9/30/2012

宗教とスポーツのアナロジー

ラグビーとサッカーは元をたどると同じスポーツであったという。詳しい話は僕も忘れてしまったけれど、手にボールを持って走ってよいスポーツと、手を使うと退場となってしまう競技が元をたどれば同じであるというのは、それを知った昔の僕にはとても興味深く、ラグビーもサッカーもやらないけれどそんな話だけは覚えている。

あるルールに従って競いあう、それがスポーツである。従うべきルールはスポーツごとに異なり、あるいは同じスポーツであっても地域や国ごとに微妙な違いがあることもある。より楽しく、よりファンタスティックなプレーが競技中に生まれるように、TPOに合わせて変化して行ったのだろう。

人は、自由が欲しいと訴える。それではなぜ、様々な行動に制限をかけて自由を減らしているスポーツに人間は熱中しひたすら続けるのだろう。それはおそらく、そのルールの中で生まれる奇跡的なプレーに感動したり、一緒に競技するもの同士の連帯感を得たりという、人間がもとめているなにかしらの本質がそこに存在するからであると思う。

「宗教がよくわからない。」という人は、上の話のスポーツを宗教という言葉に置き換えて考えてみると、すこしだけ理解が深まるのではないだろうか。
「神の言うことを信じて、豚肉を食べないなんて信じられない。美味しいのに…」というのは、サッカーをするものに対して、「なんで手でボール持ってゴールに走りこまないの?その方が簡単なのに。」というトンチンカンな質問をしているようなものなのかもしれない。

宗教は科学的に近代的になったこの世界でも存在している。信仰心強い人からは怒られてしまうかもしれないけれど、神の存在とか宗教の根元とかを無視して考えてみると、よりよい人生を生きるための宗教とそこに存在する人の行動を制限する教義というものは、より楽しい経験をするためにスポーツのルールに従うということと同じように僕には感じられる。

僕や僕の家族や、多くの日本の友達はなにかの教義に強く従って毎日を生きているわけではない。(でももちろん、日本人のほとんどが宗教に属しているんだよ、気づいていないだけで。)それは自由であるという一方で、なんだかちょっとつまらないな…と感じることがある。スポーツのない人生のようなものなのかな、と。スポーツをやっていなくても人間は生きていられるのだけれど、ある従うべきものがあってその中で切磋琢磨したり協力することによって奇跡的ななにかを創り出すことができるかもしれないからだ。
スペインのバルセロナにあるサグラダファミリアを訪れて、あの建築の美しさと荘厳さに僕は感動した。今なお建設中の教会は、現在進行形のキリスト教カトリック派の人々の意思の賜物である。宗教心の弱い日本では、おそらく今後永遠、あの大教会に次ぐような立派な神社仏閣は建てられないのだろう。

世界で、「イスラム教vsキリスト教」といった構図が描かれている。ルーツが同じこの2大宗教が対比され争う姿は、「ラグビーvsサッカー」という意味のない論議をするのと同じである。
ラグビープレイヤーよ、サッカープレイヤーに対して手を使えないことをバカにするな。
サッカープレイヤーよ、タックルの許されるラグビープレイヤーを野蛮であると中傷するな。
それぞれが、それぞれのルールに従って美しく生きているだけなのである。争うのではなくお互いを尊重して、共にスポーツを楽しんでいるものとして笑顔で握手をすることができればいいのである。
このことを理解して理性的になれば、この世から宗教に関する争いはなくなるはずなのだけれど…

感情を爆発させる熱狂的サポーターは、スポーツの世界でも宗教の世界でも、大多数の理性的なサポーターの悩みの種となっている。



9/28/2012

歴史を忘れない街角

僕が持っている、2010年に発行されたチュニジアのガイドブックと、今年に発行されたガイドブックの中には、いくつかの相違点がある。その中の一つが、今、滞在している首都チュニスの中心に位置する広場の名前である。

僕のガイドブックには、時計塔建つその広場の名前は”Place 7 Nobembre"、11月7日広場とある。しかし、Googleマップで同じ場所に焦点を合わせてみると、そこに現れる文字は”Place 14 Janvier 2011"、2011年1月14日広場となっている。

11月7日は、1956年、チュニジアがフランスから独立を勝ち取り、翌年11月7日に共和制が導入されハビブ・ブルギバが初代大統領に就任した日である。歴史的な転換点を迎えた年月日や、それに関わる偉人(あるいは、時と場合と味方によっては極悪人とされてしまう人)の名前が、人々が集まり憩う広場や道路の名称として冠される。

