12/25/2012

"Is There a Santa Claus?"

クリスマスイブの朝、12月24日付けの日本経済新聞朝刊のコラム「春秋」が素晴らしかったので、全文を引用。

 どんなに小さい嘘でも、なにか大事なものを守る善意の嘘でも、嘘をつくときには、人の心はチクリと痛むものだ。これほど平気で堂々とつける楽しい大嘘は、ほかにない。「サンタクロースは本当にいる」。世界中の大人たちが、喜び勇んで子供をだますのが今夜だ。
 米国のかつての大新聞ニューヨーク・サン紙は、社説で「愛や寛容、献身が存在するのと同様に彼も存在する」と格調高く論じた。8歳の少女の投書に答える形で「本当の真実とは子供にも大人にも、目で見ることはできない」と書いている。質問を出した少女はやがて学校の先生になり、47年間子どもたちを教えたそうだ。
 ほしい物を手紙に書かせたり、夜空に叫ばせたり。家庭によって流儀はさまざまだろう。サンタは日本語を読めるのか、どこで買い物したのかと疑心暗鬼は膨らむが、幼い妹や弟のために、ひそかに演技を続ける子もいる。いつの間にか、大人が子供にだまされている。
 世の中には、子供だけが知っている真実がある。愛しているつもり。優しいつもり。一生懸命のつもり。でも大人は、ちっぽけな自分の欲のために、もっとも大事な何かを忘れることがある。子どもたちは大人よりずっと幸せに敏感だ。小さな子供は日経新を読まないと思うけれど、もしこれで嘘がばれたらごめんなさい。
同じく、僕のブログを読んでいる小さな子供は いないと思うけれど、もしこれで嘘がばれたらごめんなさい。


クリスマスは冬の季語となっている。iPhoneにダウンロードした辞書「大辞林」の季語でも、「熊手」の次にくるものが「クリスマス」「クリスマスイブ」。日本にしっかりと根づいた素晴らしい文化の一つと言っていいのではないだろうか。
日本のクリスマス事情は世界のそれとは少し異なる。先日、1頁を使って日本の少し変わったクリスマスの祝い方を祝福している記事がWall Street Journalに掲載されていた。記事の見出しは、
"In Japan, a Valentine's Day on Dec. 25"
「日本では、12月25日はバレンタインデーのようなもの」
日本では クリスマスは彼氏彼女のものだということを少しの皮肉と僕も知らなかったような事実・知識を交えながら伝える。
"Everywhere you go, you are constantly reminded that you don't have a girlfriend'"
「『どこにいっても、常に彼女がいないんだってことを思い出される』」
"While just  2% of Japanese are Christian, Tokyo is done up with Santas and candy canes for the holidays, with all the atmosphere of a high-school prom."
「日本人のわずか2パーセントがクリスチャンであるにもかかわらず、東京はホリデーを祝うためにサンタやキャンディーケーン(これは、僕の知る限りでは日本では余り見られないけれど。赤と白のシマシマのミント味キャンディ)で飾り付けられ、 高校の卒業ダンスパーティのような浮かれた雰囲気が充満する。」
"She will bring a homemade Christmas cake, which looks like a birthday cake but has become a staple of the holiday in Japan."
「彼女は、自家製のクリスマスケーキを持って(彼氏の家に)やってくる。クリスマスケーキは米国で言うバースデーケーキのようなもの。めでたい日には日本の過程ではしばしば登場する欠かせないものとなっている。 」
クリスマスにクリスマスケーキを食べるのが日本では常識となっているけれど、実はこれはイギリスとか旧英連邦国に残っている文化なのだとか。日本以外の国では、有名なところではドイツのシュトーレン、フランスのブッシュドノエル、イタリアではパネットーネといった季節特有のお菓子を作ってホリデーを祝う。我が家でも今夜はブッシュドノエルを母さんが買ってきた。僕が今年のゴールデンウィークに住み込みで働かせてもらったパン屋のオーナーからは、特製のずっしり重いシュトーレンが届いた。世界各国の祝い方や美味しいところを上手く融合させる。それが日本流のクリスマス。


先に引用した「春秋」のコラム。
その中に紹介されている8歳の少女の手紙、本文はこれ。社説の原文と訳がこの頁に全文掲載されている。(→"Is There a Santa Claus?")
嘘をつくのは悪いことだ、と多くの人は言う。でも、それがサンタクロースのように小さな子どもに夢を与えるものであったら。大切な誰かの命を守るためのものだったら。真実を伝えたがために誰かの涙や怒りが増えるのであれば、真実ではなくて、心をこめた嘘をつくことも必要なときもある。そんな難しくも大事なことを思い出させてくれる。


年を重ねるにつれて、信じるということが少なくなっていき、そのかわりに理解が増えてくる。それが人間の成長である。しかし次第に、世の中には理解できないこともたくさんあるということに気がついて途方にくれる。方程式や公式によってただひとつの最適解に落ち着くことは少ないということ。みんなが納得のいくものが得られることは少ないんだということ。理解していたと思っていた一番身近な自分自身のことですら実はなにも知らなかったと気づくこと。そんな時に、人は目に見えない何かを信じたくなる。愛、献身
、寛容、友情、絆、そしてサンタクロース。小さな頃には溢れていたこの「信じる」という感情の崇高で素晴らしいことに気がつく。


僕はクリスマスが好きだ。商業クリスマスであろうと、少なくともクリスマスやサンタがない世界よりも、街にも人々の心にも温かさが溢れている。すぐ後にやってくる年末やお正月というのは、日本では実家に帰ったり、本家や祖父の家に集まったり、あるいは家族と駅伝を見たりと、なんとなくおきまりのパターンに落ち着く。しかし、クリスマスには、どんなイルミネーションにしようか、何を食べようか、そして誰と何をして過ごそうかという創意工夫をみんなが考える。家族、友達、彼氏彼女のことを考えながら。そういった小さな創造が溢れているからこそ、このホリデーシーズンはなんだか街が温かいのだと思う。


思い立って、深夜から始まる立教大学の聖餐式へ行って来た。多くの人が集まり、聖書や聖歌を歌う。僕は大きな神様は信じていないし、クリスチャンでもない。それでも、そこに集まる人々の「信じる」という心は、なんだか暖かかった。


メリークリスマス!




12/23/2012

「日本はいい国だよね!」という妄想の崩壊?

