12/03/2014

「そうだ 京都、行こう。」の時代

広告に費やされるお金というものは莫大で、何千万円から数億円という金額になることもあるという。自然、広告主と代理店は緻密なマーケティングを施し、時勢を読み、最もその広告に揺り動かされるターゲットとメディアと内容を適時決めていく。
そんなたくさんのお金と労力が投下される広告は、時代を反映する写し鏡のようなもの。広告が変われば時代も変わり、また、自分自身の気になる広告が変化すればそれはライフステージが変化したことを意味する。
今日は、20年も続く京都の広告の話。



「そうだ 京都、行こう。」
秋真っ盛りの京都へ紅葉を見に行った。購入したガイドブックに、JR東海の歴代の広告が掲載されていて、目を惹かれた。

1993年、バブルがはじけて数年後。
ただひたすらに働くことに意味を見いだせなくなったモーレツサラリーマンたち。
周りのすべて効率化し、時間やお金は余らせたのに心の充足感を感じられない主婦や年配の方々。
海外が近くなったけど、西洋にかぶれてもどうしようもないとと思い始めた若者たち。
そんなすべてのひとの心を射止めた広告が、「そうだ 京都、行こう。」。
第一回目、1993年の広告は、美しい清水寺を背景に、こんなキャッチコピーが入っていた。


「パリやロスに
ちょっと詳しいより
京都にうんと詳しいほうが
かっこいいかもしれないな。
外国のビジネスマンって、けっこう京都のことをよく知ってたりするんだよな。」



以来、この広告は20年も続くシリーズ広告となっている。
今年も京都市内やJRの駅構内で見かけた。


先にも述べたように、広告とは時代を移す鏡である。その鏡が20年来変化していないというのは、20年前から今に至るまで「そうだ 京都、行こう。」の時代や精神が続いているということ。
実はこの広告の前の時代には、「トリスを飲んでハワイへ行こう!」なんて広告がサントリーから出ていたり、テレビCMでは金髪のおねーちゃんが踊っていたりと、時代は海外や新しいものに溢れ、日本人の意識は進取の精神で溢れていた。

しかし、バブル崩壊後、人々の意識は未知なるものから内なるものへと変化した。
自身のアイデンティティの大切さ、大切なものは思ったよりも近くにあるという気付き、海外(特に多くの日本人が憧れるアメリカ)にはない日本独自の長い歴史の奥深さ…そういったことに興味を抱いた多くの人が、「そうだ 京都、行こう。」に惹かれていった。

そんな時代が、形を微妙に変えながら今でも続いている。
1995年の阪神・淡路大震災や2011年の東日本大震災の後に巷にあふれた「絆」や「頑張れ日本」という掛け声。
2020年の東京オリンピック、成長戦略としてのクールジャパン。
そのどれもが、新たなものを掴みに行く気概よりも内なるものを高めていくことに対する美意識を涵養している。
蛇足ながら、安部首相が常々とりあげる「地方創世」も、うまくそんな美意識を捉えていると思う。さて、衆議院選挙戦の結果や如何に。


時代の話から「そうだ 京都、行こう。」の広告自体に話を戻すと、僕は昔からテレビCMなんかでこの広告に触れていたはずだけれど、こんなに「いいなぁ…」と感じられるようになったのは最近のこと。歳を重ねて、留学を経験して、次第に内なるものへの美意識が生まれ、歴史などの「深さ」があるものに価値を見出し始めたのだと思う。


「そうだ 京都、行こう。」の時代は当分続くだろう。
最後に、僕がすごく好きなコピーをいくつか引用して、終えます。


1993年、1年に1つの鳥居を奉納されていく伏見稲荷神社の写真に。

「「これからのニッポンは?」の悩みには、
「むかしむかしのニッポン」が
お答えします。
一つくぐると一年むかし、と考えると、
さっきカーブしたあたりで三〇〇年はもどったってことなんだ。」

1997年、東福寺の美しい紅葉の姿に。

「六百年前、桜を全部、切りました。春より秋を選んだお寺です。」

2011年、秋、毘沙門堂。東日本大震災震災後の広告。

「いい秋ですね、と言葉をかわしあえる。
それだけで、うれしい。」





11/25/2014

新しく、また懐かしい、銀杏道

東京に住んで25年。

この街の魅力の数%も理解できてはいないけれど、最近は「初めて」訪れる場所ではなく、「再び」訪れる場所が少し増えてきた。
目新しいもの、派手で豪奢なものを求めて行ったら飽き足らないここトーキョーという場所。そんな中で、ふと懐かしさを求めたくなっている自分がいるように思う。ただ単純に学生というライフステージに長くとどまりすぎて、行き詰まっているだけなのかもしれないけれど。


今年も再び訪れた。神宮外苑の銀杏並木。
晩秋になり、メルトンのコートに袖を通し、マフラーを巻き、高く澄み渡った空を眺めると、ふと銀杏の黄色が見たくなる。家の近くの公園にもたくさんの色づいた木々はあるけれど、やっぱりここの並木道が一番きれいだと思う。
空は薄曇り。まだ緑を残した木々もあり、黄色と青の最高のコントラストは見れなかった。それでもたくさんの人が訪れていた。写真を撮ったり、のんびり散歩したり、ベンチに座って和やかに話したりしながら、上を見上げ銀杏を鑑賞していた。


花や木々を見ることは、地味な行為だと思う。
東京には次々とオープンするおしゃれなお店や、楽しいイベントがわんさかとある。新しいものを悪いとは思わないし、僕も流行には敏感でいたいから新しいものは積極的に勉強して吸収していく。けれど、そんな訪れては消えていく儚い物事は持ち合わせていない素敵な価値を、地味な銀杏並木は持っている。与えてくれる。