そして、2011年1月14日は、記憶に新しいジャスミン革命によってベン・アリによる独裁政権が崩壊し、民主主義が導入された年月日。革命とその後のチュニジアの情勢を見聞きしてみると、一概にそれがハッピーな日であったとは言えない。しかし、その日に、歴史的な転換点が訪れた。その「事実」を改称された広場は訴える。

ヨーロッパを旅行したことがある人は、道路の名前に日付や人の名前がつけられていることや、全く同じ名前の広場がたくさんの街で用いられていることに気づく人もいると思う。例えば、ドイツでは”Platz des 18 Marz"、3月18日広場というものがベルリンの中心にあり、おそらく同じ名前の広場や道路がドイツ中に存在し、これは1848年ドイツ3月革命が発生した年月日である。僕が現在滞在しているチュニジアでは、”Av. Habib Bourguiba"、初代大統領ハビブ・ブルギバ通りという名前が、ほとんど全ての街のメインストリート名となっている。

チュニスの中心に位置するその広場の名前が変更されたこと。それは、人々がその日に起こった歴史を忘れたくないという強い思い、
そしてそれを後世にも残していきたいという感情の表れであると思う。歴史を重んじて保守的であるような印象を抱くヨーロッパ諸国の方が、実はそういったパブリックスペースの名称を変更することに抵抗がなかったりする。イギリスの、ビッグベンの名称で愛され続けていた時計台が、エリザベス2世の在位60周年を記念して”エリザベスタワー”に改称されたように。
そこにある大衆の意識としては、これは僕の考えであるけれど、今自分が生きているこの瞬間はいつかは歴史となる。そんな当然の事実を人が、国が、なんとなーく理解していているからこそなされることなのだと思う。

日本を批判したくはないけれど、多くの日本人が「歴史」という言葉を聞くと「過去の産物」とか「現在とは違った世界観」、今自分自身が生きているこの瞬間と切り離して考えている。でも、僕が留学や旅を通じて芽生えた感情の中の一つが、「今、僕が生きているのは、急速に変わりゆく歴史の真っ只中にいる」そんな気持ちであり、それはよくよく考えてみるとと至極当然のことであると思う。でも、その当然に気がつかないまま生きている人が大勢いて、だから、例えば、野口英世公園とか、坂本龍馬通りなんて名前が存在しないのかな、なんて思ったりする。

街角で出会う広場や道やランドマークの名称が変更されること。それは間違いなく現在進行形で歴史を紡いでいるという意識の表れである。そして、例えば100年後、1月14日広場を車で通り過ぎたチュニジア人の子供が「どうして1月14日っていう名前なの?」という質問を運転するお父さんに尋ねたり、あるいは観光でロンドンに訪れたカップルがエリザベスタワーの前で記念撮影をして、「エリザベスってどんな人だったのかな?」という疑問を抱いたりする。そういった疑問に対する答えは、ポジティブであるかもしれないし、ネガティブであるかもしれないけれど、確かにそこで歴史が動いたということを再確認することができる。それが、僕は、すごく素敵であるし大事なことであると思う。

歴史を忘れない街角が存在する。
日本にはあまり存在しなくて、いいな…と思うものの一つである。




9/27/2012

R.I.P. Chris Stevens

President Obama's speech to the UN general assembly – full transcript.

アメリカ的な考え方が嫌いな人もいる。オバマのスピーチなんてクソだと言う人もいる。
それでも僕は、彼の考え方、あるいはアメリカ的思考だと言って嫌な顔をする人が大勢いるのを承知で、国連総会にて氏が述べたスピーチを全文ここに引用する。

自分自身というものや、世界や、人間というものを、毎日毎日ミクロにマクロに、過去と現在と未来に、物質的に精神的に、行ったり来たりしながら悩み考えている。その中で、生まれてから23年と47日目の、チュニジアのホテルにいる現在進行形の僕の思想の柱となっているものの大部分が、引用した長いスピーチの中にある。

明日には正反対の意見を述べているかもしれないけれど、今日この日はこれに感銘を受けていたことを忘れていたくない。備忘録。



Mr. President, Mr. Secretary-General, fellow delegates, ladies and gentleman: I would like to begin today by telling you about an American named Chris Stevens.

Chris was born in a town called Grass Valley, California, the son of a lawyer and a musician. As a young man, Chris joined the Peace Corps, and taught English in Morocco. He came to love and respect the people of North Africa and the Middle East, and he would carry that commitment throughout his life. As a diplomat, he worked from Egypt to Syria; from Saudi Arabia to Libya. He was known for walking the streets of the cities where he worked – tasting the local food, meeting as many people as he could, speaking Arabic and listening with a broad smile.


