船上で音楽が流れると、自然と踊り出す人々。写真一緒に撮ろうと寄ってくる子供達。気がつくとリビア人のおっちゃんに手を取られ、僕も輪に入り踊っていた。
リビア、チュニジア、中東諸国と聞くと、ジャスミン革命からのアラブの春、先刻のアメリカ大使殺害…さらに数日前にはフランスの新聞がイスラム教の風刺画を公開し、首都チュニスで再び大規模なデモが企てられ警察が厳重に警戒をする(実際にはデモはなかったと、現地の人は言っているが、どうだったのだろう)といったデモや紛争が絶えず、みんな危険なイメージを持つ。
「イスラム教の国に行くの?それって危なくないの?」
そんなふうに。
チュニジアに滞在している友達が言っていた。
「チュニジアの人達は動物的なだけ。本能のままに生きている素敵な人達。だけど、だから、知的な先進国に搾取されたり煽られたりしてすぐに怒ってしまう。」
船上で一緒だったチュニジア・リビアの若者は、びっくりするほど大きな声で唄い、幼稚に見えるぐらい激しく自然に踊り、楽しく素晴らしい人々だった。
彼らを、「まったく、こいつらは…」と、眺める僕やフランス人。知恵を持ってしまったが故に失われた純粋さや本能、無垢、無邪気さ…彼らの中にそんなものが見え隠れして、それらに対する羨望と嘲笑が入り混じる。
そんな素晴らしい彼らが、過激なデモや紛争をする姿が僕には思い浮かばない。当然だけれど、全ての争いには原因がある。ジャスミン革命の、デモの、アメリカ大使殺害の原因はなんだったのだろう…
日本人は平和ボケしているとよく聞くけれど、それは安全に慣れて危機管理能力が低下しているということだけを意味しているのではない。争いに慣れてないから、その原因を知る努力や考える力が失われてしまったということ。それが平和ボケという言葉の真意であると思う。
今、世界で起こっている紛争の原因の多くが"宗教"、"歴史"、"民族"だと考えられている。
イラク戦争もキリスト教VSイスラム教の戦争と言う人がいて、ブッシュも「十字軍」なんて馬鹿な言葉を使っていた。
でも、僕は違うと思う。イスラム教だからとか、歴史的にうんちゃらとか、動物的で野蛮だからというのは、全て結果やこじつけに過ぎない。
「現在起きている紛争の多くは、結局、"持てる者"と持たざる者"の対立である」と、以前読んだ本にあった。生活、仕事、資源、保障、経済… そういった物質的なものが全ての原因であり、そこに宗教や歴史問題というイメージの抱きやすい文化的な構図をつくり人々を煽る。皮膚の色の違いだけで優劣をつけていた人種差別の新しい形態。
トルコ・イスタンブールで訪れた近代美術館に展示されている"IN OIL WE TRUST"という絵に心打たれた。イラク戦争を、タイトルにもあるように、石油を巡ったアメリカのエゴがもたらしたものだという強いメッセージを感じた。
国と国との関係も、中学生の仲良しグループの思考と同じだ。「あいつウザイよね」とか「あの先生おかしい」とか、共通悪を作り出して仲間意識を高める。同様にして、イスラム国家は欧米諸国の共通悪にさせられている気がする。
移民の国アメリカ、一つになろうとしているヨーロッパ、経済的にも制度的にも問題があるのだけれど、「あの国はひどい」「あの国よりはマシだ」という差異を作ることで、過剰に愛国心や共同体意識を高めて、仲間うちの繋がりを保とうとしている。
しかし、そこには良い国にしていこうというミッションや理念はない。みみっちい、ケチなナショナリズム。
踊らされて被害を被るのはいつも小さく弱きもの。共通悪にさせられたものはいつか、キレる。
結局、みんな、無関心なんだと思う。そこから生まれる他者蔑視が全ての根源。
しかし…誰かに、何かに、関心を持つということはものすごく大変で心苦しいもの。世界で活躍しようと外に目を向けると、知らな過ぎた世界、より優れた人の数に圧倒される。誰かを好きになると、その人が自分とは違う誰かと一緒にいる姿を考えて悲しくなる。
関心を持ち、理解しようとすることは辛い。知らなくても生きていけるし、何も知らない方が幸せであることの方が多いと思う。
それでも…僕はなるべく多くのことに苦しみながらも関心を持って考えて生きたい。映画マトリクスの中で差し出される赤と青のピルのように、もしもその存在に気づくことができたのならば、赤いピルを選択してみたい。
世界には無数の赤いピルが存在する。赤の次にはもしかしたら黄色の、緑のピルが待っているのかもしれない。
この二年間で、僕はやっと最初の数錠を見つけて飲み込んだ。そんな気がする。
ルアージュと呼ばれる乗り合いタクシーに乗り、街から街へと移動する。長い道のりの、遠くに沈む夕陽を眺めながら感傷的になったり、眠ったり、答えのないそんなことを考え悩みながら。
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