例えば、懐かしさ。
去年も来たね、昔も来たね…そんなふうに語らいながらこの場所を訪れている人はきっと多い。人生は決して先に先に進むだけが価値あるものではなく、いつかは昔を懐かしむ。そんなときに、変わらずそこにあり、でも少しだけ表情を変えて迎えてくれる草木の表情に、人はきっと安堵を覚える。
例えば、奥深さ。
絵を描いている人。写真を撮っている人。詩を思いつく人。
静かに自分の心の中に思い浮かぶ心象と向きあう時間は、騒々しさからは見つけづらい。自分の好きなスピードで歩き、感情の表層部分ではないところを探る。そんな行為をしている人が、ブラブラと並木道の下を歩く人のなかには多いような気がする。


新しく、また懐かしい、銀杏道。
また来年。










10/03/2014

僕の内定と友の転職

10月1日。
4月から始まる日本の年度の半ば、暦を折り返し始めるこの日。
会社では様々なシステムの改変があったり、人事異動があったりするこの日。
夏の暑さも気づけば和らぎ、カチッと音を立てるように季節の移り変わりを感じるこの日。
学生である僕にとってのこの日は、正式に内定を頂いた(この言い方も少しおかしいのだけれど)日であった。

「今後、様々なキャリアを歩むと思いますが、内定式は一生で一度です。」
内定式の中で、会社の方がスピーチでそうおっしゃった。
そうか、内定式は人生で一度きりなんだ…と、記念日なんかに鈍感な僕はそのときにハッと気がついた。長い長い社会人人生。転職も、休職も、退職もきっとある。それでも、そんな節目の次に訪れるスタートには、こんな初々しさと、その期待に発破をかけるようなセレモニーは、きっともうない。だから、緊張しながら両手で頂いた内定通知書は、ただの一枚の紙であるけれど、すごく意味のあるものなんだと思う。
でも…。今、この内定のときに感じた期待だけを燃料にして残りの人生を走り切るには無理があると、僕は自分の経験と、そして親友の決断から感じていたりもする。


僕は大学に入学したとき(既に6年前になる)に、大学4年間をテニスに捧げるつもりでいた。
本気で楽しくテニスをやっているチームに入って、練習にしっかり参加して、自発的に活動して、今、自分がいる場所でのベストを尽くそうとした。
でも、僕はそのチームを1年も経たずに辞め、テニスから遠ざかっていった。その理由は、大学1年生の夏に初めて訪れた海外での経験。1周間、友達についていってアメリカ・ニューヨークを観光しただけだったけれど、それが僕にとってはその後の大学生活を変えるターニング・ポイントだった。こんな僕の知らない世界があるのか…。
もっと海外を知りたい。留学をしたい。そのためには足りなすぎる語学力を高めるために予備校に通う必要性を感じて、辞める決断をした。
今でも、ふと、辞めたことを後悔したりする。先輩や同期に迷惑をかけたこと、そのまま頑張って続けていたら得られたであろうたくさんの仲間と絆。自分自身に甘くなって、色々なことに面倒くさくなって、逃げてしまった。なんであのとき頑張らなかったんだろうと、自己嫌悪に陥ったりもする。


しかし、今こうやって学生生活を振り返ってみると、あのとき辞める決断をしたからこそ得られた様々なものが僕には残っている。留学での日々、そこで出会った心からの友、価値観の変化、語学力、多様性の大切さ、成長。テニスを諦めるときには得られるとは思ってもいなかったものばかり。でも、これらがなければ今の僕はないと言い切れる。そんなとてもとても大切な僕の構成要素を、僕は諦めたから、決心したから、得ることができた。


親友が、転職・退社を考えている。
昨年の4月、彼は現在働いている第一志望の会社の内定をもらったときに、まっさきに僕に電話をかけてその報告をしてくれた。そんな彼が、ものすごく苦しんでいる。辛い、と。辞めたらどうなるか、周りの人にどう思われるか不安でもある、と。


僕がサークルを辞めたこととは次元が違う悩みであることは承知している。
それでも、僕はこう思う。「やめていいんじゃない?」と。なぜなら、辞める決断をしたその先、きっと5年後とか10年後とかに、その決断をしたがゆえに得られるたくさんの成長と出会いがある。そしてそのことがきっと違った次元でものごとを見る目を養い、人間としての奥深さを与えてくれる。
もちろん、哀しみが伴うことも彼には伝えた。僕がサークルを辞めたことを今でも後悔しているように、「なんであのとき…」と、振り返り悲しむこともある。


人生は不可逆的だ。時間は戻らない。決断は覆せない。
そうであるならば、前を向いて生きていきたい。自らの失敗だったとしても、天を仰ぎたくなるような不運に見舞われたとしても、後悔の念を忘れずに、それを糧にして、とにかく、前へ。

その進む先には考えもしない未来がある。そう信じて。
真の楽観は、気分ではなく、悲観や後悔を土台にした意思によって得られる。


僕の内定と親友の転職。
始まりと終わり、期待と失望。
たくさんの気持ちが交差したそんな日に考えた、すごく抽象的なこと。

こうなっていたかもしれないと、
クヨクヨ思い悩むには、人生は短すぎる 
Life is too short, time is too precious, and the stakes are too high to dwell on what might have been.  
-Hillary Clinton