衆議院選挙の投票から一週間が経った。
結果だけを見ると、自民党の圧勝。参議院での反対を押し切って法案を可決できる2/3以上の議席を自公併せて獲得した。勝利宣言で安倍次期総理が
「今回の選挙は自民党の勝利ではなく、民主党の敗北だ」
と笑顔を作らずに語ったように、様々な国内メディアが
「民主党に対する懲罰的選挙」
「乱立する政党に迷って安定を求めた選挙」
「自民党の自滅による勝利」
と述べるように、今回の選挙では、多くの有権者はネガティブな意志で物事を決めたのではないだろう。


批判や消去法によって成り立つ選挙のことを、米国大統領選ではネガティブ・キャンペーンと言う。今回の選挙も国民の乱立し集合離散する政党と、記憶に残る成果を出せなかった民主党に対する消去法、ある種のネガティブ・キャンペーンだったのではないだろうか。

消去法のおそろしいところは、自分は選択も心に何かを決めたのでないにしても、行く道が自ずと狭まり、結果として残るのは決断となってしまうこと。
つまり、今回の選挙が「民主にNO」を言いたかったというプロセスを踏んでいたとしても、アウトプットとなるのは「自民にYES」という決断。日本で日本のメディアを通じてだけ今回の選挙結果を聞いていれば、「あーみんな民主党がダメだったから自民にしたんだなぁ」とその思考プロセスも理解できるけれど、海外メディアが力を入れて取り上げるのは後者の、「日本人は自民にYESを言った!」というアウトプットだけであることが多い。


英語の勉強のために読んでいるWall Street JournalのAsia Editionでは、「アジア・世界における日本」という少し大局的に見た日本の様子を記事から得ているのだけれど、日本にいる僕の意識とは異なった意見が述べられる。具体的には、日本がどんどん右傾化している様子を多くの読者に告げる。以下に、今週一週間の中で気になった言葉を引用。

"Japanese voters on Sunday took a high-stakes gamble on a new prime minister who is vowing a sharp shift in economic foreign policy."
「日本の有権者は、経済と外交で急進な変化を予定する新首相を一か八かのカケとして選んだ。」
"Voters opt for a sharp shift in Government Leadership."
「投票者は、政府のリーダーシップでよりはっきりした変化を選んだ。」
"Close behind the once-ruling party was the recently formed Japan Restoration Party, co-headed by nationalist Shintaro Ishihara, the former Tokyo governor who has made a point of finding ways to provoke China."
「自民党による一党支配のすぐ後ろに着いたのは、中国との争いの火種を着けたナショナリストである石原慎太郎が率いる日本維新の党であった。」
"In Japan's notoriously unstable politics, he will become the sixth prime minister since he himself left the job in September 2007."
日本の悪名高い不安定な政治において、安倍晋三は彼自身がその職を退いた2007年から数えて6人目の首相となる。」

安倍次期首相の右寄りな思想(=国粋主義=日本の利益を最優先し、排外的にそれを守り広げようとする考え方)のみを、過去の発言から抜粋して集められた記事も見受けられる。
On the territorial dispute with China;
"There is no room for diplomatic negotiations over this issue. What is required in the waters around the Senkaku is not negotiations but - if I may say at the ris of being misunderstood - physical force."
-Essay in Bungei Shunju magazine, December 2012
「中国との領土問題について:この問題に関して外交的な話し合いの余地はない。尖閣諸島の領域において求められているのは、誤解を恐れずに言えば、物理的な力である。」
On nuclear weapons:
"The possessions of nuclear bombs is constitutional, so long as they are small."
-speech at Waseda University, May 2002
「核兵器について:核兵器の所有は合憲である、それらが小さいのであれば。」
On Japan's apologies to Asian neighbors for World War Ⅱ:
"If the LDP returns to power again, we will have to rebuild our East Asian diplomacy. Being excessively considerate to naighboring nations... has not brought us real friendship."
-interview with Sankei Shimbun, Aug.28 2012
「もしも自民党が政権を取り戻したら、我々は東アジアにおける外交を構築しなおさなければならない。近隣諸国に対して不当に優しくいることは、私達に本物の友好関係をもたらしてはくれない。

もちろん、上に述べた日本の右傾化を語る以外の金融政策の話も多いし、反対に次期安倍首相はそこまで国粋主義には走らないという記事もある。

"Japan's new leader won't be a dangerous nationalist."
「日本の新しいリーダーは危険なナショナリストにはならないだろう。」
"Mr. Abe is ofte smeared as a nationalist, yet he improved relations with China last time in office."
「安倍次期首相は度々ナショナリストであると批判を受けているが、しかし、前政権時には中国との関係改善に努めた。」
(以上全てWSJより引用)

それでも、多くの記事が語るのは上に引用したような内容であり、そして結果だけを見るのであれば、そんな首相を小選挙区制度による事実上の直接首相指名制度によって日本人は2/3以上の議席を預けるほどの「YES」を言ったということである。
「民主党・第三極に対するNO」であるとか、投票率60%のうちの半数の票であったから事実上は全国民の3割も自民を選んでいないという理屈は、国内では当然であっても、海外ではそんな細かいことまでは語られ伝わらない。伝わるのはわかりやすい「日本人の大多数が右傾化を語る党首を選んだ」ということである。


これを政治の話だと片付けていいのだろうか。海外旅行に行ったり、外人の友達を持つ人には、「日本はいい国だよね!」とろくに日本のことを知らないのに日本に対して好印象を持ってくれる海外の人々の反応に出会ったことがあると思う。
そういった反応が、もしかしたら今後、変わる可能性がある。それは今後の日本の政治や経済、アジア・世界の中での日本というフィールドでどのような役割や姿勢でいるかによる。
同時に、このような海外からどう見られているかということを意識して情報収集していないと、日本は、日本人は、ますます孤立してしまうと思う。政治家だけでなく、海外との接点が日本で暮らしていてもどんどん増えているこの時代においては、一般市民である僕達ひとりひとりが。


