5/29/2013

切り取られた表現や事実を補間する力が欲しい

「東日本大震災で、一体何人の人が亡くなったか知ってる?」
 この質問を、例えば小学生なんかにしたら、なんと答えるだろうか。小学生だけではなく、もしかしたら高校生、大学生、社会人であったとしても、なんと答えるだろうか。
「え、あの大震災で亡くなった人ってそんなにたくさんいるの?」
そうやって答える人が、僕は、少なくないほどいるのではないかと考えてしまう。なぜか。日本の報道では、怪我も、傷も、血も、死も、全くもって報道されなかったからだ。

奇跡的に生還した人。
愛する人を失い悲しむ人。
奔走する自衛隊と政治家。
原発に怒れる市民。
なにもなくなった所で呆然と立つ人。

そういった風景描写を強烈に描き出すことで、映し出せない『死』を炙り出す。それが日本のメディアの伝え方である。今回の大震災でも、死人の姿は、一切カメラを通して届けられなかった。たったの1人も。


この伝え方が悪い方法だとは思わない。これが日本のメディアの表現の仕方なのである。表現とは何かを切り取ること、付け加えること。僕は制作に携わった人々の苦悩と努力を映像の端々から感じ取る。優しさすら感じる。でもそれは、日本の放送が血や死を映し出さないようにしているという事実を知っているから思えること。地震直後の三陸海岸線に水死体が山のように浮いている映像を海外から見たから言えること。そういった映像を知らない子供、そして『死』を炙り出す能力のない人にとっては、3.11の日にキャンドルに火を灯す理由は見つけられないだろう。


インドのヴァラナシに集まるたくさんの死体、それが焼かれる姿。
チュニジアのテレビに映る近隣諸国の紛争の様子、銃で打たれ血を流す兵士と子供。
僕の大好きだった祖父が亡くなったこと、死に際に会えなかったこと。
思い返せばこの1年間、僕はたくさんの消えていく命を目の当たりにした。すごく近くにはまだ怖くていけなくても、今までよりもすこしだけ近づいた。そのおかげで、さまざまな情報から巧妙に消された大切なものを補間する力を少し身につけたように思う。でも、まだまだ全く足りなかった。


今日、授業にてイラク戦争のドキュメンタリー映像を見た。
日本ではイラク戦争は正しい戦争であったという報道ばかりであった。フセインの像が倒され喜び騒ぐ人々。ブッシュ大統領の十字軍という発言。日本の自衛隊派遣。僕も幼かったせいで、戦争の意味も何も考えなかったし、漠然と良きものだと考えていたフシがある。
ドキュメンタリーの最後に、病院に運び込まれた子供の姿を5分ほど追っていた。5歳ぐらいの女の子。米軍の砲撃を受け、血だらけになって、目が開かない。無意識のうちに着けられた酸素ボンベを手で払う。この子を写してくれと周りの医師が叫ぶ。日本人は出て行けという声も聞こえる。
女の子は、次第に、動かなくなる。父親が胸に耳を当てている。鼓動を聞いているのか。呼吸を聞いているのか。手をその子の顔の上に被せ泣き崩れる。動かなくなった右手を握りしめながら。もう二度と動かないその小さな手を。


涙が出た。
切り取られた映像や事実を補間する力が僕にはまだまだ足りないのだと痛感した。
死を炙りだす力が足りないのだと。




5/25/2013

『粋』

現代は効率一辺倒になりがちである。もちろん、仕事、学習、政治やお金に関して言うならば効率や損得は大事だ。ことビジネスに感情論を盛り込んでしまうのはちょっと野暮ったい。けれど、普段の生活、日常ではそんなに効率ばかりを追い求めなくてもいいのではないかと僕は思う。人間には損得とは別に大切なものがある。

国土交通省は電車やバスのベビーカー利用に統一ルールを作るという。背景には、子育て支援のためにお母さんにやさしい環境をつくろうということと、混雑時の電車の中でベビーカーを乗せたまま入ってくる人が多く周囲の乗客が迷惑をしていることがある。統一ルールの中にはベビーカー用の優先スペースを設ける案や、「混雑時には折りたたんで乗るように」という文面が入るという。

先日、Facebook上で高校時代からの友人と電車内の「優先席」のあり方について意見を言い合った。僕は電車内の優先席に僕達のような若い人は座るべきではないと考えていて、彼は優先席はあくまでも「優先」する席なのだから僕達若い世代の人でも座る権利があり、譲ることができるのであれば座っても良いという考えであった。「優先」という言葉の意味が難しい。

