3/25/2012

semiglobalization vs. World-is-Flat-ism

今日の日経新聞中にある"日曜に考える"内の、「日本企業 世界で勝ち残るには」の記事を読んで。
同記事は、インド出身、ハーバード大学に16歳で入学した後に31歳で史上最年小で同大教授になった、各国企業のグローバル戦略に一石を投じてきたパンカジ・ゲマワット氏の話である。
「グローバル化は、いき過ぎて語られることが多い。インターネットなどの技術革新が国境の壁をなくして、『世界はフラット化する』とも言われていた。しかし、世界はまだ多様なままだ。」
「例えば交流サイト(SNN)の米フェイスブック。世界中の人と、あたかも隣人のようにつながって友人になれるというが、交流の85%以上は国内どうしてあり、増えたのは国内の友人だったという分析がある。」
「既存の人間関係や文化が持つ力は技術の進歩を上回る。少なくともあと数十年は、国境が意味を持たなくなるシナリオなど想像すらできない。企業がグローバル化を進める際もこのような『セミ・グローバリゼーション』という現実を意識しないと失敗する」 
パンカジ氏の話は、このあとグローバル化を見誤って失敗した企業や、日本企業がグローバル企業として生き残るためにはという話に及び、ビジネス論を展開する。
しかし、ビジネスはよくわからないので、自分が見て感じたことから「セミ・グローバリゼーション」と「世界はフラット化する」というキーワードについて考えてみた。

パソコンを開けば、世界中の知識が一瞬で手に入る。飛行機に乗れば、1日もあれば地球の反対側にだっていける。これは、間違いなくフラット化であると思う。
しかし、それでは世界は均一なものとなったのか。同じようになったのか。その答えを、僕は、強く否定したい。
今月初め、インドに行って来た。たった半日のフライトで行ける場所だった。別世界だった。文化も、人も、言語も、環境も。全てが日本とは違う。物理的にも情報的にもこんなに近くなったのに、世界は多様なままで在り続けているさまを感じた。
facebookが日本でも流行り始めた。たくさんの人が登録して、確かに、海外の友達と友人に馴れる機会は増えた。しかし、当たり前のことであるけれど、日本語で使い続けている限りそのポストを世界語である英語を使いこなす人ともつながることはできない。

「セミ・グローバリゼーション」な状態が続き、インフラと精神の両方が徐々に多様化していく過渡段階の世界で、僕達は生きている。
既存のガラパゴスに取り残されても行けない。幻のフラット化したグローバル社会に夢をいだいてもいけない。
現在の状況をしっかりと知り、体験すること。これがこの変化していく世界で最も大事な事なのではないかと思う。 

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