1/27/2013

名前って、どこかに刻むためにあるんじゃないかな。

日本人10人を含む人質30人以上が亡くなる惨事となった、アルジェリアでの人質事件。
9人の遺体と7人の生存者が帰国した。
そして、今日、最後のお一方も棺に横たわりながら。


今回の事件に関して、その事件自体の悲惨さに加えて話題になっていることが、事件被害者の実名報道について。当初、日揮は被害者と残された遺族の気持ちを組み、亡くなられた人々の実名報道を避けてほしいとメディア、政府側に申し立てをした。しかし、政府は実名報道を行うことに意味があると考え、彼らの帰国を待ち実名による会見に踏み切った。それにメディアも追従した。


ネット上では実名報道をしないと約束した新聞記者がそれを破り記事にしたことを非難する意見が噴出している。そして、記者たちに実名報道の意義を問うている。
(→yahoo news「アルジェリア人質事件、実名報道に遺族者から異論」
(→NAVERまとめ「アルジェリア人質殺害事件、実名報道に対する報道ステーションの弁明に批判殺到」
一方で、報道側は実名報道の意義を語る。
(→朝日新聞「日本人犠牲者名、実名公表に賛否 アルジェリア人質事件」


実名報道問題では、論争の焦点は「被害者(とその関係者、加害者)の心理」と「報道の意義」という精神論VS意味論という違ったクラスで本来は語られる。だから、それら二つは天秤にかけられても釣り合うことはなく、次第に天秤にかける重石は大きくなっていく。マスコミと大衆が乖離していく。
(朝日新聞記者が「実名を報道しない」として取材を行ったのにその約束を破ったということが本当であれば、それは報道の意義ではなくて精神の問題で、これは100%朝日新聞記者が悪い。おそらくは被害者を騙し、嘘をつき、約束を破ったのだから。でもその後に語られ始めた報道の意義論とこの記者の行動は全くの別問題だから、それらをいっしょくたにして論じるのは間違っていると思う。)


賛否両論ある、難しい問題。でも僕は実名報道に賛成という立場をとりたい。それはまず、少なくとも僕は、今回の事件で亡くなった方の名前と、それぞれの生き方を見聞きし、悲しみを共有することができたから。新聞記事を読み、亡くなった一人ひとりの方の生き方を知り涙があふれた。ネット上でこの事件に関わる多くの人(遺族も、報道も、異国の亡くなった方も)の様々な「人の死」の立ち向かい方に出会い、その苦悩に胸が締め付けられた。


そしてもう一つ、すこしだけ違う視点から実名報道について考えた。なぜ、人は名前を持つのか、ということ。僕たちはみんな、名前を持っている。生まれたときから当然のように与えられるこの名前の存在理由や本質を考えてみると、それは、「どこかに刻むもの」だからではないかと僕は思う。
どこかとはどこか。
誰かの記憶の中や、携帯電話のアドレス帳に。墓標の上や、仏壇の中に。教科書の裏表紙や、小学校の上履きに。結婚・離婚などの法的な書類の枠内や、寄付をした場所に。、自分が汗水を流した経験や、退屈な授業のノートの端に。そして、新聞記事の中に、歴史の中に、人の心の中に。


僕が羅列した言葉の中での「名前を刻む」役割はまったくことなる。個人特定、目印、所有権の主張。自ら名付けたものもあれば、誰かに勝手に名付けられたものもある。でも、その本質は一貫して同じだと僕は思う。
「ここで、僕は僕として、人として、生きてましたよ」
そんなことを示したい、人間として生きるときの根っこの部分にある感情。それを満たすために僕らはつねに「どこかに名前を刻む」ことを潜在的に考え、そして同時に「誰かの名前を自分の記憶の中に刻む」ことに意味を感じる。

被害者Aや学生Bといった表現の中では、1人、2人という指折り数えていく中では、僕らはその中にある人間そのものを記憶には残せない。刻めない。そしてこういった表現に僕は、すごく非人間的な無機質さを感じる。「刻む」という役割を担った名前が存在することで、僕たちは実感のある人間として生きていける。そんな気がする。


刻まれた名前を、大声で読み上げ周りに迷惑をかけたり、勝手にその名前に泥を塗って汚したりする不届き者も、残念だがこの世には存在する。でも、そういう人がいるからと名前を伏せることや、どこにも刻まないようにする社会になってしまったら、きっとそれは僕達の生存理由が見つけづらいもの悲しい世界であると思う。


声に出さなくても、文字にしなくても、僕たちは悲しみの意を表し伝えることができる。
目をとじる。
静かに亡くなった人のことを思う。
彼らの名前、存在を心に刻む。


黙祷。

0 件のコメント:

コメントを投稿