8/26/2017

皆既日食

その瞬間、僅かな静寂と、それに続く感嘆の声がアイダホの平野に広がった。
たった2分間の皆既日食。
その瞬間のために全米から、世界中から、人々が集まっていた。

360度全方向に広がる夕焼けのような景色。
月に隠れてもなお世界を明るく照らす太陽。
コロナがもたらす不思議な質感の光。
夕凪のような静けさ。
影のない世界…。

それらすべてが、2分間と、その前後数分間に凝縮していた。
ただただ美しく、神秘的だった…。


「死ぬ前最後となるかもしれない皆既日食を見たい。」
父親がそんなことを言ったのは確か半年以上前のことで、そのときは何を言っとるんだと思った。
病気にかかったわけでもなく、まだばあちゃんだって健在である。
なのに、どうしたのだろうかとよくよく話を聞いてみると、アメリカ大陸を横断する既日食が8月に起こるという。
実は皆既日食という現象自体は毎年どこかで発生している。
しかし、その多くが海上であったり、僻地であったりして、僅か数キロの幅でしかない皆既日食帯にて完全な日食を見ることは容易ではない。
今回はアメリカ大陸を横断する好条件、つまり天気が悪ければ大陸の東西に移動でき、かなりの確率で見ることが可能となる。
そんな条件での皆既日食がアメリカで発生したのは30年前のこと。次はまた数十年後。
そんな理由から、56歳の父親にとっての「最後かもしれない皆既日食」となったらしい。


誘われたのはいいけれど、行くかどうか、ちょっと考えた。
正直、僕はそんなに天体観測に興味はない。
また、僕にとっては最後でもなんでもない。調べてみると15年後にも日本・仙台あたりで皆既日食があるらしい。
28歳の僕にはまだ皆既日食を見る機会はおそらくある。

でも、行きますか!と、承諾した。
お金も、休みも、やりくりすればなんとかなる。
しかし、この先きっとやりくりすることができないのは、「家族との機会」だ。
「家族との時間は、僕たちが考えているよりもずっと短い。」
5年前に書いたブログであるけれど、社会人となり地方で働き暮らしてからその「短さ」を強く感じる。
家族が元気なうちに、なるべく親孝行しておこう。
そう思っての親子旅、旅行でもあった。


旅行は山の日の3連休も使って合計13日の旅程となった。
父親が行きたいというイエローストーン国立公園、自分が行きたいというグランド・ティトン国立公園を巡り、旅の最後に日食を見るロードトリップ。
国立公園の大自然も本当に素晴らしく、父親と動物や風景を追い求めひたすら車を走らせ、トレッキングを歩き回るとても良い思い出となった。
そして8月20日、皆既日食の前日、ポートランドまで戻ってくる。

その段階でもまだ、僕の中では皆既日食は親父の付き添い程度の考えでしかなかった。
撮影のための器材を準備し、日食のスケジュールを綿密に立ててきた父親とは温度差があった。
「どこでも、父さんの好きなところで見ていいよ、車の運転は手伝うから。」
長旅の疲れもでており、そんな程度の感心しか抱いていなかった。


8月21日早朝4時。
それよりさらに30分早起きしてネットで天気を調べていた父親の判断により、天気が良さそうなオレゴン内陸の土地、車で2時間ほどのマドラスへ向かうことにした。
早朝なのに、マドラスへ向かう車道には既に多くの車が走っており、100%の皆既日食が見れる土地に近づくに連れて、大規模駐車場に多くの乗用車・トレーラー、そしてキャンプをしている人々の姿が現れてくる。
脇道に入り、ピックアップトラックの後ろに車を停め、そこで見ることにした。
到着時刻は早朝6時頃。

僕らが観察場所に選んだ土地における日食のスケジュールは、次の通り。
日食の開始時間は9時7分で、そこから次第に月と太陽が重なりはじめる。
10時40分に皆既日食。
2分間、太陽と月が完全に重なり合う。
その後、皆既日食は解け、今度は次第に太陽が月の影から姿を表していく。
11時40分、日食が終わる。

