旅に詩集を持っていく。
旅は非日常の連続であるがゆえに、同じ詩であっても読む度に解釈が変わっていく。その変化が楽しい。
以前にインド旅行に持っていった『メメント・モリ』藤原新也はひどく心に刻まれた。今回の相棒は『教科書で覚えた名詩』。国語大嫌い少年でただ念仏のように(と念仏を無用の長物の代表例としては失礼だけれど)音読していた詩歌であったけれど、人生を少しは歩んだ結果だろうか、言葉の美しさ、比喩の優しさを噛み締めて心打たれる。
教科書で習った記憶はないけれど、『世界は一冊の本』という詩に惹かれた。帰国したら長田弘の詩を読み漁りたいと思う。
本を読もう。
もっと本を読もう。
もっともっと本を読もう。
もっと本を読もう。
もっともっと本を読もう。
書かれた文字だけがほんではない。
日の光り、星の瞬き、鳥の声、
川の音だって、本なのだ。
日の光り、星の瞬き、鳥の声、
川の音だって、本なのだ。
ブナの林の静けさも、
ハナミズキの白い花々も、
おおきな孤独なケヤキの木も、本だ。
ハナミズキの白い花々も、
おおきな孤独なケヤキの木も、本だ。
本でないものはない。
世界というのは開かれた本で、
その本は見えない言葉で書かれている。
世界というのは開かれた本で、
その本は見えない言葉で書かれている。
ウルムチ、メッシナ、トンブクトゥ、
地図のうえの一点でしかない
遥かな国々の遥かな街々も、本だ。
地図のうえの一点でしかない
遥かな国々の遥かな街々も、本だ。
そこに住む人びとの本が、街だ。
自由な雑踏が、本だ。
夜の窓の明かりの一つ一つが、本だ。
自由な雑踏が、本だ。
夜の窓の明かりの一つ一つが、本だ。
シカゴの先物市場の数字も、本だ。
ネブド砂漠の砂あらしも、本だ。
マヤの雨の神の閉じた二つの眼も、本だ。
ネブド砂漠の砂あらしも、本だ。
マヤの雨の神の閉じた二つの眼も、本だ。
人生という本を、人は胸に抱いている。
一個の人間は一冊の本なのだ。
記憶をなくした老人の表情も、本だ。
一個の人間は一冊の本なのだ。
記憶をなくした老人の表情も、本だ。
草原、雲、そして風。
黙って死んでゆくガゼルもヌーも、本だ。
権威をもたない尊厳が、すべてだ。
黙って死んでゆくガゼルもヌーも、本だ。
権威をもたない尊厳が、すべてだ。
200億光年のなかの小さな星。
どんなことでもない。生きるとは、
、 、、 、、、 、、、
考えることができるということだ。
どんなことでもない。生きるとは、
、 、、 、、、 、、、
考えることができるということだ。
本を読もう。
もっと本を読もう。
もっともっと本を読もう。
もっと本を読もう。
もっともっと本を読もう。