1/13/2013

「いい写真」と"photograph"について


先日、旅サークルの運営を行なっている友達からこんなことを言われた。
「竜之介さん、すごく『いい写真』撮ってますよね。今度スペインに関するフリーマガジンを作るので良かったら写真を何枚か頂けませんか?」
豚もおだてりゃ木に登る。喜び勇んで大量の写真を送りつけてしまった。


3年前、留学に行くことが決まり、感情ばかりが先走りする僕は「留学中の思い出を残すために良いカメラを買おう!」、そんな理由から付き合っていた彼女のススメでカメラを買った。RICOHのGR Digital。ズームがなく、レンズの交換もできないけれど、ポケットに入り、撮りたい時にすぐにとれる僕のお気に入りのカメラ。


留学中、英語が下手くそだった僕は、撮った写真をfacebookに載せてみんなと共有することでたくさんの友達を作ることができた。音楽も絵もできない僕にとって、言語以外の自分自身の表現方法という貴重な方法の一つが写真だった。
今でも毎日、カバンに、ポケットに、常にこのカメラを持って過ごしている。


写真は奥が深い。
『写真』という漢字。そこには、「写真は真実を写すものだ」、そんな志やルールのようなものが存在しているように感じる。でも、そんなに真実ばかりを追い求めなくてもいいんじゃない?って僕は思う。英語で写真は、"photograph"。"photo(光)+graph(描く)" =「光で描くもの」。光で描くものすべてが写真なのであって、真実でなくても、嘘も、イメージでも空想も感情でさえも許容されているような、表現の自由がこの言葉にはあるように思う。だから、自分の感性に一番近いようにカメラの設定を変えたり後から修正を加えたりして、写真とふれあう、遊ぶ、伝える。そんな楽しみ方をしたい。


写真には「うまい写真」と「いい写真」がある。僕はそう思う。
「うまい写真」は、構図をしっかりとつくったり、露出やシャッタースピード、ホワイトバランスなんかもしっかりと考慮したもの。客観的にみて評価できるものであり、努力と技術と知識で養うもの。
「いい写真」は、誰かの感性に訴えかけるものであり、ピンぼけだろうが後から加工がしてあろうが、その一枚のなかに込められたメッセージを表現することのできているもの。撮影者本人の主観、あるいはそれを見せた誰かの主観的に優れているもの。


「うまい写真」を撮るのには経験と勉強が欠かせない。一方で、「いい写真」を撮るのには豊かな感性・感受性、それにその写真について語ることについて耳を傾けてくれる大切な人が要る。自分が撮った写真は、すべてその撮影者にとっては「いい写真」であると思う。その写真を撮ったときの心情や、周りの環境を明確に知っているのは自分自身しかいない。すごく歩いてヘトヘトになった瞬間に切ったシャッターから生まれたのか、40度の炎天下の下で1時間以上も待ち続けたときの一枚なのか。そのときの感情がその写真を見返して思い出されるようであれば、それは本当に「いい写真」。でも、その時の気持ちが自分以外の誰かに伝わって、自分以外の誰かにも「いい写真」だと思われたら。そんな嬉しくて素晴らしいことはない。だから、友達から僕の写真が「いい写真ですね」と言われた時には本当にすごく嬉しかった。


時間のある日、僕は写真の整理をする。旅先の写真が多いけれど、一枚一枚を見返す度に、そのときの感情がやんわりとフラッシュバックする。写真には、遠い地のもう戻れない過去のどこかにおいてきた僕の感情が残っている。これらの写真が持つストーリーは、今は僕にとっての「いい写真」でしかない。けれど、いつか僕がお父さんになって、おじいちゃんになって、ひいじいちゃんになって…そんなときに写真が、恋人や奥さんや子どもや孫や大切な人に僕の感情を伝えるための大事で貴重な道標となってくれて、彼らにとっての「いい写真」にもなってくれたらどんなに嬉しいのだろう。
そんな思いを抱きながら、これからも写真を撮っていきたい。


僕の好きなthe band apartの"Photograph"のPVは光で描かれた映像だった。
僕のお気に入りのモノクロの写真を何枚か、ここに。
"Washington Monument"

"New Year's Day at Times Square"

"My shoes, 5years old"

"Ferry Building in SF"

"Live improvisation at Berlin"

"A girl met in Amtrak

"On rainy day, in MUNI F-line"

"Golden Gate Bridge"


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