11/28/2012

二人称で考えられる人やコト

英語を学び始めた時に習った言葉、一人称、二人称、三人称。

一人称=I(私)
二人称=You(あなた)
三人称=he, she, they...(彼、彼女、彼ら)

この言葉の頭についている数字が示すように、僕たちにとって大事なものは概ねこの順番になっている。何よりも一番大事なものは、自分。その次が、youという単語で呼べる相手、そしてその他大勢のもの。
僕達は当然自分自身のことが大好きだ。そして、インターネットのおかげで不特定多数の誰かとのつながりも強くなった。その結果、相対的に、2番めに大事なはずの『You』の大切さが薄れてきてしまっている。二人称で呼べる相手について真剣に考えることを忘れている人が多くなっている。そんな気がする。でも断言したい。世の中で一番大事なのは、この二人称で考えられる人やコトだ。


「あなたが二人称で呼べる相手は誰ですか?」
と問われたら、多くの人が、「愛する人」と言うと思う。
この愛ってのは、ロマンチックな愛だけではなくて、もっと一般的な愛も含まれる。家族愛とか友愛、隣人愛なんかも含まれる。簡潔に言うと「涙を流せる相手」と、「誰よりも喜ばせたい相手」、自分の感情が生まれる場所のすぐとなりのスペースにいつもいる人、いて欲しい人だと僕は考える。
「もしもこの人がいなくなってしまったら泣いてしまう」
「この人を笑わせたい。」
「あいつが悲しむ姿は見たくない」
そういった感情が生まれると、その人を取り囲む「二人称の人の二人称」まで考えられるようになる。感じられるようになる。そしてその人たちも幸せになって欲しいと思えるようになる。


震災から一年八ヶ月が経った。日本において何かしらのターニングポイントになったあの日以来、今まで意識していなかった「家族の絆」をみんな深く強く考えることになったと思う。でも、あえて言わせてもらうと、それが強すぎる。家族が良ければそれでよし。そんな風潮が少なからず社会にあるように感じる。二人称で呼ぶべきであった「家族」を、一人称の中に取り込んでしまったような、1.5人称で考えるようになってしまったような、そんな感じ。その結果、「二人称の二人称」が生まれなくなり、広がりに欠け、家族も含めた個人主義に拍車がかかっているのではないか。自分のことしか考えられない人をジコチューと人々がけなすように、自分と家族のことしか考えられない人もジコチューで、社会・世界の中で生きていくなかでそれは美徳にはならない。


一人称と三人称だけの世界。そんな国や世界や社会は成り立たないし、きっとなんだか虚しい。インターネットの発達なんかで、情報や知識はいくらでも手に入るようになった。けれど、それは三人称の数を爆発的に増やしただけで、二人称の数を増やし質を高める力はあまり持っていない。世界のどこかで今も紛争で多くの人が命を落とし、飢餓で幼い子供が死んでいく。ニュースや広告でその事実を僕たちは知っている。それでも多くの人は涙をながせない。今日の一杯のラーメン、晩酌、スナック菓子を我慢して募金をしようという人はそんなに増えなかった。悲しいけれど、それが事実。それがリアル。それが二人称と三人称の圧倒的な違い。二人称は愛情を生み出す。三人称は無関心とジェラシーを生み出す。


二人称で考えられる人、モノ、ことってなんだろうと自問自答してみて、その人たちのことをもっと大切にしてみる。もしもそういった人が見当たらないのであれば、感受性を高めて意識をして、その数を1人ずつ増やしてみる。涙を流せる人、笑わせたい人、悲しませたくない人はきっと誰にでもいるし、その数に限りはない。もっともっと見つけられる、増やせるはず。どうすれば増えるか考える。
その人たちを幸せにするために学び、働き、生きる。それが人の存在理由なのかなと、ぼくは思う。そういった人が見つかってはじめて、人はブレなくなる。強くなる。人生が美しく、意味あるように見えてくる。


"Life is beautiful."
そんな言葉は、二人称の相手がいて初めて心から湧き出てくるもの。

11/21/2012

自転車乗りの哲学

朝の気温、最低気温が一桁になった。それでも僕は、毎朝片道10キロの道のりを自転車を漕いで大学まで向かう。今朝の授業で友達から、
「こんなに寒いのにまだ自転車に乗ってるの?」
と驚かれた。まだまだ乗ってるし、去年は真冬でも乗り続けた。


以前のブログで、これから暑くなってくるのに汗をかきながら自転車に乗っていることを友達から突っ込まれて、なぜ自転車に乗るのかを考えたけれど、それは電車が嫌いだからというネガティブな結論を出した。(→僕が、朝の電車が嫌いな理由
今日は真夏でも真冬でもなぜ僕が自転車に乗るのかというポジティブな理由を考えた。
自転車乗りの哲学。