選挙は終わってしまったけれど政治に注目しなければならないのはこれから。
安倍次期首相の今後の動向に、しっかりと意識を傾けていきたい。

12/22/2012

「親切量」の配分について考える

昨日は冬至。北半球では太陽の高さが最も低くなる日。
日本では冬至の日にはゆず湯に入り、カボチャを食べる習慣がある。ゆず湯は「冬至」と「湯治」をかけたもの、かぼちゃは冬場の野菜に足りなかった栄養分を補うために保存がきく栄養価の高いものを食べたのだという。寒さが一段と厳しくなるこの季節。風邪予防のために語り継がれた先人の知恵である。我が家ではカボチャは食べなかったけれど祖父の家から大量のゆずが、祖父の達筆だとも悪筆だともとれるメモと共に届いたので、ゆず湯にして身体を暖めた。
時代が移り変わって、薬や医療は発達しても、人の免疫力はそこまで変わっていないだろう。何よりも健康が大事。食べるものをしっかり食べて、体を温めて、毎日元気に過ごしたい。

そんな湯治の日、SF留学中にお世話になった人にご挨拶をするために、飯田橋のホテルへ向かった。場所がら各国から来るビジネスマンや観光客が多く、ホテルの周りにはトランクを引いて歩く人々の姿もちらほら見られる。
予定より早く到着して、普段は利用しないコーヒーチェーン店で窓の外を見ながら珈琲を飲んでいた。店内の窓際の席にドイツ人の家族が座っていた。いかにもドイツ人らしい格好をしたお父さん、お母さんと、小さな子ども2人。珈琲を飲みながらのんびりと話をしていた。
今日の予定が決まったのだろうか、4人が席を立ちお店を出るときに、気づいたことがあった。自動扉を出るときに必ず後ろを振り返り、少し止まって中をみてから外に出るのだ。お父さんも、お母さんも、子供二人も。


「Thank you」って言いたいんだなぁ…と、僕には解った。日本では飲食店、とくにチェーン展開している店での食事を済ませた後に、お店の人に声をかけて出ていく文化や気配はない。小さな声での「ご馳走さま」「ありがとう」もなく、お店に入ってから出ていくまでに口から出る言葉はメニューの名前だけだということも多い。しかし、僕がバックパックしている時に感じたことだけれど、ヨーロッパの国々や僕の留学先のSFでは飲食店で食事が終わった後に、お店の人に一声かけて出ていく人が日本よりも多かった。「美味しかったよ!」「今日も良い日を」「ありがとう」そんな小さな言葉だけれど、そこに会話やつながりが存在することで心が豊かに、嬉しくなる。そのドイツ人家族の後に無言で店を去るお客さんを見ていると、なんだか足早に店から逃げていくような印象を受けて、悲しく虚しくなった。



お店を出るとき、品物を受け取ったときの小さな「ありがとう」という声かけ以外にも、海外では見かけるけれど日本では見かけない日常の小さなことはたくさんある。留学から帰って来たのちの、留学仲間との「そういえば米ではみんな〜やっていたよね」の話の中に必ずでてくることが、例えば、ドアを開けてあげること。
教室のドアや、レストランの入口で、後ろから続いてくる人のために自分が開けたドアを押さえ、開けたままにしてあげる。小さな親切であるけれど、サンフランシスコではみんなが自然にこれをやっていた。そしてそこにも、開けてくれた人に対する「ありがとう」「どういたしまして」という小さな会話やつながりが生まれる。


こうやって、「アメリカでは〜」的な話をすると「まーた下山はアメリカナイズされやがって」という声が聞こえてきそうだけれど、僕はいいなぁと思ったものことに関してはどんどんアメリカナイズされて良いと思ってる。日本ではとにかく、多数派ではないものを小さくまとめて異質な奴というレッテルを張って、あまりそれを主張しないように楔を打つ風潮や、新しいものを融合させずにそのままブロックとしてまとめて置いておく文化があるように思える。
アメリカナイズ、リア充、キョロ充、ゲイレズバイセクシャル、理系文系という言葉…
異国の素晴らしい文化を伝えようと思っている人、人間として素晴らしい恋をしている人、そうなろうと努力している人、他人とは違った性の好みがある人、異なったフィールドの勉強をしている人、そういった人に対して上のような言葉を使って抑制もしくは理解したつもりになる。無条件に「あ、リア充ですみません」といったような雰囲気を作ってしまったり、マイノリティの人が持っている素晴らしい価値観を分かち合えなかったりする。とてももったいないことだと思う。


国の文化論を語るときには、日本人はよく集団志向で仲間意識が強いというが、その集団という言葉が包括するのは日本列島ではなくて、自分が所属するサークル、ゼミ、会社、大学といった単位であって、その他の人には打って変わって排他的。自分の上司や友達に対しては挨拶や礼儀をしっかりとしていても、その他の人々に対しては粗暴であったりすることがある。
人間の持つ、他人に「ありがとう」って言える優しさの総量=「親切量」は、何処の国の人もそんなに変わらないと僕は思う。そうであれば、日本人はこの「親切量」を身内に対してだけで消費し過ぎていないか。もうちょっとだけ、この「親切量」の割り当てを社会に向けてみる。それだけで日々の閉塞感は一気によくなると思う。


普段言わないところで、「ありがとう」といってみる。それだけで心が軽くなることもある。自分自身の「親切量」の割り当ては、偏ってないだろうか…。そんなことを考えた、冬至の日の朝のこと。

12/19/2012

20年後、自分の子供にどんな話をしたいのか

20年後、2032年はどのような世界になっているのだろうか。
僕や、僕の家族や、子どもや、日本、世界、地球は宇宙はどうなっているのか。
テクノロジーは、エネルギーは、政治は、国際関係はどう変わっているのだろうか。
ふとそんなことを考えたりすることがある。


20年も経てば、おそらく、僕や僕の友達の多くに子供が生まれている。
そんな子どもたちから、
「お父さん、お母さんの子供の頃ってどんな時代だったの?」
と聞かれることからはじまる、自分と世界の昔話。
今、僕達が生きているこの瞬間は、将来生まれてくる世代のだれかにとっては経験したことがない未知のものとなる。文章や映像によってどんなに鮮明にその当時の知識を得られることができても、そこにリアリティは感じられない。戦争というものに実感が沸かないように。インターネットが存在しないことが考えられないように。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。腹に入って消化され、血となり肉となったが最後、咀嚼したときの感動や苦痛は頭の中からは消えてなくなる。僕らにとっての今日の常識も、子どもたちにとっては「昔の時代の不便なもの、大変だったこと」で片付けられてしまうかもしれない。


