ある人がこんなことを書いていた。人間の価値判断の基準は経済状況によって変わるのだそうだ。経済が伸びているとき、人は損か得かで物事の価値を推し量る。経済が頂点に達すると、今度は好きか嫌いかで判断する。そして、経済が落ち始めると正しいか、正しくないか、で決めるという。そして、そのとき、争いが起きる。正しいか、正しくないか、という基準は人に押しつけたくなるものだ。例えば、米国にとって正しいことは、中国にとって正しいとは限らない。でも、僕はこの話を読んだとき、思った。美しいか、美しくないか。そういう価値観を持つべきじゃないかと。
ある人が「あの人は美しいですね」と言う。言われた人は「そうですか?」と思ったりする。でも、同時に「ああ、この人はこういう人を美しいと思うのか」と納得もする。そう、美しさは主観の問題。美しさを判断基準にすれば、相手の違いを受け入れることができるのだ。私はこの美しいか、美しくないか、という価値観を大事にしている。大きな決断をする前には「自分の生き方は美しいか?」と自分に問いかけるようにしている。
(2月10日付け日本経済新聞web版コラム『岡田武史の「中国細見」』より抜粋)
損か得かではなく、好き嫌いではなく、正しいか正しくないかではなく、美しさを判断の基準にしよう。そういった考え方。岡田監督は「美しさ」と一言で済ませたけれど、美しさにも色々種類があって、大分すると2つの美しさで表せると思う。
「個性の美しさ」と「当然の美しさ」だ。
「個性の美しさ」
インタビューの中で岡田監督が述べているように、美しさとは主観の問題。だから、みんな違ってみんないい。これは「個性」という言葉に置き換えられる。人とは違った考え方をしていて、それが当人にとっては当たり前であるかのような生き方をしている、内面的な美しさやユニークさ=個性なのである。
集団社会で生まれ育った僕は、主張をすることが苦手だった。前は、「気がついてるけど俺は言わないだけだよ」なんてきどったような、高みの見物をしているような、そんな心持でいたのだけれど、その実は意見を発することを怖がっていたりバカが露見するのを恐れているだけだった。稚拙でもいいから、自分が美しいと思うことを決め、それを表現することが大事なのだと最近になってやっと気がついた。そして自分自身の個性を深めるために必要な知識を蓄えようとして、必要な経験を積むように行動できるようになってきた。そんな気がする。自分自身の個性という美しさを判断基準にすることで、まだまだブレブレだけれど、徐々にその振れ幅が小さくなってきているように感じる。
「当然の美しさ」
個性だけを判断基準にしていると、ただの迷惑人間や社会不適合人間が出来上がってしまうこともある。そこで必要なのが、集団の中での美しさ。同じコミュニティの中で生まれ育ったからこそ分かち合える普遍的な美しさも存在して、それらを明確にすることも大事。
人間に生まれたから美しいと思えるもの。
和音の音色の心地よさ、笑顔を幸せだと思える感情、黄金比。
地球に生まれたから美しいと思えるもの。
月をみて物思いに耽ること、太陽光のあたたかさ、満点の星空。
日本に生まれたから美しいと思えるもの。
桜散るところの無常感、礼節わきまえるところ、四季の移ろい。
これらの圧倒的多数が美しいと思えるものもまた、自分自身がそれらから大きく道外れていたときに戻るべきだと気付かされる大切な判断基準となりうる。(もちろん、これらから離れていてもそれは個性という美しさになる。その場合、その離れたシチュエーションが当然となった姿をイメージしてみて、それが果たして本当に美しいものなのかと一考すべき。また、ルールを破ることと個性的は根本的に異なる)
この2つの美しさを判断基準にする。2つとも。
「当然の美しさ」だけに心奪われていれば、きっと「カワイイ」や「イイネ」を連呼する没個性人間になる。「いい人」として慕われて、当たり障りのない友人はたくさんできるかもしれない。ただそうなると、心底からなんでも語り合える親友や、魂がふれあう熱い絆は期待できないじゃないかと思う。
個性の美しさを追い求めるのは素晴らしいと思う。しかし時にはそれが周囲と一致しているかどうかを自ら確認する努力が必要。定められた枠の中(今はグローバルな時代、日本という枠の中でとどまる必要はない)からはみ出ていないか、他人と違うことが「カッコイイ」ことだと勘違いしていないか、と。
どんな生き方が美しいのか、美しくないと思うのかと自問自答する。そして、その答えをこれが俺の個性だぞ、と、自分自身に言い聞かせながら誰かとすり合わせてみせたりする。
写真を撮るときにピースをするのは美しくないと僕は思う。
(→なぜ、みんな、ピースをするのか。)
人々がマイノリティに対して寛容な社会が美しいと僕は思う。
(→マイノリティであることはハンディなのか、ユニークなのか。)
親切や感謝、挨拶といった感情が慣れ親しんだ個人だけで消費されるのは美しくないと僕は思う。
(→メルハバの数だけ心が軽くなってゆく)
(→「親切量」の配分について考える)
例えばそんなこと。
美しさを判断基準に。
そう考えられることが美しいと言えるような岡田監督のような人間性豊かな人になるために、しっかり学び、しっかり生きる。
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