2012年7月19日付日本経済新聞大学欄の記事「理系女子呼び込め」より、一部抜粋。
昨年留学から帰ってきて、理工学部に復学して気付いた留学前との変化。それがキャンパス内の女子と留学生比率が増えたこと。
理工は女子がとにかく少ない。僕の学科・学年に関しては150人中女子は15人前後だった。約1割。機械科や数学科などでは2~3人しかいなかったと聞いたことがある。
そのために留学後に女子が増えたといっても、急増したわけではなく、少し増えたかなーという具合。
理工学部の中では、女子はマイノリティ。
前日書いた記事、”マイノリティであることはハンディなのか、ユニークなのか。”の後半で述べたように、マイノリティを生きる人が自分の周りにいればいるほど、人間はより多くのパースペクティブを得られ多極的に物事を考えられるようになる。引用記事の中で政府がリコジョ獲得を推進する理由「②女性研究者や技術者を増やし、技術開発の視点や発想を多様化する」、と同じこと。ユニークな人が集まり活発な意見を交わすことができればそこには新しいイノベーションが生まれる。大切なことであると思う。だから女子や留学生が理工学部に増えている事実や、政府・大学がそのための環境を整えようとしていることは素晴らしいことだと思う。
女子が理工学部に増えることは素晴らしい。しかし、僕の直感と主観はすこし違う。
少し前に僕がつぶやいて、何人かの友達から反響があったものがこれ。
そうなってしまったら、マイノリティであることから発生するユニークというメリットが、ない。アメリカを形容するよくある論議、人種のるつぼ(melting pot)とサラダボウルの前者となってしまう。
理工学部をサラダボウルのようにするためには、大学や大多数である男子が環境を整えて女子を迎え入れるとともに、女子もグループを作って結束してしまわずにオープンになる必要がある。
もう一つ。twitterやfacebookといったSNSが普及した結果、不特定多数の人に対するセルフブランディングが容易になった。そのため、マイノリティである「リコジョ」という言葉がある種のブランドのように扱われている感じが、僕はあまり好きではない。 ルイヴィトンの鞄を持つことがステータスであるかのように、リコジョであることがステータス。そうなってしまうと、上辺の知識や賛美は増えていくけれど肝心の中身が何もない存在となってしまう。自分の年収に見合っていない高級カバンを誇らしげに持ち歩いている人ほど、虚しさを感じるものはない。
性別によらず、優秀な存在が求められているという。そうであればリコジョであろうがリコダンであろうが関係ない。しっかりと勉強できる人・考えられる人が大事。周りからどう見られるか、思われているかというのをそんなに気にする必要もないのでは、と思う。
なんにせよ、マイノリティであることは大変だし不自由を被ることも多いと思う。出産や結婚を男子以上に考えてキャリアを選択しなくてはいけない彼女たちを僕はこっそり応援している。
僕の友人も入っている理系女子大生コミュニティ、凛という活動に、僕は前から注目しているけれど、いろいろ考えてるなぁと尊敬するコメントが投稿されていることがある。(→凛)
男は単純な生き物で、そこに女子がいれば頑張ってしまう。理工キャンパスに華やかさを与えてくれるリコジョの存在は彼女たちが思っている以上に大きいもの。
「リコジョ」というブランド力ではなく、「ユニーク」さ、こちらをどんどん発揮していって「リコダン」にパワーや刺激を与えてほしい。
研究もせずに、新聞読んでブログを書く不良(理系)学生が言えることではないかもしれないけれど。
"理系の女子学生「リケジョ」を増やそうと、大学が力を入れている。(中略)少子化が進み優秀な学生を確保したい思惑を背景に、各大学はOGや現役女子学生も動員して呼び込みに躍起だ。男女共同参画社会を掲げる政府の後押しも受け、理系に根強い「男の世界」の印象を変えようとしている。"
"政府がリケジョ獲得を後押しする狙いは3つある。①理系の職種で男女共同参画を進める ②女性研究者や技術者を増やし、技術開発の視点や発想を多様化する ③少子化が進む中、性別を問わず優秀な人材を確保する ―ことだ。 背景には理系職種への女性進出の遅れがある。(中略)総務省統計局によれば、日本の女性研究者数は2011年3月末時点で約12万3200人。研究者全体の13.8%で、先進国の中では最低基準だ。"