日食開始まで3時間近くあるため、車の中で仮眠をしていたら、次第に外が騒がしくなってきて、カメラのセットアップをしていた父親の会話声も聞こえはじめた。
自分たちの車の前後に停車したインド系アメリカ人達、テキサスから来た白人のおばあちゃん、イタリア人の夫婦が自然と集まり、色々話しをしながら一緒に見ることになった。
「このカメラすごいね、どれくらい見れるの?」
「雲が出てきたね、少し心配」
「日食って実は、世界中で毎年どこかで発生しているけど、その多くが海の上なんだ」
「お菓子いっぱいあるけど、食べる?インドのお菓子もあるよ」
次第にお祭りムードとなり、無関心気味だった僕のテンションも上がってくる。

9時7分、月の影がゆっくりと、ゆっくりと、太陽を蝕んでいく。
観察用のグラスをみんな着けて、「見える!見える!」と互いに話す。
それからの1時間ぐらいは、空の明るさも雰囲気もあまりかわらない。
太陽は、その一部が欠けたぐらいでは全くもってその影響を大地に落とすことはない。

月が太陽の80%ぐらいを侵食すると、しだいに空が暗くなるように感じられた。
肌寒くなってくる。
明らかに太陽光が弱まっている。
風が、どこからともなく吹き始める。日食直下の大気温が下がり、周囲から空気が流れ込んできているのだ。
鳥が、夕暮れだと勘違いしたのか、俄に鳴き騒ぎ始める。
なにか、すごいことが起きそうだという予感があたりをつつむ。
「500年前だったら、きっと多くの人が異常現象に驚いて、神を恐れたりしたんだろうね」
インド系の男性がその光景を眺めながらポツリと言った。
その通りだろう。あきらかに日常とは違う空間が当たりを包んでいく。

そして、たった2分間の皆既日食がはじまった。

そこで起こったできことは、このブログの最初に書いたとおり。

予想を超える美しさ、神秘的な雰囲気が360度全方向に現れ、静寂と歓声が辺りを包んだ…。

「あーくそっ、2分前のあの空間に戻りたいぜ!」
一緒に皆既日食を見ていた1人が言った。
「あの日食、本当にすごかった!私、泣いちゃったわ」
帰り際、ひどい渋滞待ちをしているときに、モンタナから来たアメリカ人の女性が感想を伝えてくれた。

一緒に日食を見たメンバーみんなで感想を言い合い、互いに連絡先を交換し、写真をとりあい、壮大な天体ショー見学は終わった。



2012年5月21日7時30分、いまから5年前に、日本では金環日食があり、そのときも僕は鳥肌が立つほどの感動を覚えた。⇒『鳥肌』
ゆっくりと、ゆっくりと、時を経て世界が変わっていく様、そこから表れる重厚な美しさに僕はどうやら心惹かれるようだ。

現代は、CGやアニメやVRなどで、現実そっくりな風景、さらには現実を超えた現象を作り出すことができる。
それらは確かに美しいが、どうしてもインスタントな美しさ、パット見て綺麗だと思わせることに特化しているように思えてならない。

今回僕が見ることができた皆既日食を、CGやVRで多くの人に感動させるようにつくることは、僕はできないと思う。
なぜなら、あの場に立ち、刻々と変わる明るさや雰囲気を全身で感じ、そして訪れるとてつもなく大きなものに圧倒される感覚は、有限な大自然の前でしか訪れないと強く感じるから。

皆既日食だけではなく、身の回りの自然が作り出す深みのある美しさにも、常に気がつけるようにいたい。
世界は、美しいものにありふれている。
空も、花も、森も、動物も。
それらの美しさにもっと気がつけるように、そしてそれを全身で受け止められるように、生きていきたい。そう思った。