平成元年生まれの僕や同年代の人たちは、デジタルネイティブ世代と言われる。しかし、記憶の片隅にかろうじでインターネットが生活に根ざしてなかった時のことも覚えている、パケホや無料でネットが使えずにアナログで代用する重要性も見知っている、言わばデジタルとアナログのバイリンガル世代とも言える。しかし、現役の高校生の4人に1人は初めて買うモバイル端末がスマホという時代、生まれてすぐの赤ちゃんがタッチパネルのフリック動作をする時代、アナログはこれまで以上に淘汰されデジタルの世界で全てのことが完結するようになる。バイリンガルの数は減っていく。これからはもっとデジタルネイティブ世代が幅を利かせることになる。


例えば、お金、電子マネー。
SUICA、PASUMO、ICOKA、SUGOKA…
10種類以上の交通系ICカードが連合を組み、来年春から相互利用が可能になる。東京でチャージしたお金が、日本全国どこの交通機関やコンビニ、飲食店で利用できるようになる。
日本のガラパゴス技術で有名だったおサイフケータイ機能、NFC(Near Field Communication)も、地域制約がなくなりNFCの国際基準が統一されたら爆発的に利用者は増えるだろう。国際基準を作り広げるということで一役買うのがおそらくApple。次期iPhoneにはNFC搭載が噂される。(→iPhone5Sは2013年6月にカラーバリエーション、NFC(オサイフケータイ)搭載でリリースされる??
20年後、子どもたちにあげるお小遣いは全て電子マネーになるかもしれない。落とす心配はない。生体認証なんかで利用者を限定しておけば盗まれる心配もない。利用履歴も全て残り、家計簿はネット上にリアルタイムで更新される。財布も軽い。


例えば、紙とペン。
KDDIテレビ会議システムが謳うのは、タブレットやスマートホンを用いた便利な未来の会議のかたち。インターネットでつながっているために一同に介さなくてよいのは当然で、会議をしながら同時にタッチパネル上でメモをとったり資料を共有したりすることを可能にして、紙やペンなどを一切持たずに会議できる。会議録は映像も音声も含めてデータで残しておける。
会議の場のみならず、大学における授業のノートも全てデータ化。クラウドにあげて共有して、いつでも好きなときに授業ノートも本も読める。タイプ、タッチパネルでその場での補修も簡単。これは既に実現していて、僕の友達や後輩はiPadをフル活用してこれを実現している。これからはこの光景がスタンダードになるだろう。


便利なものには人間は抗えないもので、その便利さが血肉にかわって常識となったころには昔の不便な物事は忘れ去られる。でも、便利ではないもののなかにも大切なこと、大事なことってたくさんあると僕は信じたい。例えば手書きの手紙で伝えるメッセージとか。そんなことを思って、
「みんな、クリスマスや正月ぐらいは手紙書こう!」
ってメッセージをこめて下のポストをFacebook上で公開した。

Just one week before Christmas Day. 
I usually don't plan to do anything special around Christmas time, maybe just have a bit special dinner with my family and hang out with my friends or gf if i have. However this year, I will send Christ
mas cards to my best friends. I usually send Japanese traditional new year's greeting cards to my relatives on a New Year's day, but my family is mourning for my grandpa who passed away this spring. Traditionally, it is prohibited to exchange those new year's greeting cards between the family with someone departed in the year before here in Japan, so I decided to send Christmas cards instead.

Thanks to Go Kurihara just came back fron Germany, I got some nice and original Christmas Cards. Writing messages takes time. It is also a hard work to my hand which gets used to sending messages by flicking and typing. We are living in the world really convenient with smart technology, but something important is hidden under the something inconvenient.

We still have one week before Christmas. If you have one you really thank, like and love, why don't you send a card with just one comment such as "Hey, thanks, daily!!" or "I love you, seriously."

Too romantic? so when will you be romantic if you miss this happy season?
I would rather be romantic and happy than be cynical and doing nothing.

I wish you a Merry Christmas.


20年後には、紙とペンを使って誰かにメッセージを送るなんていう「常識」は、なくなっているのかもしれない。現在、既に年間での年賀状や手紙の配達件数が減っているというペースを考えればありえないことではない。


すごいスピードで変化する最新のテクノロジーについていくだけでも精一杯かもしれない。このスピードについていくこと、あるいはその先を見据えてアクションを起こすことはとても大事。しかし同時に、僕は昔の不便なものの大切さや重要性を理解して、利用できるうちはしっかりと利用し続けたいとも思う。
それが、デジタルとアナログのバイリンガルとして生まれた僕が、20年後に自分の子供にしたいストーリー。最新のデジタルだけではない、古き良きアナログだけではない、その両方をしっかりと経験して、感じたことや考えたことなんかを、僕達の子供に伝えてあげたい。僕はそう思っている。



12/16/2012

ポケットには常にメモとペンを。

毎日を生きていて、ただの学校や職場と家の往復だけの日々であったとしても、僕たちはたくさんの言葉を目にしたり耳にしたりする。電車の宙吊り広告の言葉、テレビのCMのワンフレーズ、友達との何気ない会話、新聞のコラムの片隅、映画の台詞、歌詞の中…

「うまいこと言うなぁ……」
「わかる!」
「この言葉は深そうだぞ」

もしかしたらその中の一言が僕達の人生の一生を変えてしまうようなフレーズであったり、素晴らしいアイデアだったり、本物の言葉だったりするかもしれない。しかし、人間はその瞬間にはすごーく大事だと思ったことも、感じたことも、直感も、感情の移ろいとともにいつかは忘れてしまう。
失恋したときの心苦しさも、素晴らしい映画をみて泣いたときのことも、自分の思うようにならず悔しいと思ったことも、誰かとの話し合いの中で生まれた感情も。


忘れるということは、僕たち人間が持ち合わせている素晴らしい能力の一つである。それと同時に、忘れるということは、僕達を成長させるチャンスの芽を摘むものでもある。例えば、なにか失敗をしてしょげているときには、僕たちは酒を飲んで忘れたいと感じる。それはストレスを発散して次の事柄に移れるというプラスの面と同時に、その失敗を繰り返さないように行動を改めるチャンスを失ってしまうというマイナスの面もある。だから、忘れることも大事だけれど、忘れないことも同じくらい大事だろう。


