5/20/2012

太陽と死と

明日は、いよいよ金環日食の日。
太陽の中に月がすっぽりと収まり、黄金のリングが空に映る。日本で観察できるのは173年ぶりとなり、次に起こるのは300年後だという。
そんなわけでメディアも大いに取り上げ、正しい観察方法なる注意が喚起されている。
「金環日食を観察する際には、必ず専用のグラスを着用して、太陽を直接見ないでください」
と。

そんな言葉を毎日見聞きする度に、ふと、思い出す言葉がある。
数週間前に読んだ本田孝好の「MOMENT」のなかのワンフレーズ。
「太陽と死は、直視できないからな。」
主人公の幼馴染で、2作目「WILL」の主役となる葬儀屋の娘・森野の言葉だ。
「WILL」「MOMENT」は人の死をテーマとしているがとても読みやすい小説。身近な人の死を経験したことがあるひとならば、心にグッとくる言葉が溢れていて、楽しく読みながらも考えさせられる。この「太陽と死は直視できない」という格言は、おそらく誰かが言った言葉の引用であると思うのだけれど、なんだか深いなぁと思い、心に残っていた。

これはつまり、太陽も死も、持っているエネルギーが強すぎて直接見るには辛すぎるということなのかな、と僕はかってに解釈した。

最近、一つの命がもつパワーやエネルギーの大きさに驚かされる事が多い。それは生きている間には気が付かないこと。僕がそれに気がついたのは、大好きな祖父を失ったからだ。当たり前に存在している間には気にしなくても何ら問題がないコト。
でも、いざ失ってみると、その失ったものの大きさに初めて気がつく。まるで、太陽が沈んで夜が訪れた時に、急な曇で陽の光が射さなくなった時に、初めて「当たり前にそこにある」太陽の存在に気付き、恋しくなり、大切だと思うように。

人間の死のイメージを人に問うたならば、十中八九「ネガティブ」な答えが返ってくる。反対に太陽のイメージは、「ポジティブ」だろう。
この陰と陽の両方が、直視できないとされている理由。眩しいから、実体がないからという答えも正しい。でもそこには、いつも身の回りに存在しているのに、気が付かない、気が付かないふりをしている、でもいざ、気がついてみるとその秘めているエネルギーに驚いてしまう、という共通点があると思う。それが、太陽も死も、きっとそれ以外の様々なものを、じっと見つめることができない理由なのかな、と。

明日の東京の天気は、生憎の曇り予報。
金環日食を拝むことができなくても、おそらく朝の7時30分、多くの人が空を見上げるだろう。そこにあるはずの太陽があってもなくても、普段当たり前に存在している太陽を気にかけるはず。

姿見えずとも、一言、感謝の言葉をつぶやきたい。
「いつも、いままで、お疲れ様、ありがとう。」

0 件のコメント:

コメントを投稿