まず、自転車のスピード感が丁度いい。歩くのも好きだけれど、僕の行動範囲は歩きだけではカバーしきれない部分があるし、ちょっと遅い。反対に車やバイクは早くて便利だけれど、交通ルールにのっとって走らなければならないために惰性的に走ることが多いし、急に止まることができない。
僕の好きな自転車のスピード感とは、
  1. 人の顔の表情が見れて季節を感じることができて、
  2. 困っている人がいたら助けることができて、
  3.  それでも多くの人を追い抜いて走ることができる
そんな速度感だ。


1.について。
自転車に乗っていて街を走るときによく見ているのが、街往く人の表情や、季節感とか雰囲気だ。例えば先週日曜日には、上野まで自転車を走らせたのだけれど、よく晴れた秋の日の午後で、家族連れやカップルの顔がすごく穏やかで笑顔が多いことに気がついた。それはきっと、バイクや車といったスピードを持っていてはあまり感じられない・気づかないものなのではないかなと思う。ある程度のよそ見ががゆるされている(もちろん、し過ぎは危ない!)、少し早めのスピード感。それが僕は好き。

2.について。
これは1.と少し似ているけれど、誰か困った人を見つけたらすぐにでも自転車を降りて助けてあげることのできる、人間味のある乗り物とスピード感だということ。僕は以前はバイクに乗っていたけれど、今は通学のためにバイクに乗ろうとは思わない。今の僕には少し速すぎるように感じる。エンジンがつくるスピードは、どうしても急にとまることができない。結果、自分のすぐ後ろで事故があったり、困っている人がいたとしても、機会がつくるスピードに支配されてわざわざ止まろうという感覚が弱くなる。交通ルールを厳守して走らなければならないので止まることができない場合も多い。自転車乗りが増え、交通ルールを守ることや車両を走ることを徹底されているけれど、僕はエンジンのつくりだすスピードと人力のスピードは全く性質のことなるものだから、自転車を車・バイクと同じように扱うのは違うと思う。歩行者と車両の中間、人間味のある乗り物、グレーな感じでいいと思う。(自転車乗り一人ひとりの交通マナーがしっかりしているという大前提のもとで。)

3.について。
じゃあ歩け、と言われるけれど、歩くスピードは僕には少し遅すぎる。誰かより少し早く、少し前を走っていたい。1番の速さを追求する必要はないけれど、ドベは嫌だし、平均よりはちょっと上で、俺は結構早いんだぜ!といばれるような、そんな立ち位置が僕は自転車のスピードに対しても普段の立ち位置でも、あっていると思う。乗っている自転車もレースに出て1番を目指すようなロードレーサーではなく、ただ自転車であるというママチャリやマウンテンバイクでもなく、街でそこそこのスピードが出せるというクロスバイクだ。


他にも自走する乗り物であることや、孤独な乗り物であることとか、僕が自転車に乗り続ける理由は考えはじめたらきりがないので、これぐらいで。
最高気温40度の日も、最低気温が0度の日も、小雨の日もたいてい自転車に乗って学校に通い続けた。乗りながら気がついたことや考えたことは数しれない。
僕にとって自転車は、携帯のディスプレーやノートから眼をはなして生きている人や街、巡る季節に出会わせてくれる、物凄く人間味のある乗り物だと思う。これからも乗れるうちは、自転車に乗り続けていたい。






Universal Children's Day

日付は変わってしまったけれど、今日11月20日は、「世界こどもの日」だった。


子供の「生きる権利」「守られる権利」「育つ権利」「参加する権利」を定めた条約が、国連で採択された日を記念しての記念日とのこと。日本ではこどもの日は5月5日の端午の節句であり、春風になびく鯉のぼりとゴールデンウィークの陽気を連想させる、なんだかほのぼのとした春の温かい印象の祝日。しかし、その半年後の秋から冬に移り変わるこの季節に、世界こどもの日に放たれるメッセージというものは「遊ぶ」「学ぶ」「生きる」「笑う」…そんなあたりまえのこと。逆に言うと、こんな日をつくらなければならないほどそのあたりまえがあたりまえでないという厳しい現状にさらされている子供が世界にはたくさんいる。


イスラエル軍によるパレスチナ自治区ガザへの空爆が止まらない。14日の空爆開始からのガザの死者99人(あくまでも、公表された人数)のうち、25人が子供。負傷者750人のうち約7割が子どもと女性だという。今回の大規模空爆はハマス軍事部門最高幹部の暗殺から始まった。戦争、紛争、喧嘩、そのほとんどは力を持った男の怒鳴り声で始まり、無力な女子どもの悲しみ泣く声で終わる。「世界こどもの日」に命を失った子どもたちはどれほどいたのだろう。


