1/03/2013

「人間は考える葦である」

カンボジア、シェムリアップ郊外。世界遺跡に登録されるアンコールワット遺跡群から車で1時間ほどいったBeng Mealeaにて。
現在も修復が施されないまま森の中にひっそりと眠る巨大寺院。今から約800年前に創建されたとみられているが定かではないらしい。かつての巨大寺院も、年月の経過とともに崩壊が進んで深い森に包み込まれ遺跡となった。
苔むした屋根。崩れ落ちた回廊。南国の鳥の鳴き声。不自然なまでに綺麗に残る彫刻。
人造物と自然が入り混じり、静かに眠る。














弟と一緒に、「なんだか天空の城ラピュタにいるみたいだね」なんて話をしながら、ガイドさんの案内に従って1時間ほど内外を見て回った。飛行石やロボットが崩れた壁の影、木の根の中から見つかりそう。本当にそう思わせてしまうような地であった。
廃れてしまった古の文明の存在を、5感で感じた。


旅行の最中に読んだ本、「武器としての決断思考」(瀧本哲史著、世界社新書)の中で、著者が一つの話を引用していた。17世紀のフランスの思想家・哲学者であるブレーズ・パスカルの「人間は考える葦である」という有名な言葉。

「人間は自然の中で最弱の一本の葦にすぎない。
しかしそれは、考える葦である。
これを押し潰すのに、自然は何の武器もいらない。風のひと吹き、水のひとしずくで、簡単に潰すことができる。しかし、自然がこれを押し潰すとき、人間は、自然よりも高貴であろう。
なぜなら、人間は、自分が死ぬこと、そして自然の力が人間の力に優っていることをよく知っているからだ。自然はそのことを何も知らない。
だから、私たち人間の貴さは、「思考」のなかにこそある。
私たちが拠って立つべき基盤は思考にあって、私たちが満たしきることのできない空間や時間にあるのではない。
だから、私たちはよく考えるように努力しなければならない。そこに、道徳の本質があるのだから。」

自然の力に、人間は敵わない。
800年前の文明が築き上げた荘厳な建造物が苔むし木の蔓に侵食された様をみて、そんなことを強く感じた。しかし、パスカルが語るように、僕らがその自然と比べて高貴でいられるのは「考える」ことができるからだと言う。



2013年、今年の僕の目標は「考える」ことにした。
今までの僕は、考えたふりをして実は考えていなかったり、忙しさを言い訳にして考えるという行動から避けてきていた。そんなことを痛感した2012年だった。アルバイトを辞めて、比較的時間に余裕のある研究室に所属して、学ぶことに注力しようとしも今までの僕の「考えることから逃げ出すクセ」は簡単には抜け切らない。


でも、徐々に考えることが上手になってきているかな、と感じることもある。それは先ず僕が何も考えてなかったんだということに気がつけたこと。そして、このブログを通じて何らかの情報をアウトプットすることができていること。言葉を発することは自らの稚拙さを披露することにもなるけれど、同時にそれを指摘してくれる人との話し合い=思考の摺り寄せによって、僕の考えるという行動を鍛える手段にもなる。寡黙なバカより、おしゃべりなバカでいたい。
さらに幸運であるのが、僕の苦手な論理的思考に強い友達、先生、後輩、同期に囲まれた環境で学べているということ。例えば僕の苦手なプログラミングも、研究も、考えるというスキルを養うのに最適な場所にあると思う。



急速に変化する時代に僕たちは生きている。考えすぎたがゆえに行動できない、時代の変化に適応できないとなってしまっては意味が無い。そうであるならば、感じる、考える、学ぶ、行動する、それらを自律的に組み合わせて苦しみもがき、楽しみ騒いでいきたい。


100年後に今僕達が生きている時代を振り返れば、それはおそらくITの時代と形容されるだろう。今後、アナログとデジタル、アトムとビット、ヒューマンとマシーンの境はどんどんなくなっていく。
IT文明。機械文明。電脳世界。歴史は繰り返すというけれど、僕らの文明もいつかはジャングルの中で静かに苔むし、次の世代が観光で訪れるような土地となるのだろうか。天空の城のように、その当時の世代は持たない革新的な技術を抱え彷徨う秘境となるのだろうか。


そんな意味のないSFチックなことを考えること。それも、きっと、自然より人間が高貴でいられる大事な「思考」のひとつかもしれない。

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