スポーツの祭典、オリンピックがロンドンにて27日に開幕する。
僕は運動は大好きだけれど、スポーツというと小学校の頃から続けているテニスしかできない。
先日開催されたウィンブルドン。決勝を録画してみたけれど感動した。7度目優勝のフェデラーはもちろん凄い(いや、凄すぎる。)けれど、僕が感動したのは準優勝したアンディ・マレーのスピーチ。1936年以来の英国人優勝目指し、地元イギリスの期待を一身に受け、センターコートに立ち、そして敗れたマレー。
敗れた後の"Getting closer..."と言うコメントと観客への感謝と涙。やっぱりスポーツは素晴らしい!と心打たれた。
さて、そのウィンブルドンの熱が冷めやらぬイギリス・ロンドンにて、10日後に世界最大と言われるスポーツの祭典が開かれる。
しかし、ここで疑問がある。
なぜ、今、ロンドンで五輪が開催されるのか。
オリンピックは世界最大のスポーツの祭典であるけれど、それが世界最高の舞台であるというわけではない。テニスは毎年開かれるグランドスラム、陸上では世界陸上、サッカーもワールドカップ…と、ほとんどのスポーツが別の時期に、最高のパフォーマンスを発揮すべき場所が設定されている。それらの最高の場に標準を向け集中するために、4年に一度しか開かれないオリンピックに参加しないと表明するトップアスリートも少なからずいる。
それでも世界が五輪に注目する理由。そしてロンドンで開かれる理由。
まず、五輪がたくさんの利権構造によって支えられた商業五輪であるから。 1984年に開催されたLA五輪が税金を1セントも使わずにテレビ放送料、スポンサー協賛金、記念グッズの売上などだけで開催費用を賄い大成功を収めて以来、オリンピックは商業主義となった。これは国家間の政治的介入がなくなったというメリットはあったけれど、ただの金儲けのためのお祭りにしてしまったという一面もあるという。そうなればメディアは思い切り五輪を盛り上げるしかない。実は僕達が五輪に注目しているのではなく、メディアによって注目させられているのかもしれない。
次に、ロンドンで開催される理由。
オリンピックは、今まで、新興国が国際社会の有力な一員としてのし上がってくる様を世界に見せるひのき舞台として機能してきた。 64年の東京オリンピック、88年の韓国・ソウル、92年のスペイン・バルセロナ、08年の中国・北京、そして次回16年のブラジル・リオデジャネイロ。20年大会の開催を東京と争うトルコ・イスタンブールもそうであろう。 しかし、今回の英国・ロンドン、れっきとした先進国であり、世界の大国であり、さらには1908年、48年に続き3回目の開催地だという。そんなロンドンが開催地となった理由。数日前の朝日新聞の耕論の中で、東大教授である姜尚中さんがこう伝えていた。
グローバル化が過ぎ、ナショナリズムを強く意識した結果の、安息の地としてのロンドンではないかと姜さんはいう。 実は全く同じような印象を、僕は昨年感じていた。 ヨーロッパバックパックを、僕はロンドンから初めてロンドンで終えた。最初のロンドンは、なんだか良いイメージがなかった。雨は降り、妙に伝統くさく、物価は高く、ご飯は美味くない。ウィンブルドン観戦と、親友との再会というイベントがなければ1週間も滞在せずに次の街、国へと移動していただろう。
しかし、それから70日間ヨーロッパの大国を見て回り、ロンドンに帰ってきたときに僕は驚いた。ファーストインプレッションとは裏腹に妙にロンドンの街や人々が心地よかったのだ。その時は「なんでだろう。」と疑問に思っていたのだけれど、今ならわかる。グローバルな経済力を持ちながら、伝統も重んじるその『バランス』が良かったのだと思う。この街にはまた戻ってくる、戻ってきたいという直感も感じた。
日本・東京は、20年大会の開催に再び立候補している。
今回のロンドンが、グローバルな経済力、伝統やナショナリズムで選抜されたのだとしたら、グローバルな経済力で近隣のアジア諸国に劣り、愛国心や伝統に疎い日本が開催地としてアピールできることは一体何なのだろうか。
大震災からの復興を祈っての開催?そんなお情け頂戴のような理由でいいのだろうか。
僕は東京生まれ東京育ちだ。東京でオリンピックが開かれたらそれはそれは嬉しい。しかし、その開催までに日本人として、東京人として、オリンピックや国について色々と考える必要があると思う。僕だけでなく、全ての人が。
僕は運動は大好きだけれど、スポーツというと小学校の頃から続けているテニスしかできない。
先日開催されたウィンブルドン。決勝を録画してみたけれど感動した。7度目優勝のフェデラーはもちろん凄い(いや、凄すぎる。)けれど、僕が感動したのは準優勝したアンディ・マレーのスピーチ。1936年以来の英国人優勝目指し、地元イギリスの期待を一身に受け、センターコートに立ち、そして敗れたマレー。