でも、僕は考える。言葉は、意味だけでなく感情を伝えるものではないのではないか、と。例えば、久々に会った友達に「元気?」と聞くことがある。この言葉の意味だけを読み取るのであれば、「調子はどう?」だけれど、この短い問のなかには「久々だねー、会いたかった、元気にやってるのか心配だった、色々聴きたいことや話したいことは山積みだけれど、いかんせん久々過ぎて急にプライベートな話を切り込むのは失礼だから、とりあえずの挨拶です、でも、できたら心を打ち解けたいよ」といった、さまざまな感情が注ぎ込まれている。それなのに、「久々にあったのに元気しか聞かないの?」なんて返答しか出来ないのであれば、それは察する心がなさすぎないか。
同様にして、電車内の「優先」という言葉のおくにある感情は、「遠慮してね」とか「配慮してね」であると僕は感じる。席に座っていて、お年寄りがきたら必ず譲ることができるのであれば座っていてもいいかもしれないけれど、3分起きにたくさんの人が乗ってくる車内で、すべての乗客をチェックして声かける視野の広さと度胸を僕はまだ持っていない。座ったら寝ちゃうし。だから、座らない。

公共交通機関の「優先席」「ベビーカーの使用ルール」、これらを「専用席」「法律」に昇華されればコミュニケーションの効率は格段にあがるだろう。白と黒のわかりやすい世界。だけど、公共の場で発生するべきことは白黒つけることでも、利益の奪い合いでもない。やわらかく、細やかな感情を通じ合わせること。『粋』を増幅させることではないだろうか。

「おっ、粋だねぇ…」と思わせる行動は、自分さえ良ければいいという考えの人のもとでは見られない。効率の反対に位置するような、やせ我慢や自己満足の領域である。それがいい。それがかっこいい。見えないし、もしかしたらもうほとんどなくなりつつある感情である『粋』。僕はそれを静かに探したい。増やしたい。広げたい。


5/18/2013

ボストンのテロから1ヶ月

遠く離れた場所で起こった出来事であっても、自分が訪れたことのある都市、思い入れがある場所ならば、住む人の顔や情景が自然と思い浮かぶ。他人ごとのようには思えなくなる。体験や経験の重要性がインターネットが発達してからものすごくたくさん主張されるようになった。僕もそう思う。情報はインターネットで手に入るけれど、最終的に「わかる」「感じる」ようになるには、人に合わないと、自分の目でみて体験しないといけない。そうではないだろうか。

マサチューセッツ州のボストンのマラソン大会最中に発生したテロから1ヶ月が経った。
3人が死亡し、170人以上が負傷。犯人は2人の兄弟であり、1人は警察との銃撃戦で死亡した。

留学中に2度もお世話になった母の古くからの友人がボストンにいる。居候させてもらいながら市街をのんびりとランニングしたり有名大学に潜り込んだり、チャールズリバーをヨットで渡ったり。知的な街の雰囲気。歴史と革新入り交じる街。道路に記された赤いサイン。ニュー・イングランドの香り残る僕の好きな街の一つ。そこが悲劇の舞台となった。






「テロの時代」
僕達が物心ついてから現在までの時代は、後にそうやって称されるのではないかと時折考える。戦争や紛争は亡くなる気配がないのだけれど、それにテロの脅威が加わった。今回の事件、容疑者はアメリカに受け入れられたチェチェン共和国出身の兄弟。アメリカに長く住み、永住権を持っていたにも関わらずの犯行だった。内製化テロリストという、外部から及ぼされた脅威ではなく社会の内側から生み出された悲劇。

僕にはこの悲劇が遠くアメリカの都市で発生したことだとは考えられなかった。日本でも、むしろ日本のほうが、内製化テロリストを生み出しやすい環境が整っているように思える。「それでも日本は平和でしょ?」警備体制とか犯罪率を見れば確かに日本ほど平和な国は世界にはない。拳銃もなく、殺人事件は極めて少ない。でも、内製化テロリストを発生させ得る要素、それを爆発させうる環境が確かにこの国にはあるように感じるのだ。

それはオウム真理教といった新興宗教が発生して広まった日本の環境とニアリーイコールだと思う。集団主義だといいながら、社会のセーフティーネットが少なくてとことん個人主義にならざるを得ない時代。ワーク・ライフ・バランスなんて言葉が当たり前になるぐらい仕事と家庭の両立が難しい現状。時代の変わり目にあり、モーレツに働けばいいのか家庭を愛せばいいのかわからない状況。キレる子供、孤独死、いじめ、3万人を超す自殺者の数。これらの帰結は少し違っていたら、すべて内製化テロリストに変わるのではないか。