9/26/2012

灯台と海が見える墓地にて。

チュニジアの古くからある漁港の街、マハディア。小さな岬に位置するここには灯台があり、のんびりと海岸線を歩いて岬の先に向かう。
旧城と小さな丘を超えて視界が開けると、そこには青い地中海と、無数の白板が立ち並んでいた…墓標である。柵も敷居もなく、道路から海岸線に向かって広がる墓地は日本のそれとは違い整然さはない。けれど、どこの墓地もそうであるように、死者が祀られているにもかかわらず悲壮感はなく、むしろ穏やかに柔らかく、「さようなら」の場所というよりは「ただいま」といった言葉や心情が似合う。


僕は旅先で墓地に出会うことが多い。宗教的な場所を訪れると、自然とそこに寄り添うかたちで死者が眠る場所が用意されている。または山路を適当に歩いていると思いがけず墓標をみつけることがある。
「なんでまたこんなところに……」
と独り言が口から漏れ出してしまうような、辺鄙な場所であることもある。故人の意思だったのだろうか、或いはパワースポットのようなものだったのだろうか、僕にはわからない。ただ想像と妄想が膨らむ。


この半年、僕は何度も墓地へ足を運んだ。訪れるたびに涙が流れる。哀しくなる。当然だったものがなくなってしまうこと。或いはその当然すら果たせずになくなってしまうこと。人の命の脆いこと。そして儚いこと。哀しみにであって様々なことに気がついた。


タロットカードが得意な友達に、「何について占う?」と聞かれて、少し悩んでから、「健康」と言った。「その年でなにいってんの!」と笑われて、違うものを選んでしまった。けれど、それがやっぱり一番占って欲しかったことだったかもしれない。
長生きしたいとか、死にたくないとか、そういう感情ではないと思う。ただ、自分自身や家族といった大事な人、そしてもちろん全ての人が、命のロウソクを胸に宿しており、それが刻一刻と燃えていて、蝋燭が短くなっていき、そしていつかは消えてしまう、その事実に気がついて、そのイメージが鮮明に浮かぶようになった。だからその命に関わる「健康」とか「恋愛」といったトピックにこのごろ敏感になっている。


灯台の裾野に広がる墓地、その墓標にかかれているアラビア語を当然僕は読むことができない。唯一解読できるのが数字であり、そこに眠る人の生年と没年がわかる。
この人は80年、この人は65年、90年、73年…
その中で、25年の人生だったことを示すものに巡り合った。不慮の事故だったのだろうか、何かの病気だったのだろうか。僕と2歳しか変わらない人がそこには眠っている。
イスラム教では死者に対してどうやって祈るのだろう。合掌するのか、あるいは手を組むのか、十字を切るのか。
とりあえず目をつむり、黙祷する。どの国でも、どの宗教でも、目では見えなくなった魂を思うときには必ず瞼を閉じてその人のことを思い弔うのではないだろうか。


目を開けると、地中海と灯台が目に映る。全ての生命は海からやってきたという。そして、灯台は昔の英語ではキャンドルハウスという。
命の源が近く、火が蝋燭に絶えず灯る場所。安息の地としてここを選んだのは、そんな理由からだろうか。海鳥が数羽、海に向かって飛んで行った。思いがけず長い間、ここにいた。


9/24/2012

The choice between the blissful ignorance of illusion and embracingthesometimes painful truth of reality.

チュニジア1番のリゾート地であるジェルバ島。そこで海賊船に乗るというツアーに参加した。フランス人や隣国リビアからのバカンス客や家族連れが多く、海賊に扮した陽気なチュニジア人に囲まれ、アジア人は僕だけだった。
船上で音楽が流れると、自然と踊り出す人々。写真一緒に撮ろうと寄ってくる子供達。気がつくとリビア人のおっちゃんに手を取られ、僕も輪に入り踊っていた。


リビア、チュニジア、中東諸国と聞くと、ジャスミン革命からのアラブの春、先刻のアメリカ大使殺害…さらに数日前にはフランスの新聞がイスラム教の風刺画を公開し、首都チュニスで再び大規模なデモが企てられ警察が厳重に警戒をする(実際にはデモはなかったと、現地の人は言っているが、どうだったのだろう)といったデモや紛争が絶えず、みんな危険なイメージを持つ。
「イスラム教の国に行くの?それって危なくないの?」
そんなふうに。


