9/06/2012

「充実」「忙しさ」「旅」「大人の流儀」

葉月去りて、長月来たる。

気がつけば9月。
大好きな夏も次第に終わりにむかっていて、陽射しの強さと反比例して、物悲しさが心に溢れてくる。
海、インターンシップ、誕生日、花火、祭り、箱根旅行、研究発表、BBQ、短かったけれど恋もして。自分が想像している以上に「充実」していて、自分でも嫌気が差すほど「多忙」であった。

留学に出発する以前、僕は「充実」=「多忙」であると思っていた。
勉強にアルバイトにひたすら奔走して、予定を入れて「忙しい!」って言うことが充実しているということであると思っていた。「多忙」→「充実」の流れ。
でも、これは今振り返ってみると間違っていた、と思う。忙しいふりをして大事なことを後回しにしたり、あるところでの仕事・やるべきことを他方の忙しさを理由にしてサボったりして。忙しかったけれど、結果、何も充たされず実ることもなかった。

今年の夏の忙しさは、しかし、留学以前の自分が経験していたものではなかったように感じる。それは、「充実」→「多忙」の流れであったから。
今現在、目の前にあることに対して本気になって、実らせようとすると、自然と忙しくなる。他のことを考える時間もないぐらいの真剣さで取り組むと、時間の経過の早いこと早いこと。たった2週間であるけれど始めて参加したインターンシップはまさにこれで、季節の移りかわりを忘れさせてしまうほどの充実さと忙しさを経験した。

忙しさをともなわない充実なんてきっと存在しない。
たとえセンスがあって本気にならなくても成果が出せるのであったとしても、真剣に取り組む人の方が僕はかっこいいと思うし、そういう人でありたいと思う。

「充実」→「多忙」の流れを経験したインターンシップは、とてもよい経験で会ったけれど、今の自分にはインターンぐらいのピリオドがちょうどいい。今はもっと忙しさから開放されて、自分が大切だと思うこと(=お金にはならないこと)に費やす時間も大事にしたい。


明日から1ヶ月、僕は旅に出る。チュニジアとトルコへ。
今年の初めに出会った人が「好き」だと言っていた国へ行ってみたい。たったそれだけの気持ちで、遙か北アフリカの国へ行く事を決めてしまった自分もどうかと思うけれど、きっとこうやってランダムに、本能の赴くままに、「充実」のためでも「忙しさ」のためでもなく、自分がやりたいことをやる自由がある。自分が考えたいことを考える自由がある。それが今の僕のしたいことであって、僕はそれが今の僕のやるべきことであると思っている。


盛りだくさんになってしまうけれど、最後に、読み終わった本からクオート。
伊集院静さんの著書「大人の流儀」、その中の「大人の仲間入りをする君たちへ」というエッセーから一部を引用。
著者は以下の言葉を新成人へ向けて発しているのだけれど、なぜだろう、今の僕にとてもとても心に残るものであった。

一 すぐに役立つものを手にして、何かが上手く行ってると思うな。すぐに役立つものはすぐに役に立たなくなる。
二 金をすべての価値基準にするな。金で手に入るものなどたかが知れている。金を力と考える輩は、さらに大きな金の力で、あっという間に粉々にされる。金は砂と同じだ。
三 自分だけが良ければいいと考えるな。ガキの時はそれもゆるされるが、大人の男にとって、それは卑しいことだ。
四 世界を見ろ。日本という国がどれだけちいさく、外国からどう日本人が見られているか、将来、この国はどうなって行くのかを自分で考えるんだ。
五 神社、寺で手を合わせた経験があるなら、キリスト教、イスラム教、仏教を学んでおくことだ。そこに今の世界観の出発点がおうおうにしてある(食事中に戦争と宗教の話はしない)。
六 他人を見てくれで判断するな。自分の身形(みなり)は清潔にしておけ。
七 二十歳から酒を飲めるようになるが、乱れるな。愚痴るな。品の良い酒を覚えろ。
八 今はこう言ってもすぐにはわからないだろうが、周囲の人を大切にしろ。家族、友、恩師…

後付けの理由であるけれど、僕が今回チョイスした旅先はイスラム圏である。上に載せたリストの5番で、伊集院静さんが言わんとすることを僕は自然とこなしている節がある。
ヨーロッパとアメリカでキリスト教を、インドと日本で仏教を、見て学び感じてきた。

初のイスラム圏へ。旅が始まる。


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