テロの時代、それは無縁社会と二元論でしか考えられない人々が生み出した時代。
僕らはもっともっと、縁を大切にできる。友達にしっかり挨拶をする。見知らぬ人にフレンドリーにできる。日本のことばかり考えずに他国の人々の価値観を尊重できる。原理主義に陥らず、想像力で他の誰かの意識も理解できるようになる。小さいことから少しずつ、少しずつ。

僕は大好きなこの国、日本でテロ発生なんて悲しいニュースを絶対に見たくない。そのために僕ができること、みんなができること、それは小学校や幼稚園のときに教わるようなことなのだと思う。

優しくなろう。
人の痛みを感じれる人になろう。
思いやりができる人になろう。

たった、それだけ。できてるかな。できなくてはいけない。できるようになろう。

5/10/2013

愛を語る授業は必要かな。

日本の初等道徳教育と、フランスの高等哲学教育について。

政府の教育再生実行会議で、小中学校の「道徳」のクラスを「教科」に格上げするということが提言されている。現在は国語算数理科社会といったテストのある授業と区別されていて、教員には免許もいらず、教科書は適当なものを、また数値でその習熟度を測ることもない。しかし、現在の授業水準を「不十分」とする安倍政権は、格上げをすることによって学生がより主体的に学べるような環境を作ろうとしている。

この話を聞いてふと思いだしたのが、留学時代のフランス人の友達との会話。
一緒にテニスチームを組んでいたAntoineとその彼女Julieとは何度か一緒に御飯を食べに行ったけれど、彼らはときどき「愛について」や「学ぶということ」を真剣に語り合っていてびっくりした。話を聞いてみれば、フランスではバカロレア、日本で言うセンター試験の科目に「哲学」があるからそういった話が身近なのだとか。

バカロレアの哲学試験はなかなか興味深い。
問題は専攻によって異なるが、受験者(=18歳)は3つの問題から一つを選択して、4時間かけて小論文形式で答えを出す。たとえば、昨年出題された問題は次の通り。
文科系
「働くことで、我々が得ているものは何か?」
「すべての信仰は理性に反するものか?」
「スピノザの『神学・政治論』の抜粋について論ぜよ」
理科系
「国家がなければ、もっと自由になれるか?」
「我々には真実を探す義務があるか?」
「ジャン=ジャック・ルソーの『エミール』の抜粋について論ぜよ」
(Courier Japon6月の記事より)
日本の小中学校の道徳のクラスも、フランスの大学入試の哲学のテストも、人間の心について考えて学ぶという点では同じであるように思える。 僕は道徳を科目にすることには賛成。でも、税金使って運営していてただでさえ忙しく大変な小中学校の負担を増やすのではなく、高校や大学ですこし体系的に「教養としての哲学」を学ばせてもいいんじゃない?と考える。

昔よりも、僕達学生の考え方は多様になっている。バリバリ働いて世界と戦って生きて行きたいという人もいれば、のんびりと安定した終身雇用をもとめる人もいる。若くして起業している人から何も考えていない人まで、そのブレ幅が凄く大きい。高度資本主義社会というお金を定規にして物事を測ることの暴力性を知り、新自由主義という皆が好きなことやって成長しようという考え方の矛盾や脆弱性を発展途上国と先進国の立ち振舞方の違いに見た。価値観の振れ幅が大きくなって、正しさの平均点がどこにあるかわからなくなっている。

そこで考えなおされているのが、「美しさ」とか「徳」とか、目には見えないけれど大切な感情。これを判断の基準にしようという流れ。
目に見えないものが大事であるという言葉は聞き飽きるほど巷で囁かれているけれど、僕達日本人は大事なことは語らずに察するを良しとして生きてきた。愛とか自由とか親切とか、社会とかお金とか生死とか、そういったもの。そんなこと語り合わなくてもわかってるよねーと、無言の間で通じ合っていると思っているもの。でも、こんなにも多様な人々がやわらかくつながるようになった世界で、「なにがどのようになぜ大事なのか」というみんなのコンセンサスを無言のうちに得るって凄く難しいように思える。

自民党の憲法改正草案の中には、そんな世論や近未来を予想してか、はたまたお金をかけずに愛国心を高ぶらせるためか、「家族は互いに助けあいましょう」とか「憲法尊重しよう」とか、暗黙の了解だったことが言語化されている。道徳教育の教科格上げも同じようなものかもしれない。中国の愛国教育と同じようなナショナリズムを高めるための安倍政権の見えない第四の矢かもしれない。