" リケジョに対する企業の期待も大きい。京セラは求めるリケジョの人物像に「コミュニケーション能力とグローバル志向」を挙げる。ホンダは「女性社員には造りたい自動車などの夢を理論的に話せる人が多い」と評価する。専門知識に加え、視野の広さや論理的な思考能力が求められているようだ。"
昨年留学から帰ってきて、理工学部に復学して気付いた留学前との変化。それがキャンパス内の女子と留学生比率が増えたこと。
理工は女子がとにかく少ない。僕の学科・学年に関しては150人中女子は15人前後だった。約1割。機械科や数学科などでは2~3人しかいなかったと聞いたことがある。
そのために留学後に女子が増えたといっても、急増したわけではなく、少し増えたかなーという具合。
理工学部の中では、女子はマイノリティ。
前日書いた記事、”マイノリティであることはハンディなのか、ユニークなのか。”の後半で述べたように、マイノリティを生きる人が自分の周りにいればいるほど、人間はより多くのパースペクティブを得られ多極的に物事を考えられるようになる。引用記事の中で政府がリコジョ獲得を推進する理由「②女性研究者や技術者を増やし、技術開発の視点や発想を多様化する」、と同じこと。ユニークな人が集まり活発な意見を交わすことができればそこには新しいイノベーションが生まれる。大切なことであると思う。だから女子や留学生が理工学部に増えている事実や、政府・大学がそのための環境を整えようとしていることは素晴らしいことだと思う。
女子が理工学部に増えることは素晴らしい。しかし、僕の直感と主観はすこし違う。
少し前に僕がつぶやいて、何人かの友達から反響があったものがこれ。
最近はリコジョ(理工女子)とかリケジョ(理系女子)という言葉が流行り、理系の知識が豊富な子はいるけれど、体験がともなう子は少ない。体験なく頭でっかちであることや、中身なく肩書きだけを振りかざし生きることほど虚しく侘しいことはないと思う。理工に限らず、女子に限らず、人生において。集団志向である日本人、その極みが女子に表れていると僕は思っている。そして女子化が進む僕と同年代の男もしかり。1人でいられないからつるむ。自分の行動を主体的に決めるのではなく、周りの人からどう思われているかを優先して自分の立ち位置を定める。その結果発生する没個性と集団の中だけで完結してしまう小さなコミュニティ。
そうなってしまったら、マイノリティであることから発生するユニークというメリットが、ない。アメリカを形容するよくある論議、人種のるつぼ(melting pot)とサラダボウルの前者となってしまう。
理工学部をサラダボウルのようにするためには、大学や大多数である男子が環境を整えて女子を迎え入れるとともに、女子もグループを作って結束してしまわずにオープンになる必要がある。
もう一つ。twitterやfacebookといったSNSが普及した結果、不特定多数の人に対するセルフブランディングが容易になった。そのため、マイノリティである「リコジョ」という言葉がある種のブランドのように扱われている感じが、僕はあまり好きではない。 ルイヴィトンの鞄を持つことがステータスであるかのように、リコジョであることがステータス。そうなってしまうと、上辺の知識や賛美は増えていくけれど肝心の中身が何もない存在となってしまう。自分の年収に見合っていない高級カバンを誇らしげに持ち歩いている人ほど、虚しさを感じるものはない。
性別によらず、優秀な存在が求められているという。そうであればリコジョであろうがリコダンであろうが関係ない。しっかりと勉強できる人・考えられる人が大事。周りからどう見られるか、思われているかというのをそんなに気にする必要もないのでは、と思う。
なんにせよ、マイノリティであることは大変だし不自由を被ることも多いと思う。出産や結婚を男子以上に考えてキャリアを選択しなくてはいけない彼女たちを僕はこっそり応援している。
僕の友人も入っている理系女子大生コミュニティ、凛という活動に、僕は前から注目しているけれど、いろいろ考えてるなぁと尊敬するコメントが投稿されていることがある。(→凛)
男は単純な生き物で、そこに女子がいれば頑張ってしまう。理工キャンパスに華やかさを与えてくれるリコジョの存在は彼女たちが思っている以上に大きいもの。
「リコジョ」というブランド力ではなく、「ユニーク」さ、こちらをどんどん発揮していって「リコダン」にパワーや刺激を与えてほしい。
研究もせずに、新聞読んでブログを書く不良(理系)学生が言えることではないかもしれないけれど。
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