3/21/2015

『世界は一冊の本』

旅に詩集を持っていく。

旅は非日常の連続であるがゆえに、同じ詩であっても読む度に解釈が変わっていく。その変化が楽しい。
以前にインド旅行に持っていった『メメント・モリ』藤原新也はひどく心に刻まれた。今回の相棒は『教科書で覚えた名詩』。国語大嫌い少年でただ念仏のように(と念仏を無用の長物の代表例としては失礼だけれど)音読していた詩歌であったけれど、人生を少しは歩んだ結果だろうか、言葉の美しさ、比喩の優しさを噛み締めて心打たれる。

教科書で習った記憶はないけれど、『世界は一冊の本』という詩に惹かれた。帰国したら長田弘の詩を読み漁りたいと思う。



『世界は一冊の本』長田弘

本を読もう。

もっと本を読もう。

もっともっと本を読もう。


書かれた文字だけがほんではない。

日の光り、星の瞬き、鳥の声、

川の音だって、本なのだ。


ブナの林の静けさも、

ハナミズキの白い花々も、

おおきな孤独なケヤキの木も、本だ。


本でないものはない。

世界というのは開かれた本で、

その本は見えない言葉で書かれている。


ウルムチ、メッシナ、トンブクトゥ、

地図のうえの一点でしかない

遥かな国々の遥かな街々も、本だ。


そこに住む人びとの本が、街だ。

自由な雑踏が、本だ。

夜の窓の明かりの一つ一つが、本だ。


シカゴの先物市場の数字も、本だ。

ネブド砂漠の砂あらしも、本だ。

マヤの雨の神の閉じた二つの眼も、本だ。


人生という本を、人は胸に抱いている。

一個の人間は一冊の本なのだ。

記憶をなくした老人の表情も、本だ。


草原、雲、そして風。

黙って死んでゆくガゼルもヌーも、本だ。

権威をもたない尊厳が、すべてだ。


200億光年のなかの小さな星。

どんなことでもない。生きるとは、

、 、、 、、、 、、、

考えることができるということだ。


本を読もう。

もっと本を読もう。

もっともっと本を読もう。



3/19/2015

停電とサザンクロス


「悲観は気分であり、楽観は意思である」
アラン『幸福論』

僕の好きなアランの言葉。必要最小限の言葉で、人生を楽しむための秘訣を惜しみなく伝えていると思う。
どんな悲劇、苦痛、トラブルに見舞われたとしても、もちろんその直後は悲観に支配され涙流し怒り狂うことがあろうとも、そこから先は意思の力で楽観的に考えることが『幸福』につながる。この言葉に出会ってから、僕は意思を強く持とうと決意した。気分に従い続けていては悲観に陥る。『どうすればこの状況を楽しめるかな、ハッピーにできるかな』、意思の力で考え方や見方を少し変えるだけで、突如として楽しさが倍増する。
今日は小さなトラブルの後に見つけた楽観、思いがけない幸福の話。

イグアスに来ています。
世界的に有名なイグアスの滝を観光し、その迫力に圧倒されながらも、とてーも観光地ナイズされてしまっている自然公園にちょっぴりがっかりしながら帰ってきた観光拠点の街、プエルト・イグアス。リオデジャネイロ行きのバスチケットを買うオフィスで3人の日本人と出会い、夕食を共にした。
世界一周の旅の終盤を迎えたダイキ君(夕飯は彼が作ってくれた、酢豚!美味。)、そしてデフ、難聴でありながら同じく世界を旅するユーヤ君、チハルちゃん。後から加わった異国情緒溢れる美人・みゆきちゃんとともに、手話のこと、写真のこと、旅のことなどを語り合い、とても楽しい時間を過ごした。

時刻も11:00を過ぎ、僕が少し離れた宿へと帰ろうと思った矢先に、ホステルの明かりが突然落ちた。街全体が停電し、真っ暗闇に襲われた。インドやチュニジアなどで何度か経験してる突然の停電なので、あまり焦ることなく、携帯のライトを点け、「じゃあね、お互い良い旅を!」と声をかけあって外に出た。何も見えないな、無事に宿に帰れるかなと思い空に顔を向けた瞬間、目を奪われた。そこには満点の星空が広がっていた。