8/10/2017

8月9日という特別な日

気がつくと夏の空になっていた。
入道雲が湧き立ち、立体的な青と白のコントラストをつくる。
坂の街・長崎では、そこに小高い山々と住宅地が重なる。
三方を山で囲まれた港町だから、平地のほとんどは商業地になっており、追いやられた住宅地は山頂に向かって広がっている。
石段の坂、その両側に墓地や家や教会がある。
人も、死者も、傾斜地に住み、それぞれの高さから世界で最も美しい港の1つといわれる長崎港を見下ろしている。


先月のこと。出張で広島・長崎を訪れて、そのまま週末を長崎で過ごした。
4年ほど前にも、この土地を訪れたことがあり、そのときも1人だった。
グラバー園、教会群、竜馬の道、造船所…数多くの観光名所を駆け足で巡ったけれど、4年前も今回も、やはり心に残ったのは戦争関連の史跡、平和公園や原爆資料館だった。
初夏、というよりはもう夏本番を思わせる陽ざしと暑さ。濃い緑に隠れて蝉がけたたましく鳴り響く。
72年前の夏、きっと同じように暑く気持ち良い日に、原爆は落ちた。
長崎を国際色豊かな港街ではなく、悲劇の街として世界に有名にさせた1日が、1945年8月9日だ。


8月9日は僕の誕生日であって、小さい頃から僕の特別な日は、日本社会の特別な日でもあった。
ただ、その特別さは未来永劫続くものなのだろうか。
歳を重ねるに連れて、誕生日という1日が本人にさえも、過ぎ去る光陰の単なる1日としか捕らえられなくなるようになってくる。
同じように原爆が落ちて何万という人々が亡くなった1日も、次第に人々の心から記憶が薄れ、その特別さは薄らいでいく。
「悲しみは時間が癒やしてくれるよ」
そんな言葉がある。これは真理だと思う。
けれど、時間に影響を受けるのは悲しみの専売特許というわけではない。

喜びも、悲しみも、誰かが生まれた日も、沢山の人が死んだ日も…
時間という大河の中において、過去の特別な日々というものはしだいに平面的にならされていくもののように思える。


お盆休み前の昨日、残る仕事がないように、少し遅くまで仕事をしていた。
誕生日であることをあまり意識することなく1日が終わろうとしていたけれど、友人から、家族から、LINEやFacebook越しに、
「おめでとう」
の言葉をもらい僕の8月9日は少し特別になった。
夜に見たニュース、今朝読んだ新聞で、今年も長崎市長による「長崎平和宣言」が取り上げられていた。少し強めのメッセージと共に。
⇒平成29年『長崎平和宣言』
⇒朝日新聞デジタル 長崎市長、平和宣言で政府批判 「姿勢理解できない」
日本という社会もまた、8月9日をとても特別な日として残そうと頑張っていた。


いつまでも、特別であったらいいなと思う。
たくさんの誕生日メッセージ、ありがとうございました。
You made my day special, thanks.





2/05/2017

「理解はできないが、受け入れる」

ダーウィンにて。
 
 
こちらにきてから、駐在員の先輩方にとてもお世話になっている。
 
異国での数ヶ月の滞在は、旅行者になるには少し長くて、しかし深く根を張り生きるには短い。
物理的にも精神的にも、今までのつながりを断ち切られた雰囲気が漂い(もともとつながりが多い方ではないのだけれど)、何となく寂しく心許ない。
 
そんなときに、特にローカルの人々が活気付く週末やオーストラリア・デーなどの祝日に、「◯◯やるから一緒にやろう」と声をかけてくれる先輩の声にホッとする。
 
 
そんな先輩の一人から頂いた1冊の本を、珍しく悪天候な休日に読んだ。
 
 
あらすじを、引用。
 
「理解はできないが、受け容れる」それがウェスト夫人の生き方だった。「私」が学生時代を過ごした英国の下宿には、女主人ウェスト夫人と、さまざまな人種や考え方の住人たちが暮らしていた。ウェスト夫人の強靱な博愛精神と、時代に左右されない生き方に触れて、「私」は日常を深く生き抜くということを、さらに自分に問い続ける――物語の生れる場所からの、著者初めてのエッセイ。
「西の魔女が死んだ」などが有名な梨木香歩さんがイギリスに滞在していた下宿先には、寛容なウエスト夫人を慕って(或いは善意につけこんで)、様々な人々が滞在する。
宗教、人種、地位、文化的社会的背景やステータス。。。
そんな人々に対するウェスト夫人の生き様は、この記事のタイトルに使った「理解はできないが、受け入れる」というもの。
 