今年の9月に僕はチュニジアを旅した。朝、コーヒーショップで新聞を読みながら、顔なじみになったお店のおじさんとニュース番組を見る。そこには綺麗に着飾ったキャピキャピした大学生キャスターや、イケメン俳優の料理コーナー、クイズコーナーなんてものはない。延々と放送されるのは近隣のイスラム国家で続く紛争の様子や政治の話ばかり。コーヒーショップに集まるおじさんたちは、ガラスのコップに入った甘いコーヒーを啜りながら、苦しい現実を悲しげな顔をして見つめる。僕も言葉はわからないけれど、その映像を見つめる。目が離せなかった。


日本に戻りすごく平和な日々を過ごしているけれど、僕にはそのコーヒーショップでの朝が昨日のことのように鮮明に思い出すことができる。そして、今日もチュニジアのおじさんたちが、イスラエルとガザの争いの映像を映すテレビを見上げて、少し眼をつぶって首を小さく横にふって、ため息をつく様子がわかる。


「遊ぶ」「学ぶ」「笑う」「生きる」「働く」
こんな当たり前のことのどれもできない子供がいる。そんな子どもの様子をすごく身近に感じて、自らもそういった感情を出すことのできなくなっている大人もたくさんいる。
僕は毎日、遊べるし、学べるし、笑えるし、生きれるし、働くこともできる。この感情を抱けることをすごく幸せだと思うし、この感情を僕だけでなくて世界中の人に届けたいと、心から思う。そのためにできることは、今の僕には募金でもボランティアでも政治家になることでもない。当たり前の権利が与えられていない人の分まで、毎日、真剣に、学び、遊び、笑い、働き、生きていく。そういうことだと僕は思う。


世界に平和が訪れますように。
世界中のこどもたちが遊び、学び、働き、笑い、生きて行けますように。

11/18/2012

よく晴れた秋の日、日曜日の昼下がり

1年前の11月15日付け、読売新聞朝刊のコラム『編集手帳』より、一部引用。
紅葉が美しく色づくには3つの条件があるという。昼間の日差し、夜の冷気、そして水分である。悩みと苦しみ(冷気)に打ちひしがれ、数かぎりない涙(水分)を流し、周囲からの温かみ(日差し)に触れて、人の心も赤く、黄色く色づく。紅葉の原理は、どこかしら人生というものを思わせぬでもない。(後略)

本日の朝日新聞の朝刊のコラム『天声人語』より、一部引用。
紅葉は山海の恵みにも似て、はしり、さかり、なごりの各段を踏む。緑があせ、赤緑の錦が乱れ、色が散り敷かれる。(中略)昼夜の温度差、程よい湿度と陽光が色を磨く。葉の彩りは残暑から秋冷への急坂を転げ、時雨に洗われて深まる。秋が短い今年は木々の見せ場も重なる。東京の街路樹はケヤキ、サクラ、ユリノキあたりが散りぎわの芸を競う。真打のいちょうも盛りが近い。(中略)毎年、ホップ、ステップ、ジャンプの順で巡る季節がやけに頼もしい。一歩進んで二歩下がるような、人の世を見るにつけ。

日々のランニングでは、街路樹の移りかわりを見ながら走る。最低でも1週間に1度は同じコースを走っているので、劇的な変化というものはないはずだけれど、ふとした瞬間に「あ、イチョウがこんなに黄色くなってる…」といった気付きがある。
神宮外苑の銀杏並木もそろそろ見頃だろうか。来週か再来週あたりにでも、晴天の日を狙いすまして散歩に行きたい。よく晴れた日の東京の秋の青空には、イチョウの黄色がよく映える。


研究の中間発表が昨日終わり、少しだけ心に余裕ができたので今日は前々から行きたかった東京都美術館展へ行って来た。展示は、『メトロポリタン美術館展』。ニューヨークのセントラルパークに立つメトロポリタン美術館から、大地、海、空―自然をテーマにした作品が展示される。ゴッホの描いた有名な『糸杉』が目玉であったけれど、それ以外にもたくさんの素晴らしい作品が集う。その中で僕が一番「いいなぁ…」と感じたものが、アメリカの風景画家ウィンズロー・ホーマーの《月光、ウッドアイランド灯台》。


月光と名前があるけれど月は描かれておらず、灯台とあるけれどそれは画の奥にたったワンポイントの赤色で載せられた点だけで灯台の存在を示す。
ホーマーの名前は今日はじめて知ったけれど、次の展示からは彼の名前を探してみたい。こうやってお気に入りの画や画家が少しずつ、少しずつ増えていく。絵心皆無でアートを学んだことがない僕でも、最近少しずつ、人々が美術を慈しむ理由がわかってきた。


上野まで、秋の日差しに包まれてのんびりと街や人を見ながら自転車を走らせた。よく晴れた秋の陽の午後、日曜日の午後って、本当に素晴らしい。街が幸せで溢れているように感じる。この幸せが何よりも大事なのだと思った。僕はイエスとかブッダとかある特定の大きな神様の存在はあんまり信じていないけれど、一週間に一度の安息日を設けてその時間を大事な人と過ごしたり自分のやりたいことを過ごすような社会の制度をつくった、昔の頭のいい人は偉大だと思う。


さて、また新しい一週間が始まる。パワーチャージ完了。毎日を真剣に、丁寧に、楽しんで生きていこう!




