4/20/2015

ニューストピック

先週で終わった全体研修。
その朝礼時に、「ニューストピック」と題して同期同士で新聞の気になる記事を共有する時間が設けられていた。人事の方の意図ととしては新聞を読む習慣を身につけてほしいとのことであったが、この時間がとても楽しかった。
自分とは異なる価値観・視点を持つ友人が選んだニュースと、そこから考えたことを聞き、「これほどまでに自分とは異なるのか!」という驚きや「うんうん、俺もそれが気になったよ」という共感、そして深い考察をできる優秀な同期に対する尊敬など、たくさんの発見があった。

今日からは、事務系・高校卒業間もないオペレーションを担う同期達とは離れ、大学院を卒業した人の多い技術系研修が始まった。先週までの心地良い騒がしさと初々しさが少し減り、物悲しさを感じながらの研修。楽しかったニューストピックもなくなってしまったけれど、新聞を読み、そこから様々なことを考える習慣はこれからも持ち続けていきたい。

もしも、今日、「ニューストピック」があったならば。
僕は次の記事を以下のように紹介したい。

「僕は日曜日の新聞が好きです。
土曜日、日曜日は経済活動も休みであるため、新聞は文化的なコラムや視点をすこしマクロにとった記事が多く、日常のニュースを追いかけるだけではない深く面白い記事が多いからです。
4月19日、日曜日の読売新聞の朝刊一面と二面、『地球を読む』というコラムにて劇作家の山崎正和さんが興味深い文明論について言及していました。私達はアナログ時代からデジタル時代への急速な転換期を生き、本当に多様な価値観を経験してきました。その中で、急激な変化についていけず保守的な考えに陥っているひとが僕の周りにも多くいるように感じます。それを、山崎さんは次のように説明します。
資源と環境の制約から、また金融資本主義の破錠から、近代社会の発展はもはや限界に達しており、今や人類はこれ以上の進歩を前提としない社会を築くべきだというのが「定常型社会論」
それに対して、正反対の考え方を持つ人もいます。デジタル・IT・ロボットなどの出現による未知で新たなる時代の幕開けに期待を寄せる人々です。「科学技術万能論」とコラムでは定義し、次のように説明されていました。
「科学技術万能論」、科学の急速な進歩が人類の無限に近い繁栄を保証するという主張だが、現に相当の雄弁さでマスコミをも巻き込んでいる。
このあとに、科学技術万能論の先人といえる未来学者レイ・カーツワイルの『ポスト・ヒューマン誕生』という著書を紹介し、 ナノロボットによる人間の生物的限界突破と、そこから導き出される「人間とは?」という問いを少し難解に投げかけます。

「定常型社会論」と「科学技術万能論」、これら2つがMECEに位置する概念であるとも思えませんし、どちらか一つを選択しなければならないわけでもありません。しかし、多くの人々はやんわりとどちらかの概念に「うんうん、そうだよね」と心傾く気持ちが生まれるのではないでしょうか。

国の政策などにもこれらの考え方の片鱗が反映されています。
西洋諸国は概ね「今までの生活、歴史、伝統という資産を大切にして生きていきたい」という政策を取り急進的な概念に対しては懐疑的です。昨今のグーグルの取り締まりやウーバー禁止というニュースが欧州から始まったのも、定常型社会を政府も人々も求めているからではないでしょうか。
「科学技術万能論」の先鋒は当然、アメリカです。建国からの歴史が短いためか、やはり未来志向な政策を取ります。グーグル、アップルに代表されるような先進的な企業、特に最先端テクノロジーに惜しみない投資を行う企業が生まれる土壌がアメリカにはあり、それは「科学技術万能論」を多くの人々が支持しているからだと言えます。

翻って、日本はどうでしょう。
このまま立ち止まっていては、人口は減少し、産業は衰退し、年金制度は崩壊し、定常できるような状態ではありません。しかし、長い歴史を持つために新たな価値への投資に意識が向きづらく、また第二次世界大戦の原爆、福島の原発など「科学のしっぺ返し」と言える事象を多く経験しているため手放しで科学を受け入れることも難しい。

気になるあの国は、日本は、社会は、自分は、どのような未来を求め目指しているのでしょうか。普段の忙しい生活からは考えることがないようなこんな大きな文明論、ちょっとのんびりできるような日曜日に、少し考えてみてはどうでしょう。」


