12/17/2016

「気分」というもの

久々に、文字を綴ります。


ブログを書くことができないほど忙しいわけでもなく、
かといって書くこと思うことがないから手が止まっていたわけでもない。

一言で言えば、単に「書く気分」ではなくなっていた、それだけのこと。
「気分」というものは、当然僕だけに限ったことではなく、とても大きく人の行動に影響する。
ある人は気分屋なんて言われて、それはつまり癇癪を起こしやすかったり冷めやすい人のことを意味して、
否定的なニュアンスが多分に含まれていたりする。
けれど、裏返せばこの「気分」というものは行動の大きな推進力や支持力と捉えることもできて、
ある期間に、何かを成し遂げるために必要不可欠な力も、「気分」なのだと思う。

そういう意味で言えば、僕もやっぱり気分屋で、様々な気分が出たり入ったりしている。
書く気分のときは、かつて、ひたすら文字を書いていた。
旅の気分のときは、とにかく海外に行きたくて仕方がなかった。
学ぶ気分のときは、カフェやレストランにこもって勉強した。
走る気分のときは、1ヶ月に200kmも走った。
服の気分のときは、良いファッションを知りたくて仕方がなかった。

そして、最近で言えば、山の気分と本の気分。
今年はたくさんの山に登り、たくさんの(主に山が関わる)本を読んだ。
数えてみた。
山行の数、13。踏んだピークは30峰をこえる。
読んだ本の数、91冊。写真集や漫画も、数には含めないけれど多く手に取った。
これもまた気分だとすれば、いつかは違う気分に取って代わる一時的なものなのだろうけれど、
それを積み重ねていくことが、ちょっと大げさに言えば、人生のようなものなのだろうと僕は思う。
気分屋、万歳。


話はかわり、来年1月から3ヶ月間、オーストラリア・パースへ行ってきます。

旅立つ前にオーストラリアに関する本を数冊読んだ。
アメリカやカナダと同じ「新世界国家」でありながら、異なる歩みを進んだ歴史。
個人主義のアメリカとマイトシップのオーストラリアとの対比。
そのマイトシップを拡張し築き上げた多文化共生という国のかたち。
そんな共生謳う政府と大いに矛盾するアボリジニ社会の問題。

多民族主義、多文化主義も、いろんな国から来た人の料理が食べられるとか、
様々な国の踊りや音楽、芸術が楽しめるといった段階では「楽しいね!」でこと終える。
けれど、異なる文化の衝突や軋轢が、法律とか国のかたちにまで展開すると、難しい。
折しも今年は英国のEU離脱とか、アメリカの独自路線が決まる様子を、目の当たりにしてきた。

文化の共存ってなんじゃらほいと、そんなところまで感じ考えることができたらいいなぁ。