昨日は新月。さらにプエルト・イグアスはさほど大きくない街で、周りは自然に囲まれているため、星がよく見えた。停電というトラブルに慌てたり、不安な足元に気をとられる人も多くいるのだろうけれど、視線を天に向けると停電したからこそ出会えた景色が広がる。どうすれば停電というアクシデントを楽しめるか…。自分が南半球に来ていることにハッと気づき、すぐにiPhoneを取り出して、"StarChart"を起動し、星空に向け、日本本土からは見えない南十字星、サザンクロスを探した。

ケンタウロス座の足元に控えめに光る4つの星。サザンクロスは小さく、思いがけず高い南東の空にあった。それから停電が復旧するまでの数分間、側から見れば変なアジア人と思われていただろうほど夢中にiPhoneを空にかざしていた。冬の南天を飾るオリオンは北の空に横たわり、大熊座の額の上のPolaris・北極星は地平に隠れていた。自分自身が日本とは離れた場所にいることを星空が教えてくれた。

停電は当然、トラブルであり歓迎することではないけれど、僕はそこから満点の星空を眺める機会を見つけた。これは些細な(そしてちょっと子供じみてロマンティックな)例であるけれど、どんなトラブルに見舞われても、気持ちを切り替え、そこから新たな楽しみを見つけ出す。そうやって常に学び常に楽しむ生き方をこれからもしていきたいと思う。
「悲観は気分であり、楽観は意思である」



3/17/2015

『地球の歩き方』という地球の上

パソコンとカメラを盗まれたと同時にアルゼンチン・チリの地球の歩き方をも失ってしまった。ウユニ塩湖で出会った日本人(18歳の世界一周バックパッカー!)と、「地球の歩き方がないと物価の目安も地図もなくて旅が大変だよね」なんて話をしていたけれど、前言撤回したいと思う。地球の歩き方なんかなくても、旅は楽しい。

チリのサンティアゴの街中を歩いていたら、美しい漢字で名前を描き銭を稼ぐ日本人パフォーマーがいた。話をしてみると、彼/彼女達も世界一周旅行の最中であるという。どこに泊まっているのかという話になり、街の外れのブラジル人街(アタカマのホステルで知り合ったイスラエル人オススメのホステル。綺麗、安い、しかしラブホテルの隣という立地)だと言うと、驚かれた。
「そんな場所があるんですか!私たちは街の中心のパレスホステルです。歩き方に書いてあったところで、日本人の方も多いですよ」と。どうやは僕は『地球の歩き方』の外側の地域に宿をとっていたらしい。確かにアクセスは悪かったが、この町に生きる人に近い楽しい場所だった。



その後のブエノスアイレスでも現地の友人が終日ツアーガイドとなってくれ街を散策、夜は彼女の家で友人も集めたパーティを開いてくれ、『歩き方』には掲載されていないであろうローカルを満喫した。アサード(アルゼンチンのソウルフード、ステーキ)を購入する目安は1人につき0.5kgとか、闇両替が横行している理由とか、フィレテと呼ばれるブエノスアイレスの美しき装飾文化とか。



『地球の歩き方』は確かに非常にコンパクトに、たくさんの写真で、超わかりやすく、初めて訪れる都市や観光名所を紹介してくれる。けれど、この本はあくまでも日本人向けの観光ガイドであり、決して『地球』を歩かせてくれるのではない。ペルー、ボリビアで多くの同じ本を持ち合わせた日本人と出会った経験から、僕も彼らもみんな『地球の歩き方』という日本人のために最適化され過ぎた狭い地球の上を歩かされていたのだな…と気付かされた。東京で言えば地元民はほとんど行かないロボット酒場に白人観光客が押し寄せているようなもの。楽しいのだろうが、やはりそれはガイドブックのページのように薄っぺらい。本当の東京は、旅先は、地球はもっと人間味豊かで深い文化に溢れている。

時間の限られた弾丸旅行にはガイドは必須かもしれない。しかし、時間に余裕があるのなら、旅の最中、1日だけでもガイドブックを置いて、気ままに街を歩いてみたい。地図の外側に、未知なるものが広がっているかもしれない。平凡な家々が連なっているだけだとしても、その事実をみずから気づけたことに意味があり、それは案外記憶の深いところに残る。