9/18/2014

ウロボロスの蛇

世の中は様々な関係性で成り立っている。
個人はみな何かに属し、自分が属する枠はまたさらに大きな仕組みに組み込まれ、それが社会、世界を建設している。そのような幾重にもなる社会の階層間では様々な問題が生じる。その規模、場所、主張を変えながら。

…しかし、そこには常にいつも同じ構造、光景があるように感じる。
少数派に属する者達の、自分たちの声に耳を傾けろという叫び。
より大きな枠を動かす人達の、視野を広げろという訴え。
そんな姿を見る度に、僕は考える。きっとどこかに、「ウロボロスの蛇」の先端・後端があるはずだ、と。無限発散してしまいそうな大きな問題、一度には見きれない小さな問題。それらがうまく結びつき、問題の構造が循環する仕組み。簡単には見つからないのかもしれないが、それを見つけられない叫びや訴えに意味はないと、少し残酷かもしれないけれど僕はそう思ってしまう。


「ウロボロスの蛇」とは自らの尾を飲み込む蛇の図で、循環性や永続性のサインとして使われてきた。
Wikipedia - ウロボロス
僕がこの概念を知ったのは、昨年アメリカの留学中に素粒子宇宙論の講義でのこと。"Layer structure of nature"として、素粒子、原子、生物、地球、太陽系、銀河系…と、人知を超えるほど大きなものを求める宇宙論という学問の先には、実は世界の構成要素である素粒子・クオークなどの最も小さな構造の解明が関係している。ピラミッド型にただ上層下層にわかれる仕組みではない、循環的な学問の深みとロマンを知った。


さて、僕がフィールドワークで訪れた沖縄、さらにその前に訪れた沖縄の離島である先島(八重山)諸島で知った数々の社会的問題。そこで僕は様々な問題の階層構造、枠と個の矛盾関係を見た。

沖縄県という枠に含まれる先島諸島はかつて、沖縄本島の琉球王国の支配下となり、人頭税など多くの負担を強いられていた。先の大戦では本島が被った「鉄の暴風」のような地上戦を経験せず、牧歌的で美しい自然が残された。
「本島の人はお金しか考えてないんじゃないか」
「もっと、離島のことも考えて欲しい」  
親しくなった石垣島の店主は僕のそう言った。


沖縄本島に住む人はまた違う意見を持つ。上の文脈の枠を日本に、個を沖縄に置き換えてみる。
「内地の人は、もっと沖縄に目を向けるべきだ。」
「日本政府は、沖縄を植民地のようにしか思っていなんじゃないか。」

世界と日本という規模でも同じ構造がある。枠を世界や米国に、個を日本にした様々な議論。
「日本をもっと世界に発信しなければ。」
「日本はアメリカの植民地ではない、押し付けられた憲法を改正しなければ。」

この議論を続けていたら、そのうち、宇宙を見ろ!とか、銀河的に考えて…とか、とにかく大きな枠の中でしかものごとが考えられなってしまう。ピラミッドの頂点から下を眺めることこそが正しいかのような、社会観。階層観。意外とたくさんの人がこの考え方に陥っているように思う。


ウロボロスの蛇のような、循環的な社会観を見つけたい。身につけたい。
小さな個を枠に埋もれさせるのではなく、その個を守ることが枠を守り、形作り、より大きな構造を支える。そんな仕組みを見つけたい。
例えば、僕が沖縄で学んだことの1つに、TPPとさとうきび畑の関係性がある。世界との競争力を高めるためにと議論が進むTPPだが、そこで砂糖の関税が撤廃されれば沖縄の離島のさとうきび畑農家は食べていけない。台風の常襲地帯では他の作物は作れない。農家がさとうきび畑作りを諦め、島を出ていき、無人となれば尖閣諸島のように領土問題の危険が高まる。
「さとうきびが島を守り、島が国土を守る」
そんな言葉が、沖縄のある離島には掲げられているという。
小さな島の小さなサトウキビ畑が、大きな大きな日本と世界のTPPにも関係しているという循環構造の一例である。


大学に入り、留学・バックパック世界旅行と、大きな世界や仕組みを体験し続けてきた。
そのせいか、なまじ日本と世界という狭い階層間だけでものごとを考えてしまい、それが自分やこの国の最重要課題であるかのように錯覚していた(している)。これからはもう少し、日本の中の個を見つめ、そこにある様々な問題に耳を傾けてみようと思う。それはピラミッドの礎を固めるような地味で小さく退屈な行動ではなく、そこで見つけた様々な課題、矛盾、叫びは必ず大きなものとつながる大切な行動である。

マイノリティの声に耳を傾け、彼らの存在と世界の建設を結びつける。
ジャーナリストの使命の1つでもあるこの考え方を、これからも、ずっと、持ち続けていたい。

9/11/2014

文化のある場所

文化はどこか特別な位置にあるのではなく、日常生活のごく近辺にありうるものだということを、2週間の沖縄滞在で感じた。
美術館や博物館の展示品、歴史ある建物、ランドマークなどの「モノ」のなかにではない。時間の流れ方、笑顔の作り方、自然との接し方、そして人々の心の中にある寂しさ…そんな写真では切り取れない場所にこそ本物の文化はある。沖縄で体験したことを中心に、文化について感じ考えたことを書こうと思う。


沖縄・石垣島を訪れた初日、その夜に僕はこんなことを思った。
「ほとんど見るもの全て見てしまったな…残りの日数どうしよう」
僕は無意識に、沖縄で「見るモノ」を探していた。それは沖縄の前に訪ねていたイタリアでの経験を引きずっていたのかもしれない。町の至るところにある美術館に集められた数々の名画、宝物。何百年も堅牢に立ち続ける協会、家々。綺麗にアーカイブされ、初めての訪問者にもわかりやすい視覚的に理解できる文化。たくさんの写真を撮って、それが文化を経験した「証」として残っていった。
そんな文化の「証」が、沖縄の島々では見つからなかったのだ。あるものは、海、空、山、さとうきび畑に、来襲する台風に耐え続けてきた味気ないコンクリートの家々…。どこにでもありそうな絵が多かったのだ。