4/11/2015

守破離

新人研修で会社の各部署の方から様々な説明を受けている。

部署の人数、プロジェクトの数、構成...そんな話を聞くたびに、今まで漠然と全体像しかイメージできなかった「企業」が因数分解され、要素が抽出されていく。途方もなく大きな金額を動かす会社という法人格も、つまりは「個人」の集合体であるという当たり前を知る。
その過程で得られる感覚は、「すごい!!」と「なーんだ」の中間。外部からは見知ることができないヴェールが剥がされ、自身が担うのはその中の一部であることを知った時の気持ち、高揚感と虚無感が入り混じるものを感じるのは、僕だけではないはず。


昨日は、「学習」についての講義があった。
新人社員としてどのような意識で学び、業務に接していけばよいかを軽く、楽しく、しかし深く教わった。

新人社員に期待される「学習」には、「獲得」と「参加」がある。
「獲得」は先人の知恵(文字情報)、周囲の人々(伝聞情報)、自分の経験(体験)から何かを得て自分の糧としていくこと。
興味深かったのは、「参加」について。日本では同調圧力が強く、同調=学習のサインとみなされることが多い。「下山は学んだな」と自身の学習を周囲が認めるシーンは、僕が自身の意見を法人格としての大所高所から論じるのではなく、個人の集合体の中に同化させたとき。つまり、「会社に染まる」ことが「学習」とみなされるということ。
どんなに意欲的に知識を獲得したとしても、成果を残そうと主張をしていても、「参加」なくしては学習を認められないのだ、日本においては。

とても日本的だなーと思いながらも、この感覚が僕は嫌いではない。
日本伝統の「道」の精神、守破離の精神にもとづく成長の過程であると考えれば、社会人になるということを一種の精神修行のように捉えることもできる。

「守」:指導者の教えを忠実に守り、聞き、模倣する段階
「破」:指導者の教えを守るだけでなく、自分の考えや工夫を模索し試みる段階
「離」:指導者から離れ自分自身の形を作る段階

社会人人生は、長いのだ。
今後40年ほどは続くキャリアの第一歩を踏み出したばかり。
まずは守ること、参加すること、染まることから始めたい。

4/01/2015

「挑め。失敗しても起き上がり、また挑め。」

「挑め。失敗しても起き上がり、また挑め。」
伊集院静 
新社会人おめでとう。
今日、君はどんな職場に立ったのだろうか。
どんな仕事であれ、そこが君の出発点だ。
すぐに目を瞠(みは)るような仕事をしなくていい。
本物の仕事はそんな簡単なものではない。
すぐに役立つものはすぐに役立たなくなる。
それでも今、君たちに社会の皆が大いなる期待をしている。
どうしてだかわかるか。それは新しい人でなければ新しい道は
ひらけないんだ。そのことは私たちの歩んできた道を振り返れ
ばわかる。百の新しい道には百の歩み方があった。
しかし共通していた点がひとつある。
新しい人が、毅然と、困難なものへ挑んだことだ。
何度も失敗を繰り返したんだ。でもあきらめなかった。
挑め。失敗しても起き上がり、また挑め。
失敗をおそれるな。笑われても、謗(そし)られても、挑め。
困難に立ち向かう人間の生き方の中には真理がある。
己だけのために生きるな。仕事は誰かのためにやるものなのだ。
それが仕事の品性だ。生きる品格だ。
疲れたら、夕暮れ、一杯の酒を飲めばいい。
酒は、打ち砕かれたこころをやさしく抱いてくれるものだ。


2015年4月1日。
新社会人生活の一日目が終わった。
2000年より成人の日、新社会人の入社の日に、僕の好きな作家、
伊集院静さんがサントリー新聞広告に熱いメッセージを掲載している。
それらをまとめた『伊集院静の「贈る言葉」』も僕の好きな図書の一つで、
心に残る言葉がいくつかある。

今朝、新聞を開いた。
日本経済新聞、読売新聞の両紙に掲載された今年のメッセージを、
新入社員になった身に刻む。
入社式で、役員の方もこの伊集院静さんの言葉を全文引用し、
僕らに語り聞かせてくれた。
「挑め。失敗しても起き上がり、また挑め。」
忘れずに、折に触れて振り返り思い出したい言葉となった。