毎週土曜日の21時30分〜23時に、新宿3丁目にある演芸場「末広亭」では、深夜寄席といって新進気鋭二つ目の公演がたった500円で聞ける。(→新宿末広亭「深夜寄席」)
(上野にある鈴本演芸場では毎週日曜日に「早朝寄席」が10時〜11時30分に開催されている。こちらも500円→上野鈴本演芸場「早朝寄席」)
新聞のコラムでは、時折、落語の噺が引用されていたりする。
記憶にあるのは2013年5月5日の朝日新聞朝刊コラム『天声人語』の一節。以下引用。
いったん懐を飛び出した金はもう俺のものではない。落とした財布を届けられた大工は、そういって受け取らない。届けた左官も引き下がらないから、大げんかになる。南町奉行、大岡越前守(えちぜんのかみ)の裁きは…。落語の「三方一両損」である。
江戸の職人は目先の金に頓着することを潔しとしない。そんな二人の意地の張り合いがおかしい。エッセイストの中野翠(みどり)さんはかつて古今亭志ん朝でこの噺(はなし)を聞き、泣きそうになったと言っている。人間には損得とは別に大切なものがある。「損得がわからないバカでもいいんだ、と」(『この世は落語』)
人の心はややこしい。二心(ふたごころ)という言葉もある。ひとつの頭の中で天使の声と悪魔の声が交錯したりする。
損するより得する方がいいと、誰もが簡単に割り切るわけではない。見えもあれば、利他心もある。
(後略)そもそも落語ってなんだろう、そんな疑問からすこしだけ勉強してみれば、オチ(サゲともいう)のある噺から、落とし噺となり、のちに落語という名称でよばれるようなったものだという。
つまり、「おもしろい、滑稽な話であること」、「オチがつくこと」なんかが落語の定義になる。それでも、読み聞きする落語から感じられる面白さは、テレビで話題の芸人さんが演じるコントやお笑いとは一味ちがう良さがあった。
今日、初めて生で噺を聞いて感じたその「良さ」とは、「日本人に生まれてよかったな…」、そんな気持ちを掻き立ててくれる場面が何度もあったことである。
上方落語を話す人の関西弁とちょっとぼけた感じ、「ヒ」を「シ」と発音してべらんめえ調となる江戸言葉、どの時代にもいるであろう色ものに夢中になる殿様や間抜けに金儲けを考える若者が出てくる古典落語、つかみの世間話はスカイツリーに関する笑い話や時事のこと。
時空を超えた日本のエッセンスが落語のテーマ、噺家の所作、演芸場の雰囲気、いたるところに見られて、噺に引き込まれた。
落語って、例えて言うなら日本人のバイブルのようなものではないかと思った。
ちょっとだけ古くさいんだけれど、その中にとても大切なメッセージ、ラクに生きるためのヒントが詰まっている、そんな教典のような存在。<智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい>夏目漱石『草枕』の冒頭にあるような住みにくさや生きにくさを感じたときに、フッと肩の力を抜けさせてくれるもの。
まだまだ落語経験はすくないのだけれど、また観に行って経験を積みたいと思う。20代、30代、40代…年を経るごとに、同じ噺から感じることも変わってくるだろう。その違いを楽しみにしながらも、いまの感性を大事にして、色々と感じ考えたい。
そのための、落語。なんだか粋でいいんじゃないか。