チュニジアに滞在している友達が言っていた。
「チュニジアの人達は動物的なだけ。本能のままに生きている素敵な人達。だけど、だから、知的な先進国に搾取されたり煽られたりしてすぐに怒ってしまう。」
船上で一緒だったチュニジア・リビアの若者は、びっくりするほど大きな声で唄い、幼稚に見えるぐらい激しく自然に踊り、楽しく素晴らしい人々だった。
彼らを、「まったく、こいつらは…」と、眺める僕やフランス人。知恵を持ってしまったが故に失われた純粋さや本能、無垢、無邪気さ…彼らの中にそんなものが見え隠れして、それらに対する羨望と嘲笑が入り混じる。


そんな素晴らしい彼らが、過激なデモや紛争をする姿が僕には思い浮かばない。当然だけれど、全ての争いには原因がある。ジャスミン革命の、デモの、アメリカ大使殺害の原因はなんだったのだろう…
日本人は平和ボケしているとよく聞くけれど、それは安全に慣れて危機管理能力が低下しているということだけを意味しているのではない。争いに慣れてないから、その原因を知る努力や考える力が失われてしまったということ。それが平和ボケという言葉の真意であると思う。


今、世界で起こっている紛争の原因の多くが"宗教"、"歴史"、"民族"だと考えられている。
イラク戦争もキリスト教VSイスラム教の戦争と言う人がいて、ブッシュも「十字軍」なんて馬鹿な言葉を使っていた。
でも、僕は違うと思う。イスラム教だからとか、歴史的にうんちゃらとか、動物的で野蛮だからというのは、全て結果やこじつけに過ぎない。
「現在起きている紛争の多くは、結局、"持てる者"と持たざる者"の対立である」と、以前読んだ本にあった。生活、仕事、資源、保障、経済… そういった物質的なものが全ての原因であり、そこに宗教や歴史問題というイメージの抱きやすい文化的な構図をつくり人々を煽る。皮膚の色の違いだけで優劣をつけていた人種差別の新しい形態。
トルコ・イスタンブールで訪れた近代美術館に展示されている"IN OIL WE TRUST"という絵に心打たれた。イラク戦争を、タイトルにもあるように、石油を巡ったアメリカのエゴがもたらしたものだという強いメッセージを感じた。


国と国との関係も、中学生の仲良しグループの思考と同じだ。「あいつウザイよね」とか「あの先生おかしい」とか、共通悪を作り出して仲間意識を高める。同様にして、イスラム国家は欧米諸国の共通悪にさせられている気がする。
移民の国アメリカ、一つになろうとしているヨーロッパ、経済的にも制度的にも問題があるのだけれど、「あの国はひどい」「あの国よりはマシだ」という差異を作ることで、過剰に愛国心や共同体意識を高めて、仲間うちの繋がりを保とうとしている。
しかし、そこには良い国にしていこうというミッションや理念はない。みみっちい、ケチなナショナリズム。
踊らされて被害を被るのはいつも小さく弱きもの。共通悪にさせられたものはいつか、キレる。


結局、みんな、無関心なんだと思う。そこから生まれる他者蔑視が全ての根源。
しかし…誰かに、何かに、関心を持つということはものすごく大変で心苦しいもの。世界で活躍しようと外に目を向けると、知らな過ぎた世界、より優れた人の数に圧倒される。誰かを好きになると、その人が自分とは違う誰かと一緒にいる姿を考えて悲しくなる。
関心を持ち、理解しようとすることは辛い。知らなくても生きていけるし、何も知らない方が幸せであることの方が多いと思う。


それでも…僕はなるべく多くのことに苦しみながらも関心を持って考えて生きたい。映画マトリクスの中で差し出される赤と青のピルのように、もしもその存在に気づくことができたのならば、赤いピルを選択してみたい。
世界には無数の赤いピルが存在する。赤の次にはもしかしたら黄色の、緑のピルが待っているのかもしれない。
この二年間で、僕はやっと最初の数錠を見つけて飲み込んだ。そんな気がする。


ルアージュと呼ばれる乗り合いタクシーに乗り、街から街へと移動する。長い道のりの、遠くに沈む夕陽を眺めながら感傷的になったり、眠ったり、答えのないそんなことを考え悩みながら。






9/21/2012

チュニジアで流れる涙

砂漠という自然の素晴らしさに出会い、涙がでた。

星屑の空、地平線の彼方に沈む太陽、乾いた風、握り締めた手からこぼれおちる砂、果てなく続く砂丘…
砂漠だけではない。綺麗な雲の形や、草木の移り変わりや、空を飛ぶ鳥の様子など、自然は僕たちの周りにいつもそっと存在している。旅先でも、日本でも。
東京で暮らしているときに自然を見て涙を流す機会が少ないのは、単純に、ディスプレーやノートを見つめる時間が長くなりすぎて、天を仰ぎ見る時間が相対的に短くなっているだけだからだと思う 。
だから、眠れない夜に、一人きりの夕方に、懐かしい人とたちを思い出しているときに、僕たちはふと自然の雄大さに気がついてその偉大さの前で頭を垂れ、涙を流す。


