しかしインドのようなミルクティーではなくて、ストレートの紅茶。砂糖たっぷり入れて飲む人が多いところはインドと似ている。
一杯、大体1TL=50円。量は少ない。
街角にはカフェがあり、チャイサロンがある。テーブルも椅子もなくチャイを売っているおじさんもいて、その周りでは階段に腰掛けながら1人で、或るいは誰かとダベりながら熱々のチャイをすする姿をよく見かける。
人間は生きていれば、喉が渇く。それは万国共通である。
日本に生まれ育った僕は、喉が渇いたなぁと思ったときに真っ先に考えるのが自動販売機やコンビニである。
犬も歩けば自動販売機に当たる東京で、喉の渇きを覚えたら機会の前に立ち、100円を放り込み、ピッ、ガタッ、ゴロン。あっという間に満たされる。
コンビニも同様で、そこには店員がいて飲み物以外にもたくさんのモノが売られているけれど、人もモノも奇妙に機械的で、僕にはコンビニがただの巨大な自動販売機に思えて仕方がない。あのティロリロリーンという入店音がその気持ちにさらに拍車をかけていると思う。
海外にあって日本にないものを探すのは難しいけれど、日本にあって海外にないものはたくさんある。その主だったものが自動販売機である。
ここトルコにも自販機はほとんどない。じゃあトルコ人は喉が乾き過ぎて街中で苦しんでいるのかというとそんなことはなく、先にも述べた路上のチャイ屋で渇きを癒す。
僕は食うこと飲むことが好きで(いや、嫌いな人はいないだろうが)、今までのアルバイトも飲食店ばかりなのだけれど、それは飲食の場にはコミュニケーションが生まれ、その様子を見るのが好きだからだ。
インドやトルコではチャイ屋でチャイを、フランスではカフェーでワインを、イギリスではパブでエールを、ドイツでは家庭やバーでビールを、イタリアではバールでエスプレッソを…
それぞれの国で、それぞれの人が、店主や知人・恋人同士、家族、ときには見知らぬもの同士で語らいながら、国民飲料を嗜んでいる。
飲み物を飲むことも大事だけれど、そこから発生する小さな小さな会話、それを凄く大事にしているような気がする。
東京にもたくさんのオシャレカフェができた。でも、それらは雰囲気重視で、なんとなく肩肘張って、その場を楽しむために赴く場所であって、毎日の習慣として行く場所ではない。ただそこに行くことだけが目的となってしまっている。先にものべた国の人がカフェとかパブに集う理由であるコミュニケーションといったものが発生していないことがある。なんとなく、悲しい。
日本の国民飲料は何かと言われれば、緑茶や日本酒であろうか。しかし、江戸時代にはあった茶屋という文化は現在の日本からは消滅し、日本酒は1人で晩酌のしやすいビールの勢いに負けている。
国民飲料を嗜みながら、そこから生まれるコミュニケーションを愛する(そういえば、飲みニケーションという言葉があった。でもこれは飲み会というある種の場を設けるちょっと規模の大きなもので、僕が考えているのは普段の喉の渇きというちいさな規模のもの)。そんな文化がどんどん日本から失われているようである。
その要因はいろいろあろうが、僕はやはり自動販売機(とそれと同じく機能をもったコンビニ)が、悪者な気がする。
日本にもしも自販機がなかったらー。喉が渇いたときに、今でも茶屋が街角には存在して、緑茶かなんかを飲みながら店主と「今日も暑いねー」とか「涼しくなってきたねー」なんて他愛もない会話を繰り広げる。
そんな存在しなかった、けれどあったらいいなと思う日本の姿を、トルコでチャイを飲むたびに妄想する。
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