見るものがないな…と思った翌日から、僕はたくさんの新たな文化に出会った。それは写真に収められるものではない、人々との接点から見いだすことができた文化。台風などの自然災害と共に生きてきた人が語る「自然には敵わない」という言葉、観光で訪れただけの見知らぬ人である僕に対する島の人々の優しさ、世俗的ではないお金や地位なんかをまったく気にかけない雰囲気、前のブログ(⇒失われるものを唄うこと)で書いた最上級の自然そのもの…そういった日常生活の近辺にあるものだった。
優しさ、時間の流れ方、自然の雄大さと残酷さは、写真には収められない。モノとして触ったりすることもできない。無形の文化。文化とは本来、権力者が一箇所にまとめて愛でたりすることができるものではない。「物」とか「ある」という前提にたって文化を論じてしまうと、沖縄の文化、ひいては日本の文化を理解することはできないように感じる。


琉球朝日放送の記者の方とお会いして、お酒を飲みながら沖縄で体験した面白いエピソードを伺った。(その方は沖縄出身ではなく、千葉県出身)
会社の近くの定食屋を連日訪問して、同じメニューを食していたら、前の日と味が違うことに気がついた。「昨日とは少し味が違うように思うんですが…」そう店主に尋ねたら、こう怒鳴られたという。
「当たり前だろ!!俺は人間なんだ、毎日おんなじ味に料理が作れるかぁ!!」
八重山日報というローカル紙でインターンをしていたときに、朝刊の配達時刻が(2010年当時は。今はわからないとのこと)9時ぐらいで、「配達時間、遅すぎませんか?」と上司に尋ねたときに、言われた言葉。
「どこの誰が朝早くから新聞の細かい字なんて読みたがるんだ。昼すぎののんびりした時間に読むもんだ、離島の新聞は。」

この2つのエピソードからもわかる。「ヒト」主体で沖縄の文化が動いているということ。東京に住み暮らし、知らず知らずの間に西欧的な物質主義であったり、多様な人々の中でひどく簡単に価値を見いだせる「カネ」に重きを置く生き方をしてしまっていたことに、ふと気がついた。場所、モノ、カネ…それらは全て泉から湧き出る水のような栄枯盛衰する表層的なものであり、その源泉となりうるものは「自然」とその中で暮らす「ヒト」でしかない。あまりに日本的かもしれないけれど、文化とは、建設的に積み重ねられていくものではなく、輪廻のごとく移り変わり、惑い、時に滅びて忘れ去られていくまさにその様子であるのかもしれない。


時間、唄、空気、ヒトの生き方…
沖縄。築いては滅びていくことが当然となり、あまりに人間的・自然的な無形の文化が残る場所。また、ただ感じるままに訪れたい。そんな場所、旅だった。






9/01/2014

失われるものを唄うこと

「自然を大切にしよう」
沖縄出身のアーティストは、そんなメッセージを含む唄を多くつくり伝える。
「緑を増やして豊かな暮らしを…」似たような言葉は大都市に生まれ暮らす人も訴えるけれど、それはただのないものねだり。
ないものを欲しがる人の気持ちと、あるものが失われていく悲しさは、表現は似ていてもその実は大きく異なる。

悲しみは喜びよりも深く、強く、心に刻まれる。失うものが豊かで、美しく、そしてもう帰らないものだと知るほどに残る傷跡は、辛い。失恋ソングは巷に溢れているけれど、恋愛成就はあまり歌われない。恋と自然の源流は似ていて、安心感や豊かさを与えてくれるけれど、大切さは失うときまで気がつかなかったりする。沖縄の人々は失われゆくものの大切さを敏感に感じ、そうはさせまいと、行動する。唄う。


これ以上はないという、最上の自然を沖縄・西表島で見た。
ツアーには参加せず、島の人が勧めてくれた海に潜り、トレッキングを歩き、昼と夜の空を眺めた。海も、空も、山も、今まで僕が出会った自然の中でも最も雄大な姿を見せてくれたように思う。







宿で出会った素敵な人達に誘われて、滞在を延ばし、浜辺での音楽祭に参加した。
野外に組まれたステージからの音楽は、ときに愉快で、ときに悲しい。



「子供達に残そう、豊かな自然を」
決して優れた音響セット組まれているわけではなかった。
それなのに、言葉と音楽は、三線の調べにのり、強く響きわたる。
海と、山と、空に囲まれたステージ。自然が音を運んでいた。





8/31/2014

自衛隊が守る"国民"と"沖縄の人”について

先週末、金曜日の夜10:00のこと。
研究室で後輩との勉強会を終え、暑中見舞いで届いたビールを飲んでいた(そんな、いつも飲んでいるわけではありません)ときのこと。携帯電話が鳴った。
「明日の早朝、富士山の麓に自衛隊の総合火力演習見に行くんだけど、一緒に行かない?かなり貴重なチケットを、親父からもらったんだよね。」
地元の友達からの誘いだった。 特に予定もなかった僕は、どのような催しかを確認することなく、ふたつ返事で「行く!」と伝えた。