忘れないためにどうすればよいのか。一つには、その出来事を誰かと共有するということがある。FacebookやTwitterなどのSNSを用いて誰かと共有するということもひとつの方法ではあると思う。しかし、僕の友達が以前、
「ほとんどの人にとってFacebookは自慢のSNSで、TwitterはぼやきのSNS。極端に良いこととつまらないことばかりが集約されていて、そこに価値を見いだせない。」
と言っていたように、そこに掃き出される感情には偏りが生じる。それに、忘れないでいたいと思ったこと、それはつまり自分自身が大事だと思ってもっともっと自分で考えたり悩んだりしなければならないと感じたことのはずなのだけれど、それを多数の人のLikeやRTによって成り立っている世界においてしまったら、周りの人の反応の数だけで出来事を判断するようになってしまう。
感じる、思う、考える、選ぶ、決める…そういった人生の根っことなることは、1人でしかできないし、1人でするからこそ意味がある。


共有する誰かは、自分が本当に信頼していて、大事だと思う人。これからもずっと付き合っていきたいと思う人にするべき。そういう人であれば、親身になって話を聞いてくれるし、よきアドバイスをくれるし、時がたっても相談したことを覚えていてくれる、かもしれない。だから、時間が経過しても、自分で話しておいてその当人は忘れてしまったことも、「そういえばあの時はお前は〜なことを言ってたよね。」なんて言って思い出させてくれる、かもしれない。自分の本音を語ることの出来る友、家族、愛する人がいることはとても大事で、彼らに語っておくことはコンピューターのメモリに残しておくという確実な共有方法ではない、「かもしれない」方法だけれど、それぐらいの方がいい。親友の心にも残せないような出来事は、実はきっとそんなに大切なことじゃないんじゃないかって考えて、忘れていいんだという判断基準にもなる。


全ての出来事を、心動いた時事や言葉を、誰かに話したり共有することには限度がある。だから、僕は、メモをとることにした。ロディアの小さなメモ帳と、4色ペンを常に携帯して出歩くことにした。そして時間のあるときにその言葉を振り返ってみると、
「俺はこんなことをメモしてたのか。そんなに大事なことだったのか。」
と振り返れる。それってすごく意味の有ることであると僕は思う。


僕は今年の夏から、とにかくそういった僕の心に響いた小さなことをメモに残すことにした。旅先で気づいたこと、新聞のコラムのワンフレーズ、本の中で感銘をうけた言葉、友達が薦めてくれた映画の名前。アイフォンのメモ帳にフリック入力するのではなくて、ペンで手書きで記しておく。この行為は、正直面倒だ。でも面倒であるからこそ、本当に大事だと思った言葉しか残さないようになった。どーでもいいことは、自然とフィルターされるようになった。なんでもかんでも残しておくのではなくて、自分自身がその一瞬だけでも大事だと思ったことをしっかりと手を動かして残しておく。まだ始めたばかりだけれど、雨が降っていて凄く寒かった今日のような日にそのメモ帳を読み返してみると、まだそんなに月日が経っていないのに忘れていた感情や出来事があることに気がつく。例えば、
「自分が生まれる前に起きたことを知らないでいれば、ずっと子供のままだ――。」
そんなどっかのコラムで読んだ共和制ローマ末期の政治家キケロの言葉を読み返して、「そうだ、もっと歴史を勉強した方がいいんだった…」と真剣に考えたことを思い出したり。


人は常に前に前に、先を先をみて生きてしまいがちだけれど、時に大事なことは一瞬立ち止まり、振り返ることであると思う。その振り返るときに、振り返るべきヒト、モノ、コトがあればそれはとても心強い。このブログも、僕の中では備忘録であり、自分自身で考えたことをしっかりと整理するための一つのツール。
日常の小さな出来事の中に、日々を豊かにする、僕らを成長させるたくさんのキーワードが散らばっている。それらをこぼれ落とさないために、社会人になってもおじいちゃんになっても、ポケットには常にメモとペンを持って生きていきたい。


12/14/2012

僕と情報と社会の距離感と関係性

近代から現代へと移り変わるなかで、新聞・雑誌や本にくわえて、映画・ラジオ・テレビなど、様々なメディアを通じて情報が伝達されるようになった。そしてインターネットの時代が到来し、僕達の身の回りには常に様々な情報が溢れかえっている。
そんな「情報」と自分自身が、どのような距離感を持ち、関係性を築いて生きていくのか。どの情報を重要だと思い、取捨選択していくのか。一人ひとりが意識しておくべき大切なことであると僕は思う。


一昨日、12月12日、北朝鮮が事実上の長距離弾道ミサイルを発射した。
発射の時期を1週間延期させるという報道があったために、日本政府や韓国、中国、近隣諸国は年内の発射はないのではないかと考えた矢先の発射と成功。不意を打たれた形での発射に、日本のメディアは大々的にこの事実を報じた。
しかし、この事実を僕が知ったのは丸々一日経過した昨日の朝のことだった。
最近、社会のことをもっとよく知っておこうとアンテナを張っていた(とくに国際関係に関して)にもかかわらず、隣国のミサイル実験の報道を知ったのは丸々24時間が経過してからだったことに軽くショックを受けた。 


でも、これは至極当然のことだった。というのは僕が情報源としているのは主に新聞であるからだ。おそらく、twitterやテレビといったものを情報源としている人は、発射の数分後には緊急ニュースのテロップや誰かからのRTによって即時的にこのニュースを知ることが出来ただろう。朝刊をがっつりと読むことにしか情報収集の労力や時間を割いていなかった僕には、スピード感のある情報が届かなかった。


同じ日に、研究室の尊敬する友達と、
「新聞とインターネット・メディアのどちらが優れているのか」
というトピックで議論をした。
彼は、ものすごくコンピューター&情報リテラシーが高く、SNSを利用した情報収集もただ集めるだけではなく自分なりに活用している。GunosyやTweetedTimesなどの情報収集アプリも利用し、偏りのない情報を集められているようだった。
しかし、僕はインターネットを用いた情報収集には今はまだ懐疑的で、どちらかというと新聞派であり、彼との議論はちょっとした言い争いとなった。


僕の考えをまとめて言うと、
「インターネットは情報媒体としては最高かもしれないけれど、それを使う人間がまだそれを使いこなすレベルにまで到達していない。だから、今はまだ、古臭いけれど普遍的な情報媒体(新聞など)にも眼を通すべきじゃないか。」
ということ。


