にもっている僕の友人達へ。
もしもメロディの純粋な質問、
「幸せになりたいだけなのに、どうして私たちは結婚できないの?どうしてそれを大人は邪魔するの?」
この質問をされたら、どう答えますか。
結婚という言葉をさまざまな自分がやりたいコトと置き換えて、大人という言葉を社会と書き換えてみる。みんなが常々抱いている気持ちに近いものが出来上がる。
だれもが昔は子供だった。この質問に対して考えることは、自分の中の子どもの気持ちと素直になって会話することだと僕は思う。無限に広がる可能性を摘むのは、いつの時代でも皮肉な笑顔をつくる大人と決まっている。
僕の笑顔は、まだ純粋か、それともすでに皮肉さに冒されているのか。子供たちと自分自身の写真を見かえし、質問の答えを考えてみる。
追記:以前見た映画の感想記は、これ。
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