翌朝、4時。友達の車に揺られながら、総合火力演習がどのようなものかを友達から聞き、インターネットで調べてみた。年に一度、陸上自衛隊が開催する催しで、実弾を用いた国内最大の火力演習であるという。(⇒陸上自衛隊:富士総合火力演習 - 防衛省
一般に開放されるのだが、その入場チケットの倍率は24倍。友達が手に入れたチケットは、土曜日に行われる関係者向けの演習であるらしく、会場には自衛隊学校の生徒が半数を占めていた。




これが、本当に、物凄かった。実弾を撃つ戦車が目の前数百メートルの場所で演習を行う。砲弾を撃つときには、思わず見が縮むほどの爆音と衝撃波を全身に感じる。テレビでしか見たことがなかった「武力」が、目の前にあった。演習の後半(専門用語なのか、後段と呼ばれる)では、戦闘様相を展示し、「島しょ部に対する攻撃の対応」という名目でヘリからの攻撃や戦車が一斉に展開する様子が披露された。



僕は、圧倒され、様々な現実を目の当たりにした。
まず、日本がこんな「武力」を持っていたという実感。自衛隊で働く人々は、万が一の事態や戦闘を想定して訓練し、それに必要な武力を備えている。パンフレットにも、自衛隊の活動意義にも、「国民の生命と財産を守るため」、日々訓練を重ねているとある。これ事態は僕はとても大切なことであり、正しいことであると僕は思う。

しかし、ここで自衛隊や各国の軍隊が守る「国民」というものに、僕は違和感を感じたりもする。一体、「国民」とは誰なのか。自衛隊がその存在の拠り所とする国民というものは、高度に抽象化された国民であって、僕や、あなたや、例えば沖縄の人々という具体的な国民ではないじゃないか…という違和感。それを、後に引用する司馬遼太郎の本を読んで気がついた。平均的な人間というものが存在しないように、人を具体的に、個人的に見るとみなそれぞれ特徴があり、優れたところと劣ったところがあり、それぞれの人格や主張を為す。平均な人や意見というものはありえない。

でも、たくさんの人が共同で生活をする際には、皆がなんとなく納得する統計的に平均された「人間」、抽象的な国民をペルソナとして考え、それらを守るための理論で物事がすすめられる。決められる。多数決の原理。民主主義が抱える「数派の専制」という問題が発生しうる。

今、僕は沖縄にいて、そして沖縄の問題を考えるときに直面するのは、この"国民のため"という抽象化された必要に対して、沖縄という具体的な人々が犠牲になってしまっている矛盾である。日本の米軍使用基地の74%が沖縄に集中している。人口1500人の与那国島には新たに300人規模の自衛隊基地が設置される。基地移設問題で、辺野古の海が埋め立てられる…。これらはすべて、沖縄の人々のためというよりかは、”国民のため”の処置である。

さらに、矛盾を強調させてしまうのが、沖縄と日本の関係性。歴史を紐解けば、沖縄が”日本”になったのはとても新しい出来事であり、だからこそいまだに土地の人が使う言葉の中には内地という本土の表し方が残っていたりする。そして、第二次世界大戦末期の沖縄戦において、"国民" のために"沖縄の人"が実際に25万人も犠牲になった。日本で唯一、"日本からの独立論"がずーっと存在する土地。存在してしまう土地。それが、沖縄なのである。



いろいろ書いたけれど、この問題を土地の人と話してみても、「難しい問題」という言葉で締めくくられる。どれだけ掘り下げても、明確な答えがない。けれど、自分自身が生まれ住む土地にある問題を、一国民として僕は感じ、考え、自分なりの答えを見つけてみたいと思う。
司馬遼太郎の「 街道をゆく 6 沖縄・先島への道 」の中の印象的だった言葉を引いて終える。
軍隊が守ろうとするのは抽象的な国家もしくはキリスト教のためといったより崇高なものであって、具体的な国民ではない。たとえ国民のためという名目を使用してもそれは抽象化された国民で、崇高目的が抽象的でなければ軍隊は成立しないのではないか。

8/27/2014

"検索ワードを探す旅"

沖縄、石垣島へ来ています。
来週から始まる那覇でのフィールドワークを前に、沖縄をもっと知ってみたいと思い、一人旅をすることに。那覇には数度訪れたことがあるので、今回は八重島諸島をめぐるつもり。でも、予定はほとんどなし。街に出て、いつもより少しだけソーシャルに人と接して、そこで得た新たな発見を次の旅の目的にしていく。


バイクを借りて、石垣島を一周した。
途中スコールに見舞われたりもしたけれど、青空、白い雲が眼前に広がる。天気に恵まれている。周囲130kmほどの石垣島は、さくさくと走れば3時間もあれば一周できてしまう。でも、気になった路地を曲がり、さとうきび畑を駆け巡り、出会った人とつかの間の会話を楽しんだりしていたら、結局10時間以上、石垣の風景を楽しみながらのドライブをすることになった。



さとうきび畑と水田が連なる道の行き止まりで、作業をしているおじいに出会った。
なにしてるんですか?と尋ねると、
「田んぼの雑草取ってんだよー、どっから来た?」
東京から来たと伝えると、
「あー東京からかぁ。内地も暑いのか?」
と、フレンドリーに色々と話しをする。石垣で育てている稲の種類は全てひとめぼれ。また、ほとんどの農家さんが二毛作、ときには三毛作をするとのこと。温暖に気候で年中育てられることに加え、毎年襲い掛かってくる台風への備えもあるという。一度稲がやられてしまっても、次の稲を育てられるように、常に備えをしているのだと。