インターネット上には無数の情報が存在するけれど、人がそこから情報を取り出そうとすると、とにかく自分の好きなものに偏ってしまう。Gunosyのようにユーザーの傾向を読み取りバランスよく情報収集したとしても、それは結局自分だけのオーダーメード新聞ができあがるだけであって、全く同じ生地を何百万人という『社会』と共有しているわけではない。最近聞くようになった「キュレーション」も、一緒。情報が集められると、それは『個人』にとっての最適な情報とはなっても『社会』にとってのそれとは異なってくる。


わかりやすくするために、グラフにしてみた。



面積の広さや位置はかなり適当。でも大体こんな感じではないだろうか。
つまり、「情報収集する!」と言ってインターネットを開いたり、自分のために最適化されたキュレーションサービスを利用したものばかりに頼っていると、自分の関心ばかりに眼がいってしまう。その結果、そこにある情報だけで地球が周っているような感覚に囚われてしまう。Apple製品やGoogleの最新サービスは確かに今後の未来の社会を作り出すものかもしれないけれど、現実に目を向けるとインターネットを利用していない人・できない人が日本にも世界にもたくさんいる。そういった『社会』がまだ存在する以上、インターネットだけを情報源とするのはまだ時期尚早な気が僕はする。


もちろん、新聞が最高のメディアであるとは僕も思っていない。社会の関心をつかむためにはよいけれど、専門性を深めることはできない。北朝鮮のニュースから僕が痛感したように即時性もない。より自分自身の興味関心が強いものを知りたい時にはインターネットの情報や本、テレビ、ラジオを利用することも必須であると思う。


自分自身が、今、必要としている情報はどのようなものなのか。それには何を使うべきなのか。それをしっかりと考え理解し、使い分けること、取捨選択がとても大事。


人びとを楽しませたり虜にすると同時に、民衆動員の手段でもある各種メディア。
それらとの関わり方は、真剣に考えて対峙しないと煽動され翻弄され知らぬ間に社会の上にある大きな権力や、自分の中にある小さなぐうたら心に操られてしまう。
僕と情報と社会の距離感と関係性は、情報があふれて自由自在に手に入る時代になったからこそ、今まで以上に真剣に退治するべき大事なことではないだろうか。


12/08/2012

自分自身の弱い心と向き合う

自分自身が、人よりも強いエゴをもっていることを認めなければいけない。そして、その強いエゴは僕の弱い心を刺激して、無力感やストレスをもたらす可能性がある。だからこそ、それを乗り越えるために、そのエゴと上手くつきあっていくために、悩むのではなく、考えて決断して乗り越えていける人間になりたい。


誰にでもエゴはある。自分自身のことを認めてもらいたい、もっとわかってほしい、そんな自己顕示欲だ。この気持ちは、ある時には人を成長させる大きなエネルギーとなり、ある時には人を悩ませる大きなカベとなりうる。
僕は、他人からどう見られているかということ、どう見せていくのかということを人一倍気にするタイプであると思う。これは「かまってちゃん」であるということではなくて、人から見られる自分自身の姿や、団体の中での自分という存在が、自分は意識をしていなくても誰かに影響を及ぼす可能性があると感じているから。僕たちは無人島で1人で生きているわけではない。自分自身の言動は常に誰かに見られている。そうであるならば、自分の身形(みなり)は清潔に、真っ直ぐにしておきたい。そして、他人のことをみてくれで判断はしないようにする。そう生きていきたい。


しかし、そうやって他人や社会の中での自分を意識するということは、他人のことも気にするということであり、エゴの強い僕にはときに無力感を喚起させる。特に、活躍している同年代や友達の存在なんかが、その気持に拍車をかける。

例えば、研究室で勉強や研究をしているときに、同じ分野を学んでいる友達の圧倒的な知識量や研究に打ち込んでいる姿をみて、そうなれない自分を悔やんだり、そこまで頭の回転が早くない自分を悲しく思ったり。
例えば、夏のインターンシップで一緒に活動していた友達が、ビジネスコンテストにどんどん参加して成果をあげていて、就職活動に必死で取り組んでいたりして、どうしてその場に自分がいないんだろうと悔しく思ったり。
例えば、ずーっと続けてきたテニスを僕はやめてしまったけれど、それを続けてきてた中学高校の同期や後輩が活躍している姿をみてみたり。

もちろん、彼らがそうやって何か活動をしている間に、僕だってただぼんやりしているわけではない。「何かをしよう!」と決断したからその道を離れたのだけれど、そうなれる可能性があったという気持ちが、心の中で無駄に「機会損失」を計上して、焦りと虚しさを起こさせる。
つまり、僕はまだ芯ができあがってないブレブレの人間であり、僕はなんでも出来るようになりたい強欲な人であり、僕は些細なことにも心動かされて自分の決断を信じることができない弱い心をもっているということだろう。


弱い心に襲い掛かってくる、無力感。
この気持ちを、僕は留学中やバックパック中に嫌というほど味わった。言語の壁、専門知識のなさ、日本に対する無知、世界に対する無関心、自分自身の努力の足りなさ、理想と現実…
なんだか全てにやる気が無くなって、消極的になって、ベッドの上でボーッとして一日が過ぎた日もあった。無知な方がよかったなぁって。辛いなぁって。


でも、2年前、僕は確かにそれを乗り越えた。目が覚めたら急に英語が上手くなってるなんて夢のようなことはないのだからと自分に言い聞かせて、英語の参考書をジャパンタウンで買い求めて勉強したり、飲み会には面倒でも必ず参加して交流を深めたり、所属してた学生団体での取り組みに注力したり。その結果は、まだまだやりきったなんて言えないけれど、徐々に出始めている。
成長って、決して一歩一歩すすむものだけではない。、三歩進んで二歩下がり、一瞬止まって横道それて、グルっと回って気づいたらちょっとだけ前進。そんなもん。そんな成長もきっとある。


何かを手に入れるということは、何かを失うこと。
そんな当たり前のことが、僕は未だにわかっていない。何を手に入れるたいのか、それによって何を失うのか。それが理解できないままであると、僕の弱い心は常に悩まされ続ける。
悩むのではなくて、考える人間になりたい。考えるというのはつまり、決断をするということ。「決断経験値」を積めば積むほど、人は強く賢くブレなくなる。決断とは取捨選択をすることであり、取り続けることだけではない。挑戦することだけではない。失うもの、諦めること、捨てることまでも考慮して初めて、「考えて出した決断」と言える。


