最近、立て続けにそんな質問をされた。どうやら僕が人に起こってる姿や、キレるさまを周りのみんなは想像できないらしい。
「シモって、嫌いなこととか、キレることあるの?」
答えは、イエス。嫌いなこと・嫌いなヒトは山ほどある。キレるまで行かなくても腹立たしく思うことはたくさんある。
ただ、自分の嫌いが相手にとっての好きだったり、僕にとっての必要は誰かにとっての不必要だったり。どんな物事も自分だけの判断で決めつけて常識をつくって、それと異なるものを非常識と決めてかかるのはよろしくないと思う。
自分は自分、あなたはあなた。そう考えれば別に怒らなくてもいいやって思うことが多い。
そんなわけで、「別に他の人がやっていても別になんとも思わないしどうでもいいのだけれど僕は嫌いだからやりたくないこと」の一つにピースがある。
写真を撮るときに、日本人はみんなピースをする。
小学校の頃から、大学生になった今でも。日本で友達と写真を撮るときも、海外に旅行に出かけたときも。
「はい、チーズ」の号令がかかったとたんに作る、右手のVサイン。
30人以上の集合写真を撮った時に、沢山の人がみーんなピースをしていたりするものを見ると、「どうしてみんな、ピースするの?」って疑問に思うことがある。これは昔から思っていたこと。
僕も昔はピースしていたけれど、どんどんその頻度はすくなっていき、最近は絶対にしない。やりたいとも思わない。
ピースサインは本来、その言葉の通りに平和を祈る証であり、アーティストが「Love and peace!」と叫ぶときに使ったりしていたもの。でも僕達が日々写真を撮るときに、毎回平和を祈ってこのサインをしている訳ではなくて、知らず知らずのうちにみんなが行なっているある種の反射的行動。
挨拶するときにお辞儀をしたり、別れるときに手を振ったり、電話をとるときに「もしもし」と応答するのと一緒。こういった慣習は別に奇妙でもなんでもないことだろう。
それでも、みんなが一斉に同じ行動をするということに、僕は妙な違和感や居心地の悪さを感じたりする。
さらにこの写真を撮るときのピースサインは、今では他のアジアの国にも広がっているけれど、もともとは日本人特有のものだという。
留学中、イタリア人の友Giorgioは、一緒に出かけた旅先にてピースサインをして記念撮影をしているアジア人を見て、僕に聞いたことがある。
「竜之介!僕はアジア人の中から日本人を見分ける方法を知っているよ。写真撮影をするときに、両手でピースして、”ヤッピー”って叫んでる女の子はみんな日本人だ。そうだろ?」…その通り。日本人として、少し恥ずかしく悲しくなった。
先にも言った通り、これは僕の個人的な感情。
「別に他の人がやっていても別になんとも思わないしどうでもいいのだけれど僕は嫌いだからやりたくないこと」である。だから、僕の大切な人や親友がピースをしていても、気にならないだろう。
ただ…
僕は写真が好きで、誰かの写真を撮ったり、誰かの写真を見たりしたときに、ピースサインで顔を隠しているものや、しかめっつらでピースしてるものを見ると少し悲しくなる。
「はい、チーズ」の号令に対して、機械的にピースサインを作るのではなくて、笑顔を見せて欲しい。
みんなが笑えれば、そこには自然と平和が生まれる。笑えない平和や、笑顔を隠す平和は、本当のピースではない。そんなピースはいらない。
心からの笑顔を写した写真には、ピースサインはいらない。僕はそう思う。