7/19/2013

英語に囚われない。心に響くことを。

前回の留学のときと比べて、言語に対して少しだけ違った心持ちでいる。
今でも英語はそんなにうまくないから、毎日どうやってしゃべろうかなぁとか、あーうまく伝わらなかった…と考えてしまうことは多いけれど、英語に過度に囚われることはなくなった。

英語に囚われてしまうと、本来だったら意思疎通や感情を表現するツールの1つでしかないはずの言語を上達することばかりに意識が向いてしまって、大切な内容を見落としてしまったり、相手がなぜアウトプットをしたいのかという気持ちを察する心の余裕がなくなる。
言語はあくまでも手段(How)であって、英語だろうが日本語だろうが手話だろうがきちんと伝えたいことこと(What)があることが大前提、さらにその奥の人の気持ちの部分(Why)まで意識できるようになれたらいいな、と常に思っている。

そう思うようになったら、インプットも、別に英語にこだわる必要はないのではないかなと考えられるようになった。大切なことを学び感じられるのであれば、綺麗な言葉でも、ブロークンランゲージでも、無言のハグでも、笑顔でも、アートでも…入り口はなんでも構わない。

そんなわけで、アメリカにいてもインプットもアウトプットも英語漬けになろうとは思っていない。たとえば僕の愛用アプリである「社説リーダー」で社説やコラムを読み比べて、時代と社会と人の心の移りかわりに敏感になろうとしている。日本語で。
美術館にも行って来た。何を表現したいのか、アーティストが日本人でなくても想像することはできる。こちらは視覚から。

心に響くものごとを、英語でも日本語でも、視覚でも触覚でも、なるべくたくさん経験して、残しておきたい。


7月12日朝日新聞『天声人語』
自然には美しさと非情が相混じる。古来、この国土は数多の地異に揺れ、天変に叩かれてきた。1年のどの日にも、大小の爪痕と人々の涙が刻まれていよう。今日もそうだ。ひっ街道の奥尻島などを大津波が襲った北海道南西沖自身から20年の節目になる。

7月15日毎日新聞『余録』
余暇について考えたい。人によっては生きがいともいえる時間帯が、なぜ余った暇なのか。いっそのこと、「本暇」という言葉でとらえ直す方が、より効果的な時間活用につながるのではないか。(中略)
さて結論だ。本暇的時間とは、社会的な貢献と自分がしたいことで得られる満足がバランスよく融合した状態である。その意味で、最も大切なことは「自分がしたいことを見定める」ことであろう。この夏休み、自らの本暇探しをしてみたい。
7月17日日本経済新聞『春秋』
知れぬ行く末を思って、人は希望と不安の間を行ったり来たりする。勉強でも、あるいは貯金やトレーニングでもいい。すべては未来から少しでも不安を消し去ろうとする営みなのかもしれない。 



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