英語を再び学び直す

この前、Facebookに次のようなポストを載せたら、思いがけずたくさんの友達や先輩・後輩からlikeをもらったり、直接連絡をくれた人もいた。

4年前、大学1年生のこの時期に、留学を決断して下手くそだった英語の勉強をして、ここまできた。その経験があったから今の自分がいる。でも、それで満足してないか。震災があって、祖父がなくなって、恋をして、旅をして、走って…そのたびに、壮大に聞こえるかもしれないけど、この世のなりたちや、自分、家族、社会、国、世界についてくっそ考えて悩む毎日。研究なんかよりも新聞読んで哲学書読んで誰かと教育や幸せについて語って考えることのほうが正直楽しい。 
"Think globally, act locally.""Today is the first day of the rest of your life." 
actの範囲やキャパを、狭めてないか。thinkとのバランスを間違えてないか。僕の(そしてほとんどの学生の)生活には、もっと詰め込む余地があると思う。無駄になっている部分が多い。SNS上やベッドで過ごす時間を減らせることはあきらか。
変えよう。今日から。残りの人生のために。

この中で、僕が引用した"Today is the first day of the rest of your life."は、僕の中の座右の銘のようになっている。留学を志して、通い始めた予備校の最初のクラスで学んだ格言であり、そして、同じサインを留学中のSan Franciscoの街中で巡りあい、なんだか運命的なものを感じて僕の心に刻みこまれた。言葉でも、人でも、本でも、巡りあうものとは人間は必然的にめぐりあう。僕はそんな風に感じることがたまにある。


上の文章を衝動的に書いた理由は、父から薦められた一冊の本を読んだから。
ファーストリテイリング社長、柳井正さんが書いた『現実を視よ』。この本に書かれている内容は、耳を塞ぎたくなるような、眼を閉じたくなるような、日本が今後向かえる(いや、すでにむかえている)深刻な問題についてである。
「このままでは日本はやばい。本当にやばい。」
そんな感情は、新聞を開く度に、旅先で話をする度に、前々から薄々とは感じていたけれど、それを実際に文字にされて訴えかけられて、本当にどうにかしなければならないと心から感じた。それは日本のため、そこに住む僕の家族のため、僕のため、僕の未来の子供のため、愛する全ての人のため、世界のため、だ。


それで、僕にはいったい何ができるのか。著書の中では柳井さんは「企業しろ」「海外を知れ」と若い世代である僕らに訴えかける。ただ、その言葉をかけられたからといって、すぐに僕がそういったことができるわけではない。海外だって、行きやすくはなったけれど、はい、じゃあ行ってきますといって今まで築きあげてきたものや考えてきた道を急に変更することは、僕は美徳ではないと思う。
毎日5回ぐらい大学やめてやろうと思い、6回目で思いとどまる。それは今の道が正しいと信じる気持ちと、新しいことを挑戦することへの恐れの気持ちから。


何かを変えたい。でも、何が出来るのか。
そんなことを考え込んでいて、いまだに明確な答えは出ていないけれど、とりあえず自分の中で少しでもこの感情と折り合いをつけるために決めたことが、『英語を学び直すこと』。
留学に行き、バックパックに行き、平均的な日本人よりは英語ができるようになった。しかしそれで満足して奢っている自分が間違いなくそこにいた。その気持ちを払拭して、入れ替える。そのために、英語を学び直す。これは間違いなく今の僕にも、そして今後の日本や世界を生きるためにも必須のことだ。
英語がネイティブの友達がいる。彼らと比べると、僕の英語力のなさや、今までまなんできた量が違うから…と諦めてしまう人がいる。でも、それは間違っている。人はみんな、自分だけの生き方、自分だけのボキャブラリーを持っている。僕は日本人だけれど、おなじ日本人が日本語で喋る会計や難しい政治の話とかは全くわからない。それはその領域でのボキャブラリーや知識がないから。
英語ネイティブに負けないぐらい、僕の好きなトピックに関する英語の勉強をしていく。それがきっと僕の強みにもなるし、継続できる英語の学び直しになると思う。


