あるルールに従って競いあう、それがスポーツである。従うべきルールはスポーツごとに異なり、あるいは同じスポーツであっても地域や国ごとに微妙な違いがあることもある。より楽しく、よりファンタスティックなプレーが競技中に生まれるように、TPOに合わせて変化して行ったのだろう。
人は、自由が欲しいと訴える。それではなぜ、様々な行動に制限をかけて自由を減らしているスポーツに人間は熱中しひたすら続けるのだろう。それはおそらく、そのルールの中で生まれる奇跡的なプレーに感動したり、一緒に競技するもの同士の連帯感を得たりという、人間がもとめているなにかしらの本質がそこに存在するからであると思う。
「宗教がよくわからない。」という人は、上の話のスポーツを宗教という言葉に置き換えて考えてみると、すこしだけ理解が深まるのではないだろうか。
「神の言うことを信じて、豚肉を食べないなんて信じられない。美味しいのに…」というのは、サッカーをするものに対して、「なんで手でボール持ってゴールに走りこまないの?その方が簡単なのに。」というトンチンカンな質問をしているようなものなのかもしれない。
宗教は科学的に近代的になったこの世界でも存在している。信仰心強い人からは怒られてしまうかもしれないけれど、神の存在とか宗教の根元とかを無視して考えてみると、よりよい人生を生きるための宗教とそこに存在する人の行動を制限する教義というものは、より楽しい経験をするためにスポーツのルールに従うということと同じように僕には感じられる。
僕や僕の家族や、多くの日本の友達はなにかの教義に強く従って毎日を生きているわけではない。(でももちろん、日本人のほとんどが宗教に属しているんだよ、気づいていないだけで。)それは自由であるという一方で、なんだかちょっとつまらないな…と感じることがある。スポーツのない人生のようなものなのかな、と。スポーツをやっていなくても人間は生きていられるのだけれど、ある従うべきものがあってその中で切磋琢磨したり協力することによって奇跡的ななにかを創り出すことができるかもしれないからだ。
スペインのバルセロナにあるサグラダファミリアを訪れて、あの建築の美しさと荘厳さに僕は感動した。今なお建設中の教会は、現在進行形のキリスト教カトリック派の人々の意思の賜物である。宗教心の弱い日本では、おそらく今後永遠、あの大教会に次ぐような立派な神社仏閣は建てられないのだろう。
世界で、「イスラム教vsキリスト教」といった構図が描かれている。ルーツが同じこの2大宗教が対比され争う姿は、「ラグビーvsサッカー」という意味のない論議をするのと同じである。
ラグビープレイヤーよ、サッカープレイヤーに対して手を使えないことをバカにするな。
サッカープレイヤーよ、タックルの許されるラグビープレイヤーを野蛮であると中傷するな。
それぞれが、それぞれのルールに従って美しく生きているだけなのである。争うのではなくお互いを尊重して、共にスポーツを楽しんでいるものとして笑顔で握手をすることができればいいのである。
このことを理解して理性的になれば、この世から宗教に関する争いはなくなるはずなのだけれど…
感情を爆発させる熱狂的サポーターは、スポーツの世界でも宗教の世界でも、大多数の理性的なサポーターの悩みの種となっている。