のどが渇き、八重山ヤシが群生する地域の近くでサトウキビジュースを飲んだ。ほんのりと甘い。しぼってくれたおっちゃんが教えてくれた。
「さとうきびの旬は冬だから、この時期のは美味しくないぞ。冬のさとうきびからは黒糖なんかがとれるし、もっとジューシーだ。」
さとうきびの旬が冬だなんて、知らなかった。美味しくないのに絞ってくれて、売ってくれて、教えてくれたおっちゃんの心が優しかった。そして、触らせてもらったサトウキビの硬さ。あれだけたくさんのジュースを絞りだす機械からは、「バキバキバキ」と轟音が鳴り響く。僕の背丈よりも高いさとうきび畑は、ちょっとやそっとの風雨には負けない群れをなす



夜、観光客があまり入らなさそうなローカル居酒屋へ入った。
カウンターに座り、オリオンビールを飲みながら、メニューを見ると、見慣れぬ料理がたくさんある。牛中味煮込み、ひらやーちー…強面な店主に尋ねると、ぼそぼそっとした声で、でもフレンドリーにいろいろと教えてくれた。
「中味(なかみ)は、牛の中身のこと。内地でいうところのホルモンだね。ひらやーちーは平焼き。からくないチヂミみたいなもんで、小麦粉とネギを焼いた家庭料理。台風が来て、外に出られないときでも、小麦粉と庭先にはえてるネギがあればつくれるから夏によく食べてたよ」
飲み物を泡盛にかえながら、ひらやーちーを食べつつ色々と店主から話しを聞く。
ちゃんぷるーなんかでそーめんが使われるのも、台風で食材がなくても薬味があれば簡単に食せるソーメンを常に家に常備しているから。内地では暑い夏に清涼感が欲しくて食べるけれど、沖縄では年中食べるとのこと。




沖縄料理も文化も、東京にいても頻度よく見かけるようになった。
それでも、僕らが知っている沖縄は、とても表層的なものであることをこの数日で身を持って体験した。沖縄は台風の常襲地帯。台風銀座と呼ばれるほどで、毎年甚大な被害が農作物を襲う。それらに適応すべく様々な文化が根付く。水稲の二毛作、太く硬く強いサトウキビ、小麦粉でつくられた料理…

また、沖縄の人が「内地」という言葉をたくさん使うことも、なんとなく知っていたけれど、直に耳に入り強烈に印象に残った。
「内地」という言葉は、北海道、沖縄などの離島に住む人が本州を指すときに使う言葉であるけれど、そこには江戸時代からはじまった統治・植民の歴史が見え隠れする。アイヌの人々が住む蝦夷を、中国の文化が強く残る琉球王国を、ときの幕府や政府が統治した。そこから発生したウチとソトの意識は、国の制度上は存在しない。国が国として機能するよりどころとする法律の用語のなかにも、見出すことはできない。それでも、脈々と受け継がれている「内地」という呼び方には、どこか沖縄の人々が自らの存在と日本政府を切り離して考えることを推奨しているような、そんな言葉の力を感じた。




旅の最中に呼んだ、「弱いつながり 検索ワードを探すたび」で、著者の東浩紀さんは、ネットを駆使する現代の人々に旅・旅行に出ることを強く勧める。ネットやSNSというものは既存のつながりをより強固にしたり知識を深めたりするメディアであることを説明し、自分の知識を超える新たな発見をもたらすノイズは手に入りづらいことを指摘する。今まで、Googleの検索窓に打ち込んだことがないワードと巡りあい、それらを調べることにこそネットを使えと言う。
「ひらやーちー」「内地 外地」「石垣島 二毛作」「沖縄 ソーメン なぜ」
そんな、沖縄・石垣を訪れなければ一生調べなかったような言葉が僕の検索履歴には残っている。新たな発見を楽しんでいる。

自分探しの旅でもなく、友との進行を深める旅行でもない、”検索ワードを探す旅”。
自らの人生に恣意的にノイズを加える作業をすることは、きっと人を豊かにする。

7/28/2014

台湾所感

初めて台湾を訪れた。
今回はバケーションとしての訪問であったので、あまり歴史的な場所を訪れることはなく、のんびりと街歩きをしたり、友人に会ったり、美味しいものを食べたり。
そんな旅のなかからも、感じたこと、見つけたこと、考えたことはたくさんある。
そんな所感の備忘録。


台湾は、僕が思っている以上に親日であった。
それは、おそらく、世界で最も親日な社会と言っても過言ではないように感じる。

台湾には、日本が占領(統治)していた時代があった。日清戦争後に台湾が日本に割譲された1985年から、第二次世界大戦が終わり中華民国に編入された1945年まで。
その時代には皇民化運動があり、台湾の人々は母国語を話すことが禁止され、日本語教育を受けさせられたり、様々な物資が接収された。当然、その当時を行きた人の中には日本軍や日本人に対して憎しみや怒りといった感情を持つ人が多数いてもおかしくはない。けれど、台湾はその後の中国本土からやってきた中国国民党の統治の杜撰さから、日本統治時代のほうがまだ良かった、むしろ教育やインフラを整えてくれて助かったと、相対的に日本の印象が良くなったという背景があるという。
「狗走豬擱來」、煩い犬(=日本)が去って、役立たずの豚(=国共内戦に敗れ遷台した中国国民党)が来た、そんな意味の言葉があったという。