3/13/2015

南米、ラテンなバスの旅

LimaからIcaまで、8時間。
IcaからCuscoまで、16時間。
CuscoからPunoまで、7時間。
PunoからLa Pazまで、10時間。
La PazからUyuniまで、12時間。
UyuniからAtacamaまで、10時間。
AtacamaからSantiagoまで、23時間。
SantiagoからBuenos Airesまで、25時間。
これら全て、バスの乗車時間。

そんな長い時間乗ってるの、疲れないの、馬鹿じゃないのと言われてしまいそうだけれど、僕はこのバスの旅がとても楽しくて、さらには贅沢だと思っている。

チリ、アルゼンチンの長距離バスはほとんど全てがロンドンのダブルデッカーのような二階建て。二階の最前列(値段は一番安いsemi-cama)を押さえることができれば眼前にはパノラマが広がる。メンインブラックのオープニングを想起させる悲しくも交通事故に遭われた虫が多数ひっついているのはご愛嬌。隣の席にマラドーナ風の暑苦しいおっさんが神の手で変なことしてこなければ快適なこと、この上ない。今のところ、メッシ似のおばさんがサンティアゴで汗だくになりながら乗り込んで僕の隣の席に座り音楽をガンガンにかけていたけれど、アルゼンチン国境で税関とスペイン語でワーワーやって、入国させてもらえずいなくなったというファールにしかかかっていない。レッドカード一発退場だったのか。グッバイ、ファンタジスタ。

それよりも、バスの旅だから感じられることがたくさんある。
南米最貧国のボリビアのインフラ状況は悪路の続く無限振動地獄より全身で(おもに臀部で)実感した。
ペルーにおけるインカコーラ、オロナミンCからビタミンCを除いたような摩訶不思議な炭酸飲料のシェアの高さを、地の果てと思える場所に立つ無数の黄色い広告から推測できた。
アンデス山脈の雄大さを、いろは坂を凌駕するヘアピンカーブの連続(チリ側ではカーブ毎に"curve ◯◯", と番号が記されており、その数まさにアルファベットと同数の26であったような。ABC坂「アーベーセー坂」と名付けたい。)と破裂寸前までに膨らんだポテチの袋から推し測れた。

窓から見えるローカルピーポーの姿も、しっかり観察すれば民放が作る下手なドキュメンタリー番組なんかより面白い。
排ガスまみれ、ドライバーから丸見えの路肩のベンチで抱き合うカップル達。ラブホなどの個室、清潔なシーツの上でしか愛を確かめ合えない日本人との対比に苦笑。
南米名物、信号待ちの物乞いアクロバット。ドラム缶の上に乗って、バナナや小さな桃を5、6個ジャグリングするおばさんを見て驚愕。凄い。それ、売り物じゃないの?
高地で多数出会ったビクーニャ、アルパカ、リャマの見分け方も身についた。それぞれ、スリムで毛並が美しい(食べるところ少なそう)、フワフワで可愛い(毛を刈ったら身なさそう)、中肉中背(昨晩のステーキ美味しかったなぁ)。バス移動、何せずとも腹は減る、そんな人間の真理にたどり着く。

飛行機のように目的地と目的地を点で結ぶ乗り物からは得られない経験が、バスの車窓からは得られる。でも、欲を言えばダブルデッカーの二階よりももっと目線を下げたい。以前に書いた人間の速度を感じられるスピードのような自転車での旅はこの広大な南米では難しいだろうけれど、やはりもう少し自分の意思で進み止まり、そこに生き暮らす人々と同じ目線に立ち、現状を見通せる視座が欲しかった。アルゼンチン生まれのチェゲバラが相棒とバイクにまたがり、南米を旅をしながら革命運動へとつながる仲間であるカストロと出会いや、様々な問題意識に目覚め、理想主義にひた走るようになったように。

旅とは、改めて、ただ見たいものを見て写真を撮るだけの行為ではないと感じた。
目線の高さを下げ、移動する速度を遅め、そしてそこに生きる人々と同じ空気をめいいっぱい吸い込んだときに入ってくる極めて受動的な気づき。これこそが旅の魅力だと思う。