それと対比するかのように、ニュースに流れるのは隣国リビアの情勢、中東各国の紛争、病院に担ぎ込まれる人の姿、叫び声をあげ何かを訴える民衆…人間の悲しく醜い姿だった。
「これは中東の革命の残り火なのかな」
僕の問いに、3日間車を運転してくれた笑顔の素敵なMondherさんが、その時だけ真剣なそして悲しげな顔をして答えてくれた。
「これはもう、革命なんかじゃない。子供のケンカだよ。」
なぜ子供のケンカで人が死ななければならないんだろう。
テレビの中でも小さい子供が泣き叫んでいる。
また、涙がでる。


自分の思い通りに、人の気持ちは、世界は、すすんでいかない。
そんな当たり前のことを知り、胸の奥の部分がグーっとなる。


自然の雄大さ、人の醜さや素晴らしさ、恋や愛、生と死…
涙が流れる理由を言い表すには、人間の生み出した言葉は少なすぎる。頬を伝う無色透明の食塩水はすぐに乾いて消える。けれども、その根源となった心の気持ちは形にも言葉にもならず極彩色のように入り混じり人の中に残っていく。


チュニジアで、色々な涙に出会っている。

9/15/2012

メルハバの数だけ心が軽くなってゆく


日本にいるとき、自分は一日に何回あいさつをしているのだろう。

あいさつは大事だ。
「下くんのおはよーはいつも爽やかだね」と、学校の友達やアルバイト先の人からよく言われていた。気持ちの良いあいさむから始まると、なんだか全てが上手く回る気になる。どんなに体調苦しくても、その1秒間は笑顔で、元気に。
もしも本当に何かに困っているときは、そのときの声の調子や雰囲気で周りの人が察してくれる。だからこそ毎日の「おはよう」「こんにちは」、これらは日々欠かさずに言いたい。

あいさつはなにも知り合いどうしで交わすだけのものではない。朝のランニング途中にすれ違う人と、毎日の通学路で出会う人と、行きつけのお店で偶然となりに座った人と。
アメリカにいる頃は、そういった場面にはたいてい"hello"があった。それが大好きで、日本でも、文化が違うから機会は少ないけれど、僕は見知らぬ人にあいさつをすることが多い。

それでもやはり、日本での一日のあいさつの数はそんなに多くない。ざっと数えて10回から20回ほどだろうか。毎日の行動がルーティーン化して合わせる顔に変化がなくなってくると、さらにこの数は減っていく。


いま、トルコにいて、一日のあいさつ回数ランキングを毎日更新している。
「メルハバ」
このトルコ語でのあいさつを日々50回はしているだろうか。道ですれ違う子供たちと、チャイ屋や定食屋のおっちゃんと、バス停で一緒に待つおばちゃんと。
今このブログを書いている瞬間にも、カフェの前を通り過ぎる人々が目を合わせると「メルハバー」と声をかけてくる。

もちろん僕が、旅行者だからあいさつをかけてくれるのだろう。イスタンブールやカッパドキアという観光地では、挨拶の裏側に商売っ気を感じたりしなくもない。
しかしこのちいさな町でのあいさつには下心を感じない。心にすっと染み込んでいく。

この町で、会社員勤めをやめ、アクセサリーショップで働いている女性と出会った。
その人に、「なぜトルコに滞在することにしたの?」と尋ねたら、
「色々な国を旅行したけれど、トルコでは、なんというか、現地の人と一緒に泳いでいるような一体感があった。その他の国では泳いでいる人々を外から見ている感じ。だからそれがなんだか嬉しくて」と。

その人の言っていることが、僕が交わすあいさつの回数を数えてみてもわかる。
暮らしている人とのちいさな接点であるあいさつが多いということは、それだけ、心の障壁が低いということではないだろうか。

「メルハバ」を現地の人と交わせばかわすほど、自然と笑みがこぼれ、心が軽くなっていく。

小さいけれど大事なこと。あいさつ。それをこの街で再認識した。


9/13/2012

トルコでチャイを飲みながら考えたこと。

トルコの国民飲料は、インドと同じくチャイである。

しかしインドのようなミルクティーではなくて、ストレートの紅茶。砂糖たっぷり入れて飲む人が多いところはインドと似ている。
一杯、大体1TL=50円。量は少ない。

街角にはカフェがあり、チャイサロンがある。テーブルも椅子もなくチャイを売っているおじさんもいて、その周りでは階段に腰掛けながら1人で、或るいは誰かとダベりながら熱々のチャイをすする姿をよく見かける。