日本統治時代の功罪については様々な意見があり、網羅するのが難しい。
話題を僕の台湾所感に戻す。

街の中心部には、日本由来の大型デパートが立ち並ぶ。SOGO、三越、阪急。
入っているお店も、店舗のレイアウトも、サービスも、ほとんど日本のお店とかわらない。そこで買い物をする人々のファッションも、仕草も、立ち居振る舞いなども、日本と同じものを強く感じた。
滞在中のお気に入りになった施設「誠品生活」
センスのいい雑貨やオーガニック食品が並ぶ
駅や町中にいる人々は、例えば中国五輪前に特に報道されたようなマナーの悪さなどは欠片もなく、ラッシュ時にもしっかりと整列して並ぶ。台湾のメトロMRTの中は飲食禁止。ガムですら食べてはいけない。当然ホームに自動販売機やキオスクなども設置されておらず、ゴミ箱も設置されていない。シミひとつない、綺麗なホームや社内は、日本以上だった。
入り口の近くに設置された「博愛座」(優先席)。
日本のそれよりも、しっかりとお年寄りに優先されていたと思う。
MRTの「博愛座」
名前が素敵だと思う
MRTの駅構内・社内で飲食をすると、
罰金(約2万5千円)を課せられる
 もちろん、日本と同等か或いはそれ以上のクリーンな生活環境に加えて、僕がイメージしていたような台湾の乱雑さや混沌さが残る場所もある。夜市や食品を販売するお店などの衛生状況は、「こんな蒸し暑いのに、外に出しておいて大丈夫?」と気にかかるようなことも多かった。
また、街中のいたるところで工事がされているけれど、昔ながらの道や建物は驚くほど古く、いまにも崩れ落ちそうな廃墟などが日本よりは多く見つかる。
古い町並みが残る迪化街(ディーファージエ)
有名な台湾の夜市には、屋台からの
独特な香りと熱気が溢れている
親日であることは、街のいたるところから感じられた。
日本人であることを伝えると、笑顔でもてなしてくれるお店の人々。片言の日本語で接客してくれる人も多く、そこにはお金目当ての作り笑いは全く感じられず、友好の気持ちが溢れ出ていた。
また、街のいたるところで日本語表記が見られる。例えば、Tokyo Disney Resortの広告をMRTの車内で見かけたのだけれど、そこには「夢の国へようそこ」といった文言がそのまま日本語で書かれている。思うに、日本人がフランス語や英語で表記されているものに無条件で憧れを抱くのと同様に、台湾の人々は日本のモノや文化に憧れを抱いているのだと思う。
前述した日本統治時代の歴史的な建造物の説明にも、「侵略」や「植民」といった言葉は(僕の訪れた場所では)見つからず、「治」という言葉が使われていた。そんな小さなところでも日本に対する意識が伺える。
Japanese colonial periodは「日治時期」と書かれていた

僕が今回得られた台湾の印象はとても好感的なものであったけれど、それはもちろん表層的な部分でしか過ぎない。もっと深いところでは本土中国と日本との関係で揺れている気持ちもあるのであろうし、反日感情を強く抱く人もいるのであろう。
しかし、こんなにも日本に親しみをもち、受け入れてくれる社会は、他にはない。お返しではないけれど、僕達日本の人々も、台湾の置かれている立場をもっと理解し、また彼らの言葉にも耳を傾けるべきだと思う。

昨年の留学中、研究室で最も仲良くなった台湾出身の友達と2週間のメキシコ旅行へ出かけた。その中で様々なことを語り合ったが、日本に好意を抱いていると断りを入れた上で、「日本の人も、ドイツのように、もっと歴史を学び、引き起こした悲劇に関して責任を感じるべきだと思う」と意見を述べてくれた。
同じ留学グループで台湾出身の友達は、僕が熱く日本について語っているときに、度々「それって思い込みじゃない?違うんじゃない?」と冷静な意見を投げ入れてくれた。

日中関係の悪化が叫ばれて久しい。
僕は、生まれ育った国のことを愛する気持ちは大切であると思うけれど、その愛する気持ちは気づけば危険なナショナリズムへと傾倒する。相手の気持ちを考えられない状態になっていることを自覚することは、自力では難しい。
そんなときに、日本のことをしっかりと思ってくれ、客観的に判断することのできる台湾の友人の意見などをしっかりと聞くべきだろう。親しい友人が語ってくれる言葉の中にこそ、本人は気がつかない真理が含まれていることが、多くある。

赤い提灯が魅力的に映え、大陸中国と日本、その他様々な国の文化を有機的に交えがら成長してきた台湾。また、ゆっくりと訪れたいと思う。



7/19/2014

もっと、手をつなごう。

ドイツから友人・Timoが訪ねてきた。
留学先で知り合った彼には感謝してもしきれないほどの恩がある。というのも、彼がほぼ毎週ビールを飲みに行こうと声をかけてくれ、たくさんの友達と引きあわせてくれ、会話する時間をつくってくれたから。
英語力が伸びたことはもちろん、お互いの国の文化、世界のこと、エンジニアとしてのキャリア、恋愛…たくさんのことを語り合った親友であった。




そんな彼が、初めてのアジアである日本を訪れ、街をぶらぶら歩きながら、ふと、言ったこと。
「日本人は、手をつながないね」
「ドイツ人はもっと手をつないでる?」
「ドイツ人だけじゃなくて、ヨーロッパの人は若いカップルも、おじいちゃんおばあちゃんも、もっと自然に手をつないでると思う」
日本人は、手をつながない。
それは、僕が異国を訪れるたびに得られるたくさんの気づきのひとつでもある。


異国の街を歩いていると、ひとりである寂しさがが余計にそうさせるのか、家族やカップルの姿が普段以上に目に入ってくる。そして、彼らはたいてい肩を寄せあわせていたり、手を組み合わせていたりすることが多い。
その姿は、とても、自然。
息を吸うように、会話を交わすように、とてもとても気軽に手をつないでいる。僕にはいつもそう見える。