悩む気持ちがあるときは、考えるチャンス。どうすればこの状況を打破できるのか、どうしてこうなってしまったのか、考えて、行動を起こすために決断をする。
例えば、ビジネスコンテストとかに参加したいなぁという気持ちがありつつできていない自分がいるのは、きっと夏のインターンでプレゼンターをやろうという積極性がなかったことや、偉そうな態度をとっていたことや、知識・スキルが欠落していたことが原因。この原因を解決しないと、ビジコンなんて参加できないし、一緒にやろうと友達から声をかけられもしない、声をかけても誰もふりむいてくれない。


目が覚めたら、英語ペラペラになれている自分はいなかったように、或る日急に理想の自分になっているわけではない。理想の自分に足りないスキルを他人が持っているからといって、羨むことなく、どれが自分の目指す姿なのかを見極めて、足りないスキルを手に入れるために今日からでもできることを少しずつ、手の届くことからでいいから取り組んでいきたい。


それが、自分自身の弱い心を向き合うこと。数年後に、「あ、オレって成長してんなぁ」って実感できること。そう信じて、今日もまじめに生きていきたい。

12/06/2012

「政治家と話そう」

この前、youtubeサーフィンをしていたらこんな広告と出会った。


「政治家と話そう」
日本の未来について直接話し合う、オンラインミーティング。質問締め切り間近に、ほとんど利用していなくて眠ったままだったgoogle+のアカウントから質問を投げかけてみた。

#政治家と話そう  
私は23歳の、工学を学んでいる大学生です。米への留学、中東やヨーロッパへのバックパック、祖父が亡くなったこと、守りたい人が出来たことなどから、日本の政治や将来というものにとても興味を持ち始め、日々、新聞を読みくらべ、ネット・TV上で討論を聞いています。
私が政治家の方と話したいのは、討論で話題となっているTPPや増税というさまざまな論点に関するひとつひとつの"what"や"how"ではなく、その先にある大きな"why"、この国の目指すべき「ビジョン」です。世界の中での地位が相対的に、さらに絶対的に弱くなっている日本が、50年後、100年後に目指すべき姿が何なのか。それをしっかりと政治家の方とシェアすることができて初めて、一つ一つの答えを出すのが難しい論点に自分なりの賛成・反対を見つけられるとおもいます。
「老楽国家」「ものづくり大国」「日本独自の文化やサービスを強める」「ポジティブガラパゴス」色々なビジョンが考えられると思います。政治家の方がどのようなものを目標として考えているのか、それはなぜか、「ビジョン」と"why"について話ができたら嬉しいです。

僕の質問に対して、尊敬する友人と、同じくこの企画に興味を持ってくれていた初めましての方がコメントを残して、アドバイスや新しく考える種を与えてくれた。
実際に政治家と話しができるかどうかはまだわからないけれど、最近とても興味を持ち始めた政治に関して、各党のキーポイントをまとめたり、党首討論を聞いたりと、僕なりにできることを少しずつやっている。


いよいよ10日後に迫った選挙日。昨日告示が終わり、政党乱立する直近2回のわかりやすい選挙とは趣きの異なる闘いとなった。なにかにつけて「自由」が欲しいとか、なにかに縛られるようなことは嫌だと言う人が僕の周りにいる。けれど、軽々しくそういうことを口にする人は今回の選挙のように色々と選べる自由があることを喜んで、しっかりと考えて自信のある一票を投じるのだろうか。僕の直感では違う。多くの人は、選択肢が増えたことによって得られるものは開放感や自由ではなくて、無気力感だと思う。
「なにがなんだかわかんない。」
「どれ選んでも一緒じゃない?」
「もっとわかりやすくすればいいのに」
そんな言葉を言い訳に、選挙権を放棄する、無関心になっている僕と同年代の若者が多いと、選挙が行われる度にニュースになる。今回の選挙は今までよりもさらに無関心になりやすい要素が多い。多すぎる論点、10党を超す政党、ぶれる政治家の発言。


テレビやニュースで耳にする各党の政策や、論争は全て「方法」("what"&"how")である。この「方法」が多すぎるから、僕達は考えようとする前に投げ出してしまう。しかし、この「方法」が語られるときに考えればいいポイントは2つだけである。それは、「状況」と「目的」(2つ併せて、英語では"why"のことだと僕が考えている)だ。「方法」とは、「ある特定の状況」のもとで「ある目的を達成する手段」のこと。「状況」と「目的」のふたつを見定めることで、「方法」の有効性が決まってくる。わかってくる。方法ありきでものごとが進んでいくわけではない。


政治とは、僕の生まれたこの日本という船の行く末を見据え、しっかりと舵を取ることである。そうであれば、「状況」は自ずと「現在の日本の状況」であることがわかる。しかし、その次にある「目的」が選挙では見えづらい。もちろん政治家一人ひとりは確固たる目的・目標を持っていて個別には発信しているけれど、そこのレベルでの論争や直の声を聞くことはなく、結局、「方法」のつぶしあいとなってしまう。そうなってしまうと、どの政党を選べばいいのかという指針がブレブレで、ゴールのないマラソンを走るような、何ラウンドで終わるかわからないボクシングをするような、なんだか締まりのない惰性な気持ちで選挙に臨むことになる。


「目的」は、僕達一人ひとりが心に描く「明日の日本」である。「ビジョン」であり、物語の行き着く「ハッピーエンド」である。それを尋ねるのは野暮かもしれないけれど、僕にはどうしても日本の「ハッピーエンド」がどういうものなのかがどんなに情報収集をしてもしっかりとした形では思い描けなかった。ぼんやりとは考えたけれど、それが正しいのかわからない。だから、プロの人と、政治家の考え方と僕の考えをぶつけてみたかった。それが僕がGoogleが行った政治家と話そうという企画に応募した理由だ。


今朝の日経新聞朝刊一面、論説委員長・芹川洋一さんのコラムから一部を引用。
経済力がどんどん落ちて、もはや二流国家になりさがろうとしている日本。ぎりぎりのところで立て直すにはどうしたらいいのか。政党に求められているのは、国の力をみなぎらせつための政策のきそい合いだろう。
(中略)たしかに脱近代で、つつましやかに生きていくのもひとつの考え方かもしれない。しかし、子や孫の代まで豊かで自由な生活を営むためには、一流国家で踏みとどまろうとする頑張りがいるにちがいない。
(中略)政党には、明日の日本をたしかなものにするための大きな物語を語ってもらわないと困る。そうしないと有権者は判断を間違える。ひとつの争点だけで選挙をやった結果、何がもたらされたかは過去2回が教えるとおりだ。
各党の政権公約に盛り込まれた各論の点検だが、そのとき大事なのは、政策を個別にみて比較するだけでなく全体としてとらえることだ。(後略)