人間は生きていれば、喉が渇く。それは万国共通である。
日本に生まれ育った僕は、喉が渇いたなぁと思ったときに真っ先に考えるのが自動販売機やコンビニである。
犬も歩けば自動販売機に当たる東京で、喉の渇きを覚えたら機会の前に立ち、100円を放り込み、ピッ、ガタッ、ゴロン。あっという間に満たされる。
コンビニも同様で、そこには店員がいて飲み物以外にもたくさんのモノが売られているけれど、人もモノも奇妙に機械的で、僕にはコンビニがただの巨大な自動販売機に思えて仕方がない。あのティロリロリーンという入店音がその気持ちにさらに拍車をかけていると思う。


海外にあって日本にないものを探すのは難しいけれど、日本にあって海外にないものはたくさんある。その主だったものが自動販売機である。

ここトルコにも自販機はほとんどない。じゃあトルコ人は喉が乾き過ぎて街中で苦しんでいるのかというとそんなことはなく、先にも述べた路上のチャイ屋で渇きを癒す。

僕は食うこと飲むことが好きで(いや、嫌いな人はいないだろうが)、今までのアルバイトも飲食店ばかりなのだけれど、それは飲食の場にはコミュニケーションが生まれ、その様子を見るのが好きだからだ。

インドやトルコではチャイ屋でチャイを、フランスではカフェーでワインを、イギリスではパブでエールを、ドイツでは家庭やバーでビールを、イタリアではバールでエスプレッソを…
それぞれの国で、それぞれの人が、店主や知人・恋人同士、家族、ときには見知らぬもの同士で語らいながら、国民飲料を嗜んでいる。
飲み物を飲むことも大事だけれど、そこから発生する小さな小さな会話、それを凄く大事にしているような気がする。

東京にもたくさんのオシャレカフェができた。でも、それらは雰囲気重視で、なんとなく肩肘張って、その場を楽しむために赴く場所であって、毎日の習慣として行く場所ではない。ただそこに行くことだけが目的となってしまっている。先にものべた国の人がカフェとかパブに集う理由であるコミュニケーションといったものが発生していないことがある。なんとなく、悲しい。


日本の国民飲料は何かと言われれば、緑茶や日本酒であろうか。しかし、江戸時代にはあった茶屋という文化は現在の日本からは消滅し、日本酒は1人で晩酌のしやすいビールの勢いに負けている。
国民飲料を嗜みながら、そこから生まれるコミュニケーションを愛する(そういえば、飲みニケーションという言葉があった。でもこれは飲み会というある種の場を設けるちょっと規模の大きなもので、僕が考えているのは普段の喉の渇きというちいさな規模のもの)。そんな文化がどんどん日本から失われているようである。


その要因はいろいろあろうが、僕はやはり自動販売機(とそれと同じく機能をもったコンビニ)が、悪者な気がする。
日本にもしも自販機がなかったらー。喉が渇いたときに、今でも茶屋が街角には存在して、緑茶かなんかを飲みながら店主と「今日も暑いねー」とか「涼しくなってきたねー」なんて他愛もない会話を繰り広げる。


そんな存在しなかった、けれどあったらいいなと思う日本の姿を、トルコでチャイを飲むたびに妄想する。


9/11/2012

カッパドキアには毎朝、気球の雨が降る

トルコ・カッパドキアにて、アンカラへ向かうバスの待ち時間に。11:00am, 11/Sep


イスタンブールに2日滞在し、12時間の深夜バスでトルコの内陸部アナトリアのカッパドキアへ。スクーターを借りて奇岩連なる大地を走り回り、気球に乗り、出会った旅行者と飲んだり語らいあったり。


独りで旅をしていると、本当にたくさんの人と出逢う。そして旅をしている人は、みなそれぞれ十人十色の旅をしている。

弾丸ツアーで、見所を抑えてサクサクと次の街へゆく人。

観光地・観光客が集う場所を嫌い、ひたすら秘境を目指す色黒の旅人。

初の海外旅行でビビっている19歳の学生バックパッカー。

これから中東を回るというたくましい、たくましい女の子2人組。

地球の歩き方とにらめっこしながら次の目的地を考え悩む僕と同い年ぐらいの日本人……


「なんでトルコにきたの?」と聞いたときの答えも様々だ。

「沢木耕太郎の深夜特急に憧れて。それとほぼ同じルートを周ってる。」

「カッパドキアの気球に乗るのが夢だった。」

「イスラム文化に興味があって。」

「アジアとヨーロッパの中間っていう言葉に惹かれて。」

「なんとなく……」


人の数だけ旅がある。
日程も、予算も、ルートも、目的も。誰一人として同じ旅をしている人はいなくて、誰一人として同じ感動や退屈を感じている人はいない。


最低か最高、そのどちらかである極端な旅をしている人(僕が出逢うのは、たいてい前者であるけれど)は、それだけ刺激的な経験をたくさんしているようで、ギラギラした眼と、なぜかくすんだ眼をもって僕に話をしてくる。出会って数時間では語りきれないようなたくさんの話を持っているのだろうけれど、それを自慢げに話したりはしない。だから僕は彼らと話をするのが好きだ。


