2/08/2013

幸せと悲しみと掌のメカニズム

イメージしてみる。
会社でも、研究室でも、教室でも、家でも。
親しい人や知人が集まっている場所のドアを開けてみる。
そのときに、そこにいるみんなが、なぜかニコニコと笑っていたら。

きっと、なぜだかわからなくても自分も笑顔になって、
「え、なんで笑ってんだよ!!」
って嬉しくなると思う。理由を知らなくても。

少し違ったシチュエーションをまた、想像してみる。
集まっている人がなぜかみな悲しんでいたり泣いていたら。
「もらい泣き」という言葉があるように、先の例のような感情のシンパシーによって悲しくなるだろう。けれど、周りの笑顔につられてにじみ出てくる「もらい笑い」(あまりそんな言葉は聞かないけれど、あるのかな)よりも、悲しみが表面に現れるまでには時差がある。みんなが泣いている理由を探そうとして、それが僕にとっての悲しみや大切な人の苦しみだと理解して、心が揺さぶられ、そして初めて涙が流れるもの。


笑いや幸福は、明確な理由がなくても訪れることがある。一方で、悲しみや悩みや涙といった感情には原因やキッカケが存在する。言い換えると、幸せという感情は僕らが思っているよりも凄くナチュラルに存在しているけれど、悲しみという感情には力や意志が働きがあって初めて存在しえるものだということ。


そんな幸せと悲しみのメカニズムは、僕達の掌のグーパーと似ていると思う。
手の平は、なーにも意識をしていないとグーとパーの中間のような、なんとも形容のし難い状態になる。筋肉にはどんな電気信号も渡っていない、ストレスもかかっていない。自然な状態なのだけれど、なぜだか見慣れていなくて、不自然に感じる。不恰好に感じる。特別な名前がないから、ダランの手と名付ける。
ところが、「手に力を入れて!!」といわれると、きっとみんなグーかパーをつくる。そのときの手の形は、所謂「手」や「拳」であり、自然状態であるはずのダランの手よりも見慣れている。電気信号が行き渡り筋肉が思いっきり収縮しているためにものすごくストレスのかかっている、自然とは違った状態であるのだけれど、なぜだかダランと比べてより「手」のイメージに適っている。


なにが言いたいのか自分でもなんだかよくわからなくなってしまったけれど(笑)、


自然な状態のダランの掌と、不自然な状態のグーパーの掌。
ナチュラルに存在する幸せと、意識や思考が原因となって存在する悲しみ。
当たり前に存在するけれど気付きづらいものと、意識した結果過剰に発生してしまっているもの。


こんなアナロジーが存在しているように思える。


自己啓発の本の見だしなんかに、「笑うことで効率があがる!」「幸せだから笑うのではない、笑うから幸せになるのだ」というものがある。これらの言葉が僕は好きだけれど、笑っていては解決できない難問もあるのも事実だろう。そうでなければ世界中のテスト会場はニコニコ笑って解答用紙に向き合う人のほうが多くなるはずだが、実際にはそうなっていない。彼らがこの笑顔→効率UPの秘密を知らないからというわけではなくて、うーんうーんと眉間にシワを作り考えることは、筋肉を鍛えるためにわざわざ思いダンベルを上げたり下げたりする行動と一緒で、新たなパワーを得るためになくてはならないもの。しかし、その新たなパワー=自然発生するプリミティブな幸せではないということを忘れることがある。


うーん、ここまで書いたけれど、やっぱり何が言いたいのかよくわからなくなってしまったので、ナチュラルな状態の幸せを手に入れるために今日はダランの掌に戻します。


人間は、ネガティブな情報に興味をひかれがちで、グーやパーを無意識のうちに意識して作っている。なんだか思い悩み詰まっていると感じているのであれば、たまには本来は無意識のうちにできあがってる自然状態の幸せを得るように意識して、次のグーパーに備えよう。ずーっと考え続けてたら疲れちゃうよね。


そういうこと。


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