同じく今朝の、朝日新聞一面、政治部長・曽我豪さんのコラムから一部を引用。
わかりにくい衆院選である。
正統派乱立、争点はあまりに多種多様で、賛否で仕分ければ対決構造はあまりに複雑だ。信を得てどんな政権が生まれるか、先行きの見通せなさは増すばかりだ。
過去2回は違った。(中略)しかし、単純明快で単線にすぎたその衆院選が、日本によりよきものを残したか。
(中略)わかりにくいからといって、この選挙がダメだと見切るには早すぎる。各政党に不明な点を答えてもらおう。どこで合意でき何で争うか、その全体像がみえて初めて、来たる政権像を選択肢が姿を現すのだ。
(中略)わかった気は禁物だ。丁寧に確かめ直しバージョンアップしたい。
12月16日は全国で、しばし鉛筆が止まりため息がもれる光景が続出しよう。書かずに帰る人もいるだろう。それでも、正しくきちんと悩む行為こそが、日本の政党政治を出直しさせる第一歩となるはずだ。

みんな、選挙とか本気で考えているのかな。
もしも興味があるけれどあまりよくわからないという人、めっちゃ考えてるよって人は、声をかけて欲しい。是非語り合いましょう。僕の分かる範囲でよければ偏っていない知識をおすそわけもします。


選挙を楽しもう。



12/04/2012

I'd like to have my ego tagging along.

12月、手帳を新しくした。
一昨年からずっと使い続けているのが、無印良品のシンプルな手帳。マンスリーでざーっと予定が見渡せればそれでいい。
家族の誕生日、じいちゃんの写真、友達の住所、忘れたくない言葉を背表紙に書き写し、2013年を向かえる準備をはじめる。それと同時に、今年の手帳を読み返してみる。
「あぁ、いろんなことがあったなぁ、いろいろな人と出会ったなぁ」
と、しみじみ感じ入る。書き写した好きな言葉を、読み返す。
"I'm a part of all that I have met."
「自分はこれまで出会ってきたもの全ての部分」 


1年がまた終わる。
人はさまざまなことで悩んだり、失望したり、場合によっては死んでしまおうかとか考えたりする。特に年の瀬は普段と違って余計なわずらわしさがむかうからやってくる。気温の寒さと心の寒さが同時に襲いかかってきてきて、身も心も慌ただしくなる。さらに、就職活動が本格化するのがこの時期。僕の同期の大学の友達や弟の就職活動が始まった。友達からウェブテストのヘルプを頼まれたり、OB訪問やなんやの集まりから帰ってきた弟と夜中に数時間語り合ったり。ソーシャルネットワーク上には様々な情報が飛び交う。嫌でも人の動向が気になってしまう季節。情報収集をすることと、雑音に耳を傾けることは違う。その二つを混同していると、心に迷いが生じる。就活中も、日々の生活でも。


「隣の芝生は青い病」
昨日は久々に会った友達と街を歩きながら、こんな話をしていた。人間は誰でもエゴがある。現在の自分が置かれた立場や環境と、他人の状況を比較してしまって、なんだか悲しい気分になったりする。でも、それは当たり前のことだ。他人のことが気にならない人はいない。ようはそのエゴと、どうやって折り合いをつけて行くかということに尽きる。このエゴや欲望や煩悩というものは、人間が存在していいくための、新たな一歩を踏み出し続けるエネルギーにもなるから無視してはいけない。でもそれは同時に、人間を耐えず苦しめて、人生を台無しにするような負のエネルギーにもなりうる。そんな自分の身の中にある強く大きなエネルギーをコントロールすることが本当に大事で、それは同時に一生かけて行うとてもむずかしい作業なのだと思うけれど、具体的にはつねに誠実でいること、感謝の気持ちをもつこと、反省の気持ちをわすれないでいること、挑戦し続けること、そんな当たり前の日々のことを大切に行なっていくということの積み重ねであると思う。


週末に、久々に祖母を訪ね、仏壇の前に座り祖父に挨拶をした。
祖父が亡くなってから9ヶ月が経過したけれど、いまでもよく涙をながす。僕がいまここに生きているという当然は、祖父が存在していたから成り立っているだと考えると感謝の気持ちが溢れて本当に胸が苦しくなる。祖父の死以来、なにげない日常に涙することが多くなった。優しさと悲しさの涙が流れるところに、本物の幸せが存在する。僕の幸せはきっと大金持ちになることでも、誰かを騙すことでもなくて、みんながなにげない日常を幸せに生きていくようなものを築き上げることなのではないかと最近感じる。


言い古された言葉であるけれど、恋愛と就職活動は似ている。
でもそれは、自分に足りないものを補ったり欲望を消化するための薄っペらい恋愛とのアナロジーではない。本気の恋をすると、苦しくてもその人になにかを与えたくて仕方がなくなる。利他の心、無償の愛、キリスト教で言われる「愛」が生まれる。そういった本気の恋愛とのアナロジーだ。そんな気持ちを抱けるような、与えられるではなく与える側に将来的になれるような会社や団体で働けることが本当の幸せだ。


来年の就活になんとなく思いをはせながら、アナロジーで使われる恋や愛についても考えてみる。誰かを愛するってことは、誰かから何かを一方的にしてもらう・してあげるだけではない。さらにはただお互いの似通っている場所を見つめ合って共感するものでもない。共に同じ方向を見つめること、ベクトルの向きを合わせることだと思う。そのためにはやっぱり、同じ空間や同じ時間をなるべく共有している必要がある。そうでないと、人は毎日毎日ちょっとずつ、人生というベクトルの向きも大きさも変わってくるのだからその変化に対応できなくなる。遠距離恋愛なんかが難しいのはこういうところからだろう。


恋愛が苦しいのと同様に、就職活動も苦しいもの。でもそこから得られるものもたくさんある。妥協せずに、みんな頑張って欲しい。そして(おそらく)来年就活をする自分も、このブログを読み返して「こんなこと考えてたのか…」と振り返って、頑張って欲しい。未来へのエール。