僕の旅のかたちは、あまり決めていないけれど、かなり中庸なものであると思う。
高い宿には止まらないけれど、お金はそこそこあるから気球ツアーなどのやりたいことはやって、でも時間短縮のためのツアーには参加せずに安いスクーターを乗り回して、観たいと思った観光名所はほぼほぼ周るけれど、世界遺産の教会を見るお金を払うのをしぶってその浮いた分でワインを飲んだり。
地球の歩き方がやはり相棒で、それをみながら次の目的地を決めたり街を歩くけれど、だれかが「〜が良かったよ」と教えてくれた場所にあまり下調べもせずに行くことを決めて、結果、バスがなくて、宿も取れず、まぁでも行けばなんとかなるだろうと、とにかく近くの街へ行くことを決めたり。(いま、まさにその状況)

ストレスだらけの旅ではないから、ぼーっとする時間も多くて、日本が恋しくなったり、昔付き合ったり好きになった大事な人のことを思ったり、退屈したり。



旅をしている人は、みんな僕のように、なにかやだれかを想いながら日々を過ごしているのだと思う。



中庸でストレスの少ない旅をしていても、ふとした瞬間に素敵だなと思う言葉や景色に出逢う。

昨日の早朝、気球に乗って地上800メートルまで昇った。そこで、気球を操ってくれたトルコ人のガイドの言った言葉とそこからの景色が、今回のカッパドキアでのハイライト。

"In Cappadocia, balloons rain every morning. Beautiful, isn't it?"

「カッパドキは毎朝、気球の雨が降るんだ。キレイだろ?」

本当に、キレイだった。



9/07/2012

A greeting from Istanbul

イスタンブールの新市街、サンフランシスコを彷彿させるようなような坂道の中腹にあるカフェにてターキッシュティーを頂きながら。


一ヶ月に及ぶ長い旅が始まったのだけれど、今の心境は若干のホームシック。というかホームの気持ちが抜けきれていない。


東京でのまあまあ(学生ですからね、ぶっちゃけそんなにキツくないですよ)忙しい毎日や日々のスピード。
常日頃からそのスピードに溶け込まないように、自分自身の時間をもって余裕をもって生きていこうとしていたのだけれど、知らず知らずに東京のスピード感が身体に染み込んでいたみたい。

そして家族、研究室、バイト先、友達といった誰かと一緒にいることで得られる「所属の時間」。SNSの普及で毎日の些細な時間もなにか・なにものかに所属してしまっている最近の風潮が僕は嫌いで、その反対であるなにものにも属さない独りの時間=「無所属の時間」を大切にしていたのだけれど、いざ旅がはじまって目の前に莫大な「無所属の時間」が広がると物怖じしてしまう。そして嫌いと言っていた「所属の時間」が恋しくなって、友達とLINEで会話をしたり、Facebookを開いたり。
人は最後は独りなのだけれど、独りでは生きていけない。そんな当たり前のことを再度確認したりしている。


「知らず知らずに染み込んだ東京のスピード感」
「所属の時間」
これらを旅を通じて捨て去りたいとは思わない。けれど、せっかく異国の地にいるのだからこれらを自分の心から少しだけ追い出して、空いた部分になにか大事なものを詰めて家路につくことができたらいいなぁと思う。


旅はまだ始まったばかり。
今回の旅には父親から借りた携帯キーボードがあるので、思ったことや感じたことをなるべく多く、残しておこうと思う。


14時間の成田からイスタンブールまでの飛行機の中で読み終わった本、伊集院静さんの「旅行鞄にはなびら」から引用。

”旅のあとさき……。旅に出かけて戻ってきた人が少し何かが変わる時がある。
さまざまな旅があるのだろうが、出かけた先で何か今までと違ったものにめぐり逢うことが、人のいろんな行動の中での旅をするという行為の特徴なのだろう。どこかが変わった人がいれば、何かに出逢ったのかもしれない。
旅はやはり何かにめぐり逢うのだろう。それが訪れた先で出逢った人、風景、出来事の場合もあるし、本人も気付くことのなかった自身のうちに隠れたものであっても、ともかく旅はめぐり逢いなのではなかろうか。”