でもさ、目に見えない大事なことは、できたら誰かに言われて渋々語り合うんじゃなくて、一人ひとりが大事である理由を見つけて主体的に語りたいよね。それが結果的に安倍総理の目標とする「強い日本」「美しい日本」になるんだったら万歳。ならなくても、「俺らは大事なことを考えている!」ってなんだか誇れるし。

日本の道徳教育は今後どうなるのか。
今後も注目。

5/07/2013

「日本を勉強しようと思い立った」

2006年ワールドカップドイツ大会を最後に現役を引退した元日本代表の中田英寿さんのインタビュー記事が面白かった。4月29日朝日新聞の「Wのレジェンドたち」より、一部を抜粋。
旅先で僕がプロサッカー選手だったということを知らない人に出会うと、最初は「どこから来たのか」と聞かれる。つまり僕から「プロサッカー選手」という肩書を取り払うと、一番最初に浮かび上がるのは「日本人」ということ。そういう会話を重ねる度に、僕は日本のことをよく知らないと痛感した。日本をを勉強しようと思い立った。
日本にいる時でも、初対面の人との会話は「どちらの出身ですか」という質問から始まることが多い。47都道府県のそれぞれにちがった文化があって、それは生活の積み重ねから生まれてきた。 
人に合わないと、文化の素晴らしさはわからない。情報はインターネットで手に入るが、最終的に「わかる」には自分で体験するしかない。だから、人に会いに行くのが僕の旅。 
現役引退後に世界を旅して、そして今は一般財団法人「TAKE ACTION FUNDATION」の代表理事を努めていたりと精力的に活動している中田さん。早熟なサッカーの天才、冷静な司令塔、とっつきづらそう、そんなイメージが強い中田さんだけれど、その目線は僕らと同じ所にある。

インタビューの中で中田さんが言ったことは僕も留学と旅を通じて感じ考えたことと全く同じだった。ヨーロッパを旅して、そこで世界中から来ている人たちと会っているうちに、自分は日本人でありながら日本のことをなにも知らないということに気付かされた。それまでの僕が振りかざしていたアイデンティティは、僕を構成する本質的なものではなく、大学やバイト先という「所属」、ブランドものの鞄や靴という「ファッション」や、どれだけ凄い友達を知っているかという「人脈」だけだった。しかし旅をしていくうちにそれらの表面的なものはポロリポロリとこぼれ落ちて、最後には残らなかった。そして僕は気がついた。僕の本質は「日本人」であるということ、そして僕の中を流れる家族との「血縁」なのだと。

そこから僕の視点は広がった。自分自身の本質を知らないで過ごす毎日って凄く虚しいなーって考えるようになった。腐っても僕らはメード・イン・ジャパン。僕らの外側に、アメリカンなメッキやエイジアンなファッションで飾りつけて喜ぶのも楽しいけれど、もともとの材質やしくみを知ってるほうがもっと楽しいし大事だと感じるようになった。
政治、宗教、経済、地理、言語、歴史、文化、将来、問題…あたまに「日本の」というキーワードがつくこれらの言葉が、他人のごとのようには感じられなくなった。僕はこれらをまとめて「教養」=「リベラル・アーツ」と呼ぶ。日本の教養を、僕はどれだけ知っているのだろうか。

日本の教養がなくても生きていけるのは、最初から「世界」を舞台に活躍すると心に決めている世界人か、日本の中だけで一生を過ごすことが出来た日本人だけである。でも、僕は前者になるにはまだ未熟であるし、後者のような幸せな時代はもうすぐ終わると思っている。だから、常に世界の文脈の中で日本を考えていたい。

そのためにやったこと、やっていること。
富士山に登った。季節風土の移りかわりに敏感になろうとしている。歴史の教科書を買い学んでいる。広島・長崎を訪れた。英語の勉強をやり直している。美しい日本語になるべくたくさん触れて使うようにしている。経済というグローバルに働く力学の仕組みを見ている。国の成り立ちを考えてみる。。。

これらは頑張ってやっていることではなくて、「自分史」を紐解くような、今まで知らなかった自分自身を知るような感覚で凄く楽しい。そして一生僕の支えとなってくれるものであって、僕を自由にしてくれる「リベラル・アーツ」であるように思える。

このブログを読んでくれている人は、おそらくみんな日本人であると思うけど、「日本を勉強」してますか?愛国心、ありますか?日本について語れますか?
まずは、何も知らないんだということを知るのがファースト・ステップ。次に、日本のことを知る。終わりや正しい答えはない。日本を嫌いになるかもしれない。でも、未熟でもいいから自分なりの日本を語れるようになること。それは無頓着でいたり無関心でいるよりもとっても大切なことだと僕は思う。