7/13/2012

マイノリティであることはハンディなのか、ユニークなのか。

2012年7月13日付け日本経済新聞朝刊、社会面の記事『障害者を大学へ サポート充実』より一部を抜粋。

文部科学省は、身体障害や発達障害などを持つ人の大学進学や入学後の学習の支援を本格化する。(中略)同省は入試で適切な配慮を受けられる環境づくりから着手する。障害の種類に関係なく全ての大学を受験でき、別室での受験や試験時間の延長、問題文の代読などがみとめられるようにする。(中略)一方、支援体制は各大学任せになっており、何らかの支援を行なっている大学は全体の6割の490校にとどまり、実際に支援を受けた学生も6割にすぎない。大学によっては入学をみとめていないケースもある。海外では、米国は全ての大学に支援部署の設置を義務付けている。障害を持つ学生は全体の1割にのぼり、充実したサポート体制が多様な学生をキャンパスに呼び込んで居るとされる。 

昨日、親友の剛(Go)と久々に飯を食べてきた。



彼は生まれつき難聴で、日常の音はあまり聞こえない。
僕達が会話をするときは、でかい声を出すか、口話(僕はもちろん口を読めない。剛が読んでくれる。)か、アメリカ手話(ASL、留学中に1年間学んだ)・指文字・僕と剛の間でした伝わらないであろう適当な手話をおりまぜながら話をする。


「障害がある」と聞くと、多くの人は「ハンディキャップを持っている、不自由なんだ」と決めつけ、無意識のうちに障害がない自分たちより劣っていると判断したり、申し訳ない気持ちを抱く。かわいそうだねーって言ったりして。
でも、なんでそう決めつけるのか。
剛が昔、僕に言った言葉を今でも覚えている。
「僕は耳が聴こえないけど、それを不自由だとは思わない。不自由なのは僕ではなくて、僕を取り巻く環境だ。」
と。


日本では障害があるヒトへの環境や理解がまだまだ整っていない。公共機関も、働く場所も、メディアも、人も。マイノリティへの考え方や思いやりが未成熟であると僕は感じる。
アメリカで1年間暮らした僕が日々の生活の中で発見したことは、アメリカには障害を持っている人(車椅子、杖、眼が見えない人、お年寄り、足をひきずる人など)が凄くたくさんいて、そういった人達を取り巻く環境がとてもとても整っているということ。
小さなカフェにも、汚いバスにも、必ずといっていいほどスロープがあり優先席がある。
そして彼らがやってきたときのアメリカ人の反応はごく普通で、気持ちのいいもの―なにも特別扱いしない自然な対応―であった。


障害のみならず、人種も、宗教も、様々なマイノリティが集まるアメリカでは、マイノリティであるというアイデンティティはハンディではなくてユニークな個性であると考える。もちろん実際には様々な能力差や多数決の原理で作られた社会の仕組みなどからハンディを被ることはある。けれど、それ以上にユニークであるという意識を持ち日々生きている人のパワーが光っていると感じた。



剛とは高校からの8年来の付き合いで、親友だ。3年間同じクラスで一番前の席に座り続け、部活も一緒だった。
僕は社交的な性格からか、顔見知り(Acquaintance)や友達(friend)は凄くたくさんいるけれど、親友(Best friend)と呼べる人は数人しかいない。僕にとっての親友とは、その人の人間性そのものを尊敬できる人。
恋人や家族に対する愛ではなく、自分を重ねられる相手に抱く共感でもなく、全く次元の違うことをしている成功者に対する畏怖でもなく、同じ時間を過ごした友人・仲間に持つ連帯感・仲間意識でもない。考え方や生き方が僕に響く人=尊敬できる人。そんな人であれば、たとえ数回しかあったことがなくても僕は勝手に親友だと言い、親友になりたいと思う。


剛の考え方や生き方は、常に僕に新しい視野(perspective)を与えてくれる。
昨日も、現在僕がIT業界のインターンシップを申し込んでいると話したら、
「IT業界かー、いいね。インターネットの中は凄くバリアフリーだからね。GoogleがつくったYouTubeの字幕自動生成機能とか素晴らしいと思う。」
そういった視点でインターネット業界の良さを考えたことはなかった。
 マイノリティである彼は常に少し違った視点で世界を見ることができている。とても羨ましく思ったりする。


そして何よりも剛はアクティブで自律的に生きている。
僕と同時期にアメリカに留学しDeaf Studyを学び、一人ヨーロッパバックパックもしていた。申し合わせていなかったにもかかわらず滞在の時期が重なり、アメリカとヨーロッパで数日間の再会を果たしたりもした。昨日あったときの話では、大学院進学も決まり、日々課題に追われ、スタバでのバイトを楽しみ、夏休みは1ヶ月東南アジアを放浪するらしい。


耳が聞こえないという障害を全く感じさせない剛のアクティブな生き方と考え方を、僕は心から尊敬している。
そして、彼に負けないように、僕もアクティブに生きよう!と、会う度に思わされる。


マイノリティを生きる人が自分の周りにいればいるほど、人間はより多くのパースペクティブを得られ多極的に物事を考えられるようになると思う。これは多様化する世界ではとても大事なことであり、必須のスキルだろう。
先に引用した新聞記事にあるように、障害者への充実したサポート体制が多様な学生をキャンパスに呼び込むこととなる。それは結果として障害のない僕達にきっとよい効果をもたらしてくれる。


欧米に遅れているけれど、こういった制度や意識がもっと日本にも広がってくれれば…と思う。

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