具体的にはどうするか。ただ文法とかをまた学んでも、僕は絶対に飽きてしまう。だから、僕の好きな「人間性が豊かになること」「コミュニケーション」「世界事情」そういったテーマに英語で取り組む。

「人間性が豊かになること」
TEDの動画を見る。週に3〜4日。日本語の字幕を出しつつ、英文の全文を読みながら、スピーチを聞く。トピックは全て心を豊かにしてくれるものであるし、なによりもプレゼンテーションの上手さ、笑いのとり方、発音の仕方など学べることがたくさんある。
一つの動画の時間は15分〜20分だ。Facebookなんかをダラダラとチェックする時間があるのならば、TEDを一本見よう。

「コミュニケーション」
新聞で見つけた、"Vital Japan"という団体が開催する英語での勉強会に参加することにした。来週の土曜日が一回目。トピックは"2012 US Presidential Election - Communication Strategy & Implication for Japan"
比較的僕が興味を持っていたトピックであるけれど、しっかり話し合いについていけるのか。事前にしっかりと勉強をして望みたい。

「世界事情」
アメリカ大統領のスピーチ、ノーベル賞の受賞者の話、世界中のいたるところで行われている人の心を動かすような「平和」をトピックとした話が、僕は好きだ。そういったスピーチを、インターネットを利用して週に一回は聞いて、考えてみたい。また、大学の生協には無料でThe Wall Street Journal for Asiaが置いてある。それを読む。これは帰国後続けいていることだけれど、NHK World News Radio Japanを毎朝の自転車での通学時間にこれからも続けて聞いていく。


まだまだ出来ることはある。
合わなかったらやめて、また新しい楽しそうなことをやる。世界がどーだとか、政治がうんちゃらだとか、なまじ世界をみて新聞が好きで知識があるから、語るクセができてしまってる。評論家になるのはもうやめよう。
”行動者のほうがかっこいい”
心で感じて、頭で考えて、身体を動かす。
何かを成すのに遅すぎるということはない。今日は、残りの人生の最初の一日なのだから。


11/13/2012

Benedict Andersonのナショナリズム

世界には4つの『リズム』が溢れている。ナショナリズム、ポピュリズム、グローバリズム、テロリズム…

そんな話は、新聞を読んでいる人や社会に興味がある人であったらよく聞くことだろう。これらは全て、つながっている。でも、多くの人が本気で考えたり悩んだりしていないから、国が、世界が、社会が危ない方向に煽動されてしまう。


今日の朝日新聞のオピニオン欄に、ナショナリズム研究の第一人者、名著『想像の共同体』を執筆したBenedict Andersonがナショナリズムについての考えを語っていた。彼の考え方は、僕のもやもやとしたナショナリズムに対する考え方に光を与えてくれた。種を与えてくれた。ここから自分でどれだけ考えられるか。意識することができるか。それが大事なことだけれど、まずは先人の、賢人の知恵を学び理解することが大事だと思う。忘れないために、心に響いた彼の言葉を抜粋する。全て2012年11月13日のオピニオン欄より引用。
「自分の国がどうもうまくいっていないように感じる。でも、それを自分たちのせいだとは思いたくない。そんな時、人々は外国や移民が悪いんだと考えがちです。中国、韓国や在日外国人への敵対心はこうして生まれる。これはナショナリズムというよりは民族主義、人種差別的な考え方です」
「通常のナショナリズムは生活の一部であり、習慣やイメージであり、空気のようなものなのです。(中略)誰もが、『日本人』であることを当たり前に受け入れています」
「ナショナリズムそのものが悪なのではありません。それは、いわば社会の接着剤であり、人々に『自分は日本人だ』と感じさせるものです。(中略)そして、この当たり前の感覚が崩れるとしたら、それは社会の危機を意味します」
「本来、ナショナリズムは未来志向なんです。考えてみてください。私たちはなぜ税金を払うのか」
「黒人の権利、同性愛者の権利を認めるとき、人々は『彼らだって同じ米国人なんだから、同じに扱わなければ』と考えたはずです。国家という概念が、こんな考え方を可能にする。ナショナリズムは、人種偏見や性差別を乗り越えるのです」
「ネット上には、差別を助長するような内容の情報が漂っています。(中略)人は、自分が信じたいものを信じるものです。ネットでは、自分のお気に入りのリンクだけ見ていれば、他のニュースは見ずに過ごすことができる。政治、経済、国際などのニュースが一つになっている新聞とは正反対のメディアです。『リンクの世界』では24時間、特定の情報にだけ接して過ごすことができるし、グーグルで検索すれば何も覚える必要がない。コンピューターの前に座るだけの生活はもうやめたほうがいいと若者たちには言いたい」


