4/15/2012

諏訪で感じた祖父の記憶

今週半ば、長野県の諏訪へ一人旅へ行って来た。
大学の講義を午前中に受け、昼過ぎに東京を出発。車で3時間ほどで到着した諏訪の町は、まだ梅も咲いておらず、東京とはちがった静かでのんびりとした町。
諏訪には、ヨーロッパバックパック中に意気投合した親友が住んでいる。彼の実家は酒蔵で、去年に一度遊びに行きとても楽しい時間を過ごした。
今回はその酒蔵のショールームのような建物が新築し、イベントを行うというのでそれを見に行くという名目での一泊旅行であった。
しかし、自分の中にはもうひとつ、この片田舎に来た理由があった。
それは、1ヶ月半前になくなった、祖父の記憶を探しに来るということ。
「じいちゃんがどう生きたかを覚えていたい。」

僕の祖父母は二人共ここ諏訪出身であり、古くからある家の出身だった(らしい)。
僕の苗字でもある下山家は、既にその本家はなくなっており、諏訪にはもう家はない。けれど、祖母方の家は、昔々には代々宮仕えをしていた家柄らしく、未だに本家と分家というものが存在するような田舎の大家である(らしい)。祖父がなくなる前に生まれて初めて家系図というものを見たけれど、ぼくの十数代前まで遡ると、ナントカ天皇家とつながるという話をきかされた。しかし、そんなことを聞かされたのは生まれてこの方20年経ったけれど初めてだったし、現に僕の父も知らなかったらしい。きっと誰でも何十代か遡ればみんな天皇と血縁関係があるのだと思う。

とにかく、諏訪には、僕のルーツがある。
そんな気がして、今回の思いつき旅ではそのルーツに帰ってみて、亡くなったじいちゃんが過ごした土地で何かを感じたいと思ってやってきた。むしろ、酒蔵の友達に会いに行くという名目を作ったけれど、自分の中では、何故か、諏訪に今行かなければならないような気がしてならなかった。呼ばれてる気がした。だから、半ば強迫観念に駆られて赴いたような節もある。

結論から述べると、僕はなんとなく、諏訪の土地で、じいちゃんを感じることが出来た。
諏訪から湧き出る温泉や水の中に、祖父と同じ雰囲気を感じることができた。
昔じいちゃんが遊んでいたとおもわれる諏訪大社の境内や、その横を流れる川を歩いている時に、今はなきじいちゃんの幼少期のことを思い浮かべると、そこで遊んでいた祖父の姿も見える気がした。
久しぶりに晴れたと言う諏訪の青空は、透き通るように綺麗で、そこを吹く風は気持ちよかった。

明日は祖父の49日の法要。
仏教によれば、明日、祖父は閻魔大王から極楽浄土に行けるかどうかの裁きを受ける。祖父の本当に真面目で正直な生き方から、極楽浄土へと行けることへは何の疑いもない。
ただ、冥途の旅路が順調であることを、願いたい。













0 件のコメント:

コメントを投稿