物語のひとつ「トロントのリス」の中に、アスペルガー症候群のジョンとの話があり、心に残った。
アスペルガー症候群/自閉症に関して、客観的な説明を述べ、ジョンと著者との会話を中心に話が進む。
ジョンは化学者であり、理論的合理的な学問の中に自らの居場所を見つけている。
一方で彼は、普段の生活の様々な抽象的なこと、曖昧な表現、ルールが決まっていないものとの折り合いをつけることを苦手としている。
 
―昨日、ある集まりがあって、司会者に、じゃあ、ちょっと前に出てみてください、といわれたんでどんどん前に行って、その人の顔のすぐ目の前まで行ったんだ。そしたらみんな笑うんだよ。ジョークだと思ってるんだ。ところが僕ときたらなぜ笑われているのかわからないんだ。その人が驚いた顔をして、ハローというので、何か不都合なことをしたんだ、って分かったんだ。 
―そうか、どこまで前へ出てください、って相手は言ってないんだものね。どこからどこまでが、彼の考える妥当な「前」なのか、範囲を指定してなかったのだものね。普通は「彼」の前でなく、ぎりぎり「聴衆全体」の前ぐらいでいいのかもしれない。でも相手の目の真ん前だって、前には違いないんだもの。言ってないことを察するのは難しいね。
 
ジョンの、察することが難しいという、世間一般的に「アスペルガー症候群」「自閉症」と呼ばれていると特性。
この特性に対して、著者は言う、誰でもみなこのような自閉的な特質を持ち合わせている、オールorナッシングではなく、単なる大小の問題なのではないか、と。
ここからは自閉症、ここまではそうでないという線は、だから、実はどこにも引けないのだ。先に述べたようにその傾向は大なり小なりあらゆる人々のうちに偏在する。ボーダーというよりグラデーションで考えよう。
 
「ボーダーというよりグラデーションで考えよう」という考え方が本当に好きだった。


この本の中で一貫してこめられていたメッセージは、相手を理解しましょうねとか、人間は本質的には同じものだよ、という類の異文化理解のススメではない。
根本的に他者は理解できないということを前提に置き、それでは私とあなたの「間」にはなにがあるのか、どのような架け橋をかけることがが美しいのか、点と点を結ぶその「空間」に対する鋭く深い考察である。


そしてこの他者とのつながり方を考えるということが、今の僕たちにとって、とても大切なことなのではないかと読みながら考えた。
一つ前のブログで書いた同調する意見を持つ人だけで固まりがちなSNSがはびこる時代に、異国の人と接する機会が多い時代に、そして、「理解できないものは、排除する」「ボーダーをつくる」というナショナリズムが声高に聞こえてくる時代にとって。





「トロントのリス」というエッセイの最後、ジョンとの会話は、このような言葉で締めくくられる。
―人と人とが本当に理解し合うなんてことはないんじゃないかな、まあ、それでも一緒にコーヒーは飲めるわけだし。
この心持を大切にしていきたい。


コーヒーでも、ビールでも、お茶でも 、チャイでも、なんでもいい。
親しい人、見知らぬ人、理解できない人とでもいい。
同じテーブルにつく。
一緒に語らいあう。
小さな小さな会話を重ねあう。


「あ、こいつとは分かり合えんな」と思ったとしても、その事実を受け入れる。
分かり合えない人とコーヒーを飲めたことに、価値がある。