旧城と小さな丘を超えて視界が開けると、そこには青い地中海と、無数の白板が立ち並んでいた…墓標である。柵も敷居もなく、道路から海岸線に向かって広がる墓地は日本のそれとは違い整然さはない。けれど、どこの墓地もそうであるように、死者が祀られているにもかかわらず悲壮感はなく、むしろ穏やかに柔らかく、「さようなら」の場所というよりは「ただいま」といった言葉や心情が似合う。
僕は旅先で墓地に出会うことが多い。宗教的な場所を訪れると、自然とそこに寄り添うかたちで死者が眠る場所が用意されている。または山路を適当に歩いていると思いがけず墓標をみつけることがある。
「なんでまたこんなところに……」
と独り言が口から漏れ出してしまうような、辺鄙な場所であることもある。故人の意思だったのだろうか、或いはパワースポットのようなものだったのだろうか、僕にはわからない。ただ想像と妄想が膨らむ。
この半年、僕は何度も墓地へ足を運んだ。訪れるたびに涙が流れる。哀しくなる。当然だったものがなくなってしまうこと。或いはその当然すら果たせずになくなってしまうこと。人の命の脆いこと。そして儚いこと。哀しみにであって様々なことに気がついた。
タロットカードが得意な友達に、「何について占う?」と聞かれて、少し悩んでから、「健康」と言った。「その年でなにいってんの!」と笑われて、違うものを選んでしまった。けれど、それがやっぱり一番占って欲しかったことだったかもしれない。
長生きしたいとか、死にたくないとか、そういう感情ではないと思う。ただ、自分自身や家族といった大事な人、そしてもちろん全ての人が、命のロウソクを胸に宿しており、それが刻一刻と燃えていて、蝋燭が短くなっていき、そしていつかは消えてしまう、その事実に気がついて、そのイメージが鮮明に浮かぶようになった。だからその命に関わる「健康」とか「恋愛」といったトピックにこのごろ敏感になっている。
灯台の裾野に広がる墓地、その墓標にかかれているアラビア語を当然僕は読むことができない。唯一解読できるのが数字であり、そこに眠る人の生年と没年がわかる。
この人は80年、この人は65年、90年、73年…
その中で、25年の人生だったことを示すものに巡り合った。不慮の事故だったのだろうか、何かの病気だったのだろうか。僕と2歳しか変わらない人がそこには眠っている。
イスラム教では死者に対してどうやって祈るのだろう。合掌するのか、あるいは手を組むのか、十字を切るのか。
とりあえず目をつむり、黙祷する。どの国でも、どの宗教でも、目では見えなくなった魂を思うときには必ず瞼を閉じてその人のことを思い弔うのではないだろうか。
目を開けると、地中海と灯台が目に映る。全ての生命は海からやってきたという。そして、灯台は昔の英語ではキャンドルハウスという。
命の源が近く、火が蝋燭に絶えず灯る場所。安息の地としてここを選んだのは、そんな理由からだろうか。海鳥が数羽、海に向かって飛んで行った。思いがけず長い間、ここにいた。
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