9/06/2012

「充実」「忙しさ」「旅」「大人の流儀」

葉月去りて、長月来たる。

気がつけば9月。
大好きな夏も次第に終わりにむかっていて、陽射しの強さと反比例して、物悲しさが心に溢れてくる。
海、インターンシップ、誕生日、花火、祭り、箱根旅行、研究発表、BBQ、短かったけれど恋もして。自分が想像している以上に「充実」していて、自分でも嫌気が差すほど「多忙」であった。

留学に出発する以前、僕は「充実」=「多忙」であると思っていた。
勉強にアルバイトにひたすら奔走して、予定を入れて「忙しい!」って言うことが充実しているということであると思っていた。「多忙」→「充実」の流れ。
でも、これは今振り返ってみると間違っていた、と思う。忙しいふりをして大事なことを後回しにしたり、あるところでの仕事・やるべきことを他方の忙しさを理由にしてサボったりして。忙しかったけれど、結果、何も充たされず実ることもなかった。

今年の夏の忙しさは、しかし、留学以前の自分が経験していたものではなかったように感じる。それは、「充実」→「多忙」の流れであったから。
今現在、目の前にあることに対して本気になって、実らせようとすると、自然と忙しくなる。他のことを考える時間もないぐらいの真剣さで取り組むと、時間の経過の早いこと早いこと。たった2週間であるけれど始めて参加したインターンシップはまさにこれで、季節の移りかわりを忘れさせてしまうほどの充実さと忙しさを経験した。

忙しさをともなわない充実なんてきっと存在しない。
たとえセンスがあって本気にならなくても成果が出せるのであったとしても、真剣に取り組む人の方が僕はかっこいいと思うし、そういう人でありたいと思う。

「充実」→「多忙」の流れを経験したインターンシップは、とてもよい経験で会ったけれど、今の自分にはインターンぐらいのピリオドがちょうどいい。今はもっと忙しさから開放されて、自分が大切だと思うこと(=お金にはならないこと)に費やす時間も大事にしたい。


明日から1ヶ月、僕は旅に出る。チュニジアとトルコへ。
今年の初めに出会った人が「好き」だと言っていた国へ行ってみたい。たったそれだけの気持ちで、遙か北アフリカの国へ行く事を決めてしまった自分もどうかと思うけれど、きっとこうやってランダムに、本能の赴くままに、「充実」のためでも「忙しさ」のためでもなく、自分がやりたいことをやる自由がある。自分が考えたいことを考える自由がある。それが今の僕のしたいことであって、僕はそれが今の僕のやるべきことであると思っている。


盛りだくさんになってしまうけれど、最後に、読み終わった本からクオート。
伊集院静さんの著書「大人の流儀」、その中の「大人の仲間入りをする君たちへ」というエッセーから一部を引用。
著者は以下の言葉を新成人へ向けて発しているのだけれど、なぜだろう、今の僕にとてもとても心に残るものであった。

一 すぐに役立つものを手にして、何かが上手く行ってると思うな。すぐに役立つものはすぐに役に立たなくなる。
二 金をすべての価値基準にするな。金で手に入るものなどたかが知れている。金を力と考える輩は、さらに大きな金の力で、あっという間に粉々にされる。金は砂と同じだ。
三 自分だけが良ければいいと考えるな。ガキの時はそれもゆるされるが、大人の男にとって、それは卑しいことだ。
四 世界を見ろ。日本という国がどれだけちいさく、外国からどう日本人が見られているか、将来、この国はどうなって行くのかを自分で考えるんだ。
五 神社、寺で手を合わせた経験があるなら、キリスト教、イスラム教、仏教を学んでおくことだ。そこに今の世界観の出発点がおうおうにしてある(食事中に戦争と宗教の話はしない)。
六 他人を見てくれで判断するな。自分の身形(みなり)は清潔にしておけ。
七 二十歳から酒を飲めるようになるが、乱れるな。愚痴るな。品の良い酒を覚えろ。
八 今はこう言ってもすぐにはわからないだろうが、周囲の人を大切にしろ。家族、友、恩師…

後付けの理由であるけれど、僕が今回チョイスした旅先はイスラム圏である。上に載せたリストの5番で、伊集院静さんが言わんとすることを僕は自然とこなしている節がある。
ヨーロッパとアメリカでキリスト教を、インドと日本で仏教を、見て学び感じてきた。

初のイスラム圏へ。旅が始まる。