日本人の、特に僕の世代の人々のナショナリズムは既に間違った方向に向かっていると思う。例えば、同時期に発生したオスプレイ配備問題と、尖閣諸島問題。なぜ、ナショナリズムは重すぎる負担を分担してくれと訴える多くの同胞より、むしろだれも住んでいない島に向かったのか。 メディアのせいだと煽る人がいるけれど、そのメディアを作りあげて支えているのも僕達のナショナリズムや、社会に対する無関心や無知である。


韓国人の友達が、日本が右傾化していることが怖いと言っていた。右傾化とは、国粋主義、自分の国の文化・伝統を他国よりも優れたものとして、排外的にそれを守り広げようとする考え方。Benedictが語るように、排外主義や人種差別は、ナショナリズムとは本来、別物であるのに、それが混同している。この傾向の行き着く先は、自明だ。
争い、奪い合い、憎しみあい、嫉み、妬み、無関心、非協力…
戦争だ。


僕たちは争いを求めているのだろうか。歴史は繰り返すというけれど、戦争が生んだ無意味な死も繰り返されなければならないのだろうか。涙が出る。


元米国大統領、ビル・クリントンは言う。
"We live to prove that cooperation works better than conflict."
「我々は、紛争よりも協力関係のほうが有効だと証明するために生きている。」 

戦争を生み出すのは、国や権力ではない。僕達一人ひとりの優しさの欠落、間違った愛の形、 無関心、そして間違ったナショナリズム。
正しいナショナリズム、Benedictの語るナショナリズムを、心の柱にして毎日を生きていきたい。僕のため、家族のため、社会のため、日本のため、世界のため、未来のためのナショナリズムを。

11/08/2012

言葉、アメリカの求心力

アメリカ遊学中(最近は、あまりこの「アメリカ」という言葉を使わないようにしている。それは、僕が留学していたSan Franciscoという街と僕を取り囲んでいた環境は、いわゆるアメリカではなかったから。人種のサラダボウルという言葉の極みをゆく街で、アジア人とヨーロッパ人入り乱れる留学生団体をベースに日々を過ごしていたから。でも今回はアメリカという一般論に関する話なのであえて使う。)、 International Relationship(国際関係論)という授業や、American Sign Language(アメリカ手話)という授業で与えられたDeaf(耳が聞こえない人たちのこと)というマイノリティから見たアメリカや世界文化比較に関する本で、「何をもってアメリカ人はアメリカ人たる意識を持つのか」ということについて学び考えたことがある。


アメリカの歴史は浅い。建国してから200年の歴史しかなく多民族多宗教が入り混じる。数代遡れば祖先はイタリア人・ドイツ人という人や、じいちゃんばあちゃんはベトナム人やチャイニーズという人たちの集まりなのがアメリカ。日本やヨーロッパ諸国のような家系図を見たらずーっと同じ民族であるというような単一民族国家(Nation state, mono-tribe country)とは異なる。外見も、祖先から受け継がれている思想も、家族感も異なる。それなのに、戦争や紛争があると国のために命をかけて戦う人がいる。税金を払う人がいる。家族のため、愛する人のため、それは当然。そのひとつ上の層にある、アメリカという国をまとめている力。彼らが拠り所にする、求心力をもつその中心にあるものは何なのか。


それに対する答えは、僕はアメリカ人でも専門家でもないのでそれが正しいのかよくわからないけれど、当時一緒に同じ授業を受けていた中国系アメリカ人(ちなみに彼はゲイ。ゲイの人が言うことは説得力があるように感じてしまうのはなぜだろう)の友達が言った答えが僕の中の結論になっている。
「アメリカを一つにしているもの、それは星条旗と英語だよ。」


留学終了後、僕は電車で1週間かけてアメリカ大陸を横断したのだけれど、その旅の最中にも彼の言葉を反芻しながらアメリカというものを見て感じていた。
東にすすむにつれて、白人が多くなり、街中に教会などが現れたり、広大な土地が広がっていたり摩天楼があったり…全く違う土地、景観、人々が住んでいるのだけれど、そこには必ず星条旗があった。目に見える軒先にも、目に見えない彼らの心の中にも。それは確かに彼らのなかでアメリカという、ネイションという、目に見えないものを具現化して視覚化して、広く深く彼らの心の中に刻み込まれているように感じた。


そして、もう一つ。英語。言葉。アメリカ人をひとつにしているのが言葉であるというのが、昨日決着のついたアメリカ大統領選を追っているうちに強く感じた。人々は候補者に言葉を求め、胸に響く言葉によって深め合う。当然政策であるとか外交であるとか経済といったものも考慮して人々は自らの票を投げる。しかし、そういった政策と同じくらい彼らが、そして僕も、注目しているのが候補者が放つ言葉であるようだった。
今回の選挙戦でも、"Forward"(先へ)、"horses and bayonets"(馬と銃剣)、"one nation"(一つのアメリカ)というような響きの良いオバマの言葉が討論会やスピーチで使われると、twitterなどのソーシャルメディア上で一気に拡散し、少なからず人々の思想に影響を与えたのだと思う。