3/11/2015

メモ帳断片

メモ帳断片

アタカマからサンティアゴへの24時間のバスの中。右手の窓から延々と続く太平洋の海岸線を眺めながら、携帯電話のメモ帳に記録していた言葉の破片を読み返していた。
実はチリ入国後に貴重品を入れた鞄を盗まれた。カメラ、パソコン、紙のメモ帳などを喪失してしまった。
幸い自身に怪我がなく、モノは保険やお金を出せば返ってくるので、まぁいいか、旅を続けよう…と前向きに考える。けれど、写真とメモ帳がなくなってしまったことに未練が残る。

紙のノートに何を記していたのだろうか。心を揺さぶる景色も言葉も、時とともに人は忘れる。忘れたほうがよいことも、雑音も多いのだろうけれど。
メモ帳断片。iPhoneが盗まれる前に、言葉を残す、備忘録。
また、共感してくれる誰かと、次に会うときの酒の肴となるように。

2014/3/8
スプリング・エファメラル
春先に花をつけ、夏まで葉をつけると、あとは地下で過ごす一連の草花の総称。

2014/2/xx
私の履歴書-日揮会長の言葉
企業経営の最前線に立っていると、「儲(もう)かるか、儲からないか」という二元的な視点でものをみがちだ。だが、企業が活動する基盤は社会であり、人である。社会が安定し、人が充足しなければ、経済は成長せず、企業の発展も止まる。海外で様々な会議に出ることで、ビジネス以外の視点の必要性をますます感じるようになっていた。

人生は旅であり、人類が歩んできた道が歴史になるのだろう。

2014/2/21
世の中は空しきものと知る時し
いよよますます悲しかりけり
大伴旅人

2014/2/16
多くの人が自分の価値やアイデンティティーを測る基準を求めている

2014/2/8
近年、和食文化が国内外で注目されている。明治時代の文明開化以降、日本は積極的に海外、特に西洋の文化を取り入れ、先進国へ仲間入りしようと駆け抜けてきた。その過程で蔑ろにされてきた日本の文化。

一度失われた文化は戻らない

和服は私達の身の回りからはほとんど消えた

和食のたどる道も、和服と同じ

2014/10/19
表現とは、他者を必要とする。しかし、教室には他者はいない。

伝えたいという気持ちは「伝わらない」という経験から来る。

2014/9/7
岡本太郎の本より
明治以来、奇妙に西欧的な文化意識に目ざめ、日本にもこんなものがあるぞ、と対抗的にもち出した。向こうの価値観で自分の方を作りあげてしまったのだ。日本の文化史とか美術史とかいうものは、まことにそのようにして作りあげられた、つまり西欧文化の影にすぎない。「物」とか「ある」という前提にたって対立させては、日本文化の本質は捉えられないと思う。

2014/9/6
人は、権力と娯楽とお金には、すごく簡単に従ってしまう

2014/7/19
「弱いつながり」東より
社会学者ディーン・マチャーネル
ネットは記号でできている世界です。文字だけの話ではありません。音声や映像が扱えるようになっても同じで、結局はネットは人間が作った記号だけでできている。ネットには、そこにだれかがアップロードしようと思ったもの以外は転がっていない。

ミシェル・フーコー
『言葉と物』
人間の現実は要は言葉とモノからできている。
モノの世界が大事だと考えるひとたちがいます。「やっぱり人間、直接にいろんなものを見て、他人とも面と向かってしゃべらないといけないよね」という考え方です。
それに対して、むしろ言葉こそが大事だと考えるひとたちもいます。「人間の現実はすべて言語で構成されているのだから、その外部なんて考える必要はない、他人との会話だってしょせんは言葉だ」という思想です。

国民と国民は言葉を介してすれちがうことしかできないけれど、個人と個人は「憐れみ」で弱く繋がることができる。

2014/7/10
塩野七生の著書?
ギリシア・ローマに代表される多神教と、ユダヤ・キリスト教を典型とする一神教のちがいは、次の一事につきると思う。多神教では、人間の行いや倫理道徳を正す役割を神に求めない。一方、一神教では、それこそが神の専売特許なのである。

人間よ行動原則の正し手を、
宗教に求めたユダヤ人
哲学に求めたギリシア人。
法律に求めたローマ人。

2014/7/1
人間にとって、害あるものか否かは、水との親和性で測れる。


3/10/2015

月の谷の鼓動音

パキッ。…パキッ。

ツアーガイドの指示に従い、ポーランド、ベルギー、ドイツ、そして日本からきた僕ら旅行客は息をひそめ、耳をすませると、白壁が音を鳴らした。
南北に長いチリの北端に位置する砂漠地帯、アタカマ。そこで僕は大地の鼓動を聞いた。