敗れた後の"Getting closer..."と言うコメントと観客への感謝と涙。やっぱりスポーツは素晴らしい!と心打たれた。
なぜ、今、ロンドンで五輪が開催されるのか。
オリンピックは世界最大のスポーツの祭典であるけれど、それが世界最高の舞台であるというわけではない。テニスは毎年開かれるグランドスラム、陸上では世界陸上、サッカーもワールドカップ…と、ほとんどのスポーツが別の時期に、最高のパフォーマンスを発揮すべき場所が設定されている。それらの最高の場に標準を向け集中するために、4年に一度しか開かれないオリンピックに参加しないと表明するトップアスリートも少なからずいる。
それでも世界が五輪に注目する理由。そしてロンドンで開かれる理由。
まず、五輪がたくさんの利権構造によって支えられた商業五輪であるから。 1984年に開催されたLA五輪が税金を1セントも使わずにテレビ放送料、スポンサー協賛金、記念グッズの売上などだけで開催費用を賄い大成功を収めて以来、オリンピックは商業主義となった。これは国家間の政治的介入がなくなったというメリットはあったけれど、ただの金儲けのためのお祭りにしてしまったという一面もあるという。そうなればメディアは思い切り五輪を盛り上げるしかない。実は僕達が五輪に注目しているのではなく、メディアによって注目させられているのかもしれない。
次に、ロンドンで開催される理由。
オリンピックは、今まで、新興国が国際社会の有力な一員としてのし上がってくる様を世界に見せるひのき舞台として機能してきた。 64年の東京オリンピック、88年の韓国・ソウル、92年のスペイン・バルセロナ、08年の中国・北京、そして次回16年のブラジル・リオデジャネイロ。20年大会の開催を東京と争うトルコ・イスタンブールもそうであろう。 しかし、今回の英国・ロンドン、れっきとした先進国であり、世界の大国であり、さらには1908年、48年に続き3回目の開催地だという。そんなロンドンが開催地となった理由。数日前の朝日新聞の耕論の中で、東大教授である姜尚中さんがこう伝えていた。
”今、世界は経済危機で国家という枠組みが再び意識されるようになっているからです。例えば、欧州連合(EU)によってボーダレス化した欧州の中でも、政治的緊張関係にあるギリシャとドイツの戦いは、ナショナリズムを強く意識せざるを得ないことは、容易に予想できます。”
” そうした中で、落としどころとしてのロンドンという意味合いは、あるかもしれません。英国はユーロ危機から距離を置き、揺れる欧州の中では比較的、安定している。グローバル化による激変に疲れ果てた世界が求めた安定の象徵。それが英国であり、伸びざかりの新興国の登場よりも、成熟した先進国が持つ伝統の力を見たい。トラッド回帰、伝統への復権への願望と考えることはできないでしょうか。”
グローバル化が過ぎ、ナショナリズムを強く意識した結果の、安息の地としてのロンドンではないかと姜さんはいう。 実は全く同じような印象を、僕は昨年感じていた。 ヨーロッパバックパックを、僕はロンドンから初めてロンドンで終えた。最初のロンドンは、なんだか良いイメージがなかった。雨は降り、妙に伝統くさく、物価は高く、ご飯は美味くない。ウィンブルドン観戦と、親友との再会というイベントがなければ1週間も滞在せずに次の街、国へと移動していただろう。
しかし、それから70日間ヨーロッパの大国を見て回り、ロンドンに帰ってきたときに僕は驚いた。ファーストインプレッションとは裏腹に妙にロンドンの街や人々が心地よかったのだ。その時は「なんでだろう。」と疑問に思っていたのだけれど、今ならわかる。グローバルな経済力を持ちながら、伝統も重んじるその『バランス』が良かったのだと思う。この街にはまた戻ってくる、戻ってきたいという直感も感じた。
日本・東京は、20年大会の開催に再び立候補している。
今回のロンドンが、グローバルな経済力、伝統やナショナリズムで選抜されたのだとしたら、グローバルな経済力で近隣のアジア諸国に劣り、愛国心や伝統に疎い日本が開催地としてアピールできることは一体何なのだろうか。
大震災からの復興を祈っての開催?そんなお情け頂戴のような理由でいいのだろうか。
僕は東京生まれ東京育ちだ。東京でオリンピックが開かれたらそれはそれは嬉しい。しかし、その開催までに日本人として、東京人として、オリンピックや国について色々と考える必要があると思う。僕だけでなく、全ての人が。
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