改めて、言葉の強さやそれに対するアメリカ人の感度の高さ、言葉(とその中のメッセージ)がアメリカをまとめあげる求心力となっている要素のひとつなのだということが感じられた。そこにはメディアによる操作や、大言壮語で中身をもたないレトリックで、それに操られている国民は悲しい…といったようなことも言えるのだけれど。しかし、すくなくとも誰かの言葉に耳を傾けるということ、聞く耳や態度があるということ、そしてその中で国民一人ひとりが判断をする機会と自由と意識あるということは、素晴らしいと思う。
世界経済で3位の日本の政治家の放つ言葉に対して、僕たちはあまり聞く耳を持たない。政治家は発信をしているのに。
2位の大国中国の共産党大会が今日からはじまり、国のトップが変わるけれど、アメリカ大統領選のような熱狂はない。注目してみても、とてもクローズな感じでなんだか楽しくない。アメリカ大統領と同じくらい、世界に影響力を持つ人が変わるというのに。メディアの規制が強い中国では、海外メディアの入国を現在強く制限していたり、SNS上では「胡錦濤」「習近平」といった言葉は削除されている。


言葉って、本当に強くて危ない力をもっている。
オバマの勝利宣言スピーチを見ながら、そんなことをしみじみと感じた。それは政治の世界だけではなくて、僕みたいな普通の人にとっても。
John Mayerの"My stupid mouth"の歌詞を思い出す。





11/05/2012

"The transformative power of classical music"

僕は今、家のむかいの美容院で働いているおばちゃんに週一回1時間、英語を教えている。


60歳前のお向かいの美容師夫妻は、あと数年働いたらお店をしめて、将来はバリなどでのんびりと暮らす予定なのだという。それに向けて、英語の勉強を再びスタートしなければ…そんなことを思っていた矢先に僕が留学から帰ってきて、英語を教えてくれないかと突然家の前で頼まれた。


1年間の留学とバックパックを経たけれど、もちろんネイティブのようにペラペラと英語を喋れるようになったわけではない。誰かに英語を教えるなんてとんでもないレベルなので、最初は断った。それでも、おばちゃんに「まぁ、お互いにのんびりと英語を勉強するつもりでお願いします」と言われて、引き受けることにした。


正直に言って、おばちゃんは英語がぜんぜん喋れない。文法からやりなおさなければならないレベルだ。でも、彼女はこれから英語のテストを受けるわけではない。ただ誰かと笑顔でコミュニケーションをとるための英語や英会話を学びたい。だから、英文法を叩き込むような僕らが中学高校の頃にやったような英語をまた教えても意味が無い。


そこで、僕は自分が「いいなぁ」と思った映画や、youtubeや、音楽や、コラムを題材にして、おばちゃんの知的好奇心をくすぐるようにして徐々に英語に馴れていってもらおうと思っている。著名な人が放った金言や、音楽の詩とか、日本の文化や宗教のこととか、アメリカ大統領選のこととか…わかりやすくするために、それらを文字に起こして毎週おばちゃんに渡している。
おばちゃんのためを思ってはじめたことなのだけれど、「いいなぁ」と感じた言葉を日本語でも英語でも文字にして考えることは、それが心に響いた理由をしっかりと考え心に刻むことができていて、結果として僕のためにもなっている。


題材のいくつかは、このブログでも以前にいくつか引用して紹介した。
「世界がもし百人の村だったら」の英文(→"If the world were a village of 100 people"
TEDで見たスピーチ"The power of introverts"(→”「内向的な人が秘めている力」
Harvard Business Reviewの中のコラム「幸せになるために、夢をあきらめる。」(→”To Find Happiness, Forget About Passion


今日はまた、TEDで一つのプレゼンテーションを見て考えた。
Benjamin Zander "The transformative power of classical music"

「全ての人間が、クラシック音楽を愛でるセンスを持っている。ただそのセンス、可能性に気づいていないんだ。そして僕の仕事はその可能性を人々の中から呼び覚ましてあげる事。できたかどうかは、輝く眼をみればわかる。」

彼のユーモアある語り口調と、時折見せる少し悲しみを帯びた、心からの気持ちを込めたメッセージに心打たれた。


こちらのリンクはTEDのオフィシャルサイト、日本語の字幕つき。おすすめ。
(→”The transformative power of classical music"


こんな音楽の先生に人生の早い段階で出会っていたら、僕はなにも楽器を弾いたりすることが出来る人ではないのだけれど、「将来はクラシック音楽奏者になる!」なんてことを言う子供になっていたかもなぁ…そんなことを思った。