世界で最も乾燥した砂漠として知られるアタカマ砂漠、その端に位置するSan Pedro de Atacama。ここは隣接するボリビアのウユニ塩湖ツアーの発着地。南米最貧国であるボリビアと比べると街並み、インフラ、人の装いなど全てにおいて洗練されており、西洋人が多く集まる観光地となっている。

南米旅も折り返しを迎え、当初の目的であったマチュピチュ、ウユニ塩湖を経験し、さて、次にどこへ行こうか…と考えあぐねていた矢先に友人が言った。
「アタカマが面白いらしいよ」
チリを訪ねるつもりはなかったけれど、ウユニからバスで12時間、悪路と国境と露天掘りの銅山を通り、アタカマへ行くことにした。

アタカマではボリビア側まで抜けるウユニ塩湖ツアーを始め、乾燥し空気の揺らぎが少ない条件を活かしたスターゲイザーツアー、近隣の遺跡を訪ねるツアーなど数多くのレジャーがある。その中で僕は"Valle de la Luna"、月の谷を訪れる夕方のツアーに参加した。

「月の谷」と称される土地は街からすぐの距離にある、起伏に富んだ谷。月面のように見えるから…と地球の歩き方には書いてあるが、ガイドさんの説明によるとその通りではなく、この特異な地形のほぼ全域を形成する天然の鉱石セレナイト(Selenite)の語源がギリシア神話の月の神、セレネに由来するからとのこと。岩肌には無色透明の鉱石が露呈し、鈍く光っていた。また、この土地では塩の結晶・ハーライト(Halite)も豊富に採れ、岩塩の鉱山跡もあるという。

月の谷を上から眺め、セレナイトとハーライトが豊富に見える洞窟を歩き、少し開けた谷あいの地に来たときに、ツアーガイドが突然声を低くした。

「…ここで、皆さん静かにしてください。音が聞こえてくるはずです。」

15名ほどの参加者はず会話をやめて耳をすました。すると、どこからともなく、小さいけれど確かに、パキッ…パキッ…と音が聞こえた。

「聞こえましたか?これは鉱石が砂漠の昼と夜の温度差によって膨張・収縮することによって小さな割れ目が壁の中で入っている音なんです。」

「通常の鉱山は地上から数百メートルの地下の定温部にあるのでこのような音は聞こえません。世界中でも、寒暖差の大きい砂漠地帯に近いこの土地ならではの現象、そして知らなければ聞こえない小さな秘密の音なんです」

決して大きな音ではなかったけれど、その音は僕の胸には強く響いた。不動の象徴とされる大地が鳴らす、小さな鼓動音。
静かにし意識を向けなければ聞こえないそれは人間の鼓動音と同じであり、大地もまた生きている。そう主張され気付かされたようであった。

「美しさは細部に宿る」
マチュピチュやウユニ塩湖の魅力はその漠とした美しさでよく知れ渡っていて、僕も全身とカメラでそれらを体験した。しかし、写真には収まらない美しさ、細かく小さくけれど力強い魅力も世界にはたくさん存在する。月の谷の鼓動音は、まさにそのような美しさだった。




3/07/2015

月を共有した時代

孤独をまぎらわすために、人は共有する。
言葉を、写真を、声を、身体を。
ビットの波に流され、流され、地球の裏側にいても
人は孤独を共有できるようになった。一瞬で。光の速さで。

電話をかけてもタイムラグはなく、
手紙を書いたら間違いなくとどく。
孤独を紛らわす方法は幾千もあるのに、
僕たちは今でも寂しがりやで、怖がりだ。

太古の友人はネットを持たず、手紙は使わず、
写真も撮らず、言語すら残さないものもいた。
そんな彼らも人間で、寂しがりやで、怖がりだ。
旅に出た太古の友人は、愛する人に、どうやって共有したのだろう。

見上げた空に満月。
あの人もこの月を見ているのだろうか。
そうやって、月を共有した時代があった。
時差もあって、不確実で、なんとも自分勝手な寂しさの媒体。

それでも、いいな…と思ってしまう。
ビットの時代を生きる僕。