11/28/2012

二人称で考えられる人やコト

英語を学び始めた時に習った言葉、一人称、二人称、三人称。

一人称=I(私)
二人称=You(あなた)
三人称=he, she, they...(彼、彼女、彼ら)

この言葉の頭についている数字が示すように、僕たちにとって大事なものは概ねこの順番になっている。何よりも一番大事なものは、自分。その次が、youという単語で呼べる相手、そしてその他大勢のもの。
僕達は当然自分自身のことが大好きだ。そして、インターネットのおかげで不特定多数の誰かとのつながりも強くなった。その結果、相対的に、2番めに大事なはずの『You』の大切さが薄れてきてしまっている。二人称で呼べる相手について真剣に考えることを忘れている人が多くなっている。そんな気がする。でも断言したい。世の中で一番大事なのは、この二人称で考えられる人やコトだ。


「あなたが二人称で呼べる相手は誰ですか?」
と問われたら、多くの人が、「愛する人」と言うと思う。
この愛ってのは、ロマンチックな愛だけではなくて、もっと一般的な愛も含まれる。家族愛とか友愛、隣人愛なんかも含まれる。簡潔に言うと「涙を流せる相手」と、「誰よりも喜ばせたい相手」、自分の感情が生まれる場所のすぐとなりのスペースにいつもいる人、いて欲しい人だと僕は考える。
「もしもこの人がいなくなってしまったら泣いてしまう」
「この人を笑わせたい。」
「あいつが悲しむ姿は見たくない」
そういった感情が生まれると、その人を取り囲む「二人称の人の二人称」まで考えられるようになる。感じられるようになる。そしてその人たちも幸せになって欲しいと思えるようになる。


震災から一年八ヶ月が経った。日本において何かしらのターニングポイントになったあの日以来、今まで意識していなかった「家族の絆」をみんな深く強く考えることになったと思う。でも、あえて言わせてもらうと、それが強すぎる。家族が良ければそれでよし。そんな風潮が少なからず社会にあるように感じる。二人称で呼ぶべきであった「家族」を、一人称の中に取り込んでしまったような、1.5人称で考えるようになってしまったような、そんな感じ。その結果、「二人称の二人称」が生まれなくなり、広がりに欠け、家族も含めた個人主義に拍車がかかっているのではないか。自分のことしか考えられない人をジコチューと人々がけなすように、自分と家族のことしか考えられない人もジコチューで、社会・世界の中で生きていくなかでそれは美徳にはならない。


一人称と三人称だけの世界。そんな国や世界や社会は成り立たないし、きっとなんだか虚しい。インターネットの発達なんかで、情報や知識はいくらでも手に入るようになった。けれど、それは三人称の数を爆発的に増やしただけで、二人称の数を増やし質を高める力はあまり持っていない。世界のどこかで今も紛争で多くの人が命を落とし、飢餓で幼い子供が死んでいく。ニュースや広告でその事実を僕たちは知っている。それでも多くの人は涙をながせない。今日の一杯のラーメン、晩酌、スナック菓子を我慢して募金をしようという人はそんなに増えなかった。悲しいけれど、それが事実。それがリアル。それが二人称と三人称の圧倒的な違い。二人称は愛情を生み出す。三人称は無関心とジェラシーを生み出す。


二人称で考えられる人、モノ、ことってなんだろうと自問自答してみて、その人たちのことをもっと大切にしてみる。もしもそういった人が見当たらないのであれば、感受性を高めて意識をして、その数を1人ずつ増やしてみる。涙を流せる人、笑わせたい人、悲しませたくない人はきっと誰にでもいるし、その数に限りはない。もっともっと見つけられる、増やせるはず。どうすれば増えるか考える。
その人たちを幸せにするために学び、働き、生きる。それが人の存在理由なのかなと、ぼくは思う。そういった人が見つかってはじめて、人はブレなくなる。強くなる。人生が美しく、意味あるように見えてくる。


"Life is beautiful."
そんな言葉は、二人称の相手がいて初めて心から湧き出てくるもの。

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