いまでも心に残っている光景がある。
3年前の夏、パリのルクセンブルグ公園。白髪の、いまにも倒れてしまいそうなおじいちゃんおばあちゃんが、のんびりと手をつなぎながら散歩している姿。何気ない、どこにでも見られそうなワンシーンだったのだけれど、僕の心の深いところに響いた。
一人旅も2ヶ月を迎えるころで、たくさんの出会いを楽しみながらも、出会いとは不思議なもので、すぐに別れがくるんだ…悲しいなって、人との付き合いの有限性というか、儚さを感じていたまさにそのときであったから。人は結局は1人であるということを漠然と考えていた。
そんな矢先に出会ったおじいちゃん、おばあちゃん。出会った時のように、しっかりと手をつなぎ合っている様子から、恋って愛って素敵で強いなって心あらわれる気持ちになった。


手をつなぐことなく結ばれたカップルは、きっといない。でも、日本人のカップルはだんだんとみんな手をつながなくなっていく。キスもしない。ハグもしない。
新渡戸稲造はその著書『武士道』の中で、
「外では妻や子には厳しく接するが、家の中ではいたわるのが日本流、外ではラブラブぶりを見せていても、見えないところで妻を殴ったりするのがアメリカ流」
と、日米における妻や子に対する態度の比較を、ウィットに富んだ言葉で紹介している。我が妻のことを「愚妻」、我が子を「愚息」なんて呼ぶ武士的価値観の一環で、身内を褒めること=自らを褒め称えることを「美」としない日本古来からある価値観である。


日本人は、手をつながない。
美しくないから。恥ずかしき行為であるから。きっと、いまでもそんな価値観が残っているのだろう。
でも、手をつなぐ行為は、本当に今でも「美しくない」ものなのだろうか。
僕は古典的な考え方や美意識に憧れを抱いているし大切にしている。けれど、それら全てを良しとは思わない。時代の変化に合わせて、過去の価値観を守り続けるだけでなく、その価値観を変化させていく必要があると思う。


「愚妻」とか、「いや、自分の彼女は人に見せられるような人じゃないんで…」なんて謙遜使うの、やめません?
もちろん今でも謙遜であることは伝わるから本気で言っているのではないことはわかるけれど、やっぱりそんな汚い言葉を好きな人・愛する人に対して使うのは、今の時代では逆に無粋。もっと、身内を大切にしましょう。人の目線とかうんぬんとか言うけれど、今の世の中、思っているほど周りの人はあなたを見てはいないのだから。


その最初の一歩として、もっと、手をつなごう。
付き合い始めだけではなくて、これからも、ずっと。
大人も子供も自由に手をつなぎあえる「美しさ」が、共有されたらいいな、日本にも。


6/23/2014

沖縄「空はつながっている」



沖縄戦の事実上の終結から69年を迎えた。
毎年6月23日に行われる沖縄全戦没者追悼式では、例年、小学生が書く「平和の詩」が朗読される。
昨年の詩「へいわってすてきだね」がなんだか強く心に残っていて、新聞を切り取り保存していた。今でもたまに読み返す。ブログでも紹介した。
今年のそれは、「空はつながっている」であった。


沖縄は今年で返還42年になった。しかし、この「返還」や「復帰」という言葉が間違っていると思い生きる人がいることを知った。
明治時代初期、日本政府の廃藩置県政策の一環により「琉球王国」から「沖縄県」へと処分された。1872年〜1879年にかけての琉球処分である。
清国との国交は断絶され、日本政府は臣民化・同化政策を推し進め琉球語を弾圧した。


日清戦争(1894)、日露戦争(1894)、第一次世界大戦(1914-1918)と続く戦争の時代、日本政府は欧米列強に負けない一等国となるべく、内政ではなく外政に注力し続けた。その過程で琉球・沖縄の声は無視され弾圧され続けていた。
そして、第二次世界大戦末期、日米両政府は、沖縄に多量の兵士・武器を投入し太平洋戦争の最激戦地とした。地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、この戦闘は「鉄の雨」や「鉄の暴風(Typhoon of Steel)」などと呼ばれた。


戦争が終わり、基地が整備され、1982年に沖縄は日本政府に返還された。
たくさんの負の歴史を背負ったまま。僕達本土に住む人の多くは、その中でも米軍基地だけをとりあげているが、もっともっと深いところまで理解を深めるべきだと思う。


現在でも沖縄は言葉も独自のものを持ち、文化も独自のものを持っている異国という側面を持っている。日本本土の文化圏とはかなりのちがいがある。日本政府、米軍、またその前の薩摩藩と清国などから様々な文化が持ち込まれ、また主体的に取り入れていく中で、かなり同化は進んではいるが、それでも様々な文化の交流の地としての沖縄の独自の文化というものがある。


9月にフィールドワークで沖縄へ行く。
嘉数高台 南風原陸軍病院、轟の壕、ひめゆり資料館、魂魄の塔、摩文仁の丘といった戦跡を訪れる。嘉手納基地 普天間基も訪れる。
1周間から10日間、可能であればもっとゆっくりと滞在して、日本社会の根源的な矛盾の現場へ足を運び、当事者の声に耳を傾け、忘れ去られていくものを見つめてみたい。
無関心から先ずは自らが脱却する。
そしてルポ、ブログ、写真、ドキュメンタリー…何らかの形で見つけたこと・考えたことを発信し伝えてみたい。

すべての国よ上辺だけの付き合いやめて
忘れるな琉球の心 武力使わず