Benjamin Zanderがこのスピーチの中で言うように、統計ではクラシック音楽を聞く人は全人口の3%だという。僕は97%であった。でも最近、クラシックにふれる機会が少しだけあり、そしてこのスピーチを聞いて、もっとたくさん聞いてみようと思った。
Benjamin Zanderから、彼がスピーチの中で言う"shining eyes"をもらえたようだ。


今週末の、英語学習の題材は多分この動画。僕がいいなと思った彼の言葉をいくつか、引用。おばちゃんにも、僕の友達にも、本当にたくさんの人にBenjaminの伝えたい熱いメッセージが伝わってくれたら嬉しい。

"Classical music is for everybody."
"I've one last request before I play all the way through. Would you think of somebody you adore, who's no longer there. A beloved grandmother, a lover - somebody in your life who you love with all your heart, but that person is no longer with you. Bring that person into your mind, and at the same time follow the line all the way from B to C, and you 'll hear everything that Chopin had to say."
"I realized my job was to awaken possibility in other people. And of course, I wanted to know whether I was doing that. And you know how you find out? You look at their eyes. If their eyes are shining, you know you are doing it."
"I have a definition of success. For me, it's very simple. It's not about wealth and fame and power. It's about how many shining eyes I have around me."
"I walked out of Auschwitz into life and made a vow. And the vow was, I will never say anything that couldn't stand as the last thing I ever say."

11/04/2012

秋はなんとなく人恋しくなる。

なんとなく人恋しくなる。そんな季節、秋。


東京ではコートやジャケットを着飾る人々、「少し気が早いんじゃない?」とつぶやいてしまいたくなるけれど、マフラーや手袋を着けた人もちらほら見かける。
夏の陽気は人を大胆にさせ、露出も増えて、官能的・肉体的にに人の感性を刺激する。その後に続く秋の涼しさは、触れられる部分、目に見える身体が少なくなるせいか、誰かと心を通わせたくさせる。街を歩くと、肩を寄せ合い穏やかな笑顔を交わす人をたくさんみかける。文化の日、大学祭、デザイナーズウィーク、読書週間…そんな夏とは違った文化的・精神的な行事が集中する。いい季節だなぁ…と、朝眼が覚めて、青く澄み渡る空を仰ぎ見る度に思う。


昨日、父母に連れられて初めて高尾山に行って来た。
最近は登山がブームらしく、お洒落なマウンテンパーカーにマウンテンブーツを履いた僕と同年代の人が多くて、登山と言うよりは観光地へ赴いたような心地であったけれど、久々にそんな人ごみを経験したからなんだか楽しい。少し気の早い木々が紅葉を始めており、カラフルな山ガールの格好と山の景色とを交互に見ながらの、のんびりとした登山(というより、散歩)であった。いいなぁと思ったのは、あれだけたくさん人がいたのにゴミが全く落ちていなかったこと。小さな子供連れの家族がたくさんいて、雰囲気がやんわりとしていたこと。「紅葉と楓の違い」「ももんがとムササビの違い」といったような小さな発見があったこと。


10/27~11/9は2012年読書週間。
読みたい本をリストアップしてがっつりと図書館から借りて、父の本棚から何冊か本を拝借して、本漬けの日々にする予定だった。机の上には本の山。しかし、イベントや食事会、気の早い忘年会のような飲み会、社会人になった友達との久々のご飯といった機会がたまたま多く、まったく消化できていない。
特に決まったゴールがない、誰が、いつ、どんな話をしても自由である飲み会での雑談も楽しい。それでも、客商売をしているわけでも社会人では参加必須のお付き合いの飲み会をしなければならない立場ではないのだから、会いたいと思う人にだけ会って、会いたくない人にはなるべく会わずにすませる。1人になって、あるいは大事なひとと2人で、本と向き合ったり少し深い話をする。この季節はそんなささやかな贅沢をしてみてもいいんじゃないかなぁと思ったりもする。


朝のランニングの時に、最近はラジオを聞きながらのんびりと空気をめいいっぱい吸いながら走るのだけれど、選曲やその中の歌詞なんかが本当に自分の気持ちやツボにはまって嬉しくなったりする。
この前流れたのが、Des'reeの"You Gotta Be"。
歌詞の一部を引用。
Herald what your mother said Readin' the books your father read Try to solve the puzzles in your own sweet time 
母親が言っていたことを伝えて
父親が読んでいた本を読んで
そして、好きなだけ時間をかけられるときにしっかり考えてパズルを解こう
秋にするべきことって、この歌詞にある言葉に全て集約されている。そんな気がする。
その日は終日この曲をリピートしながら研究したり、本を読んだり。明日はどんな曲が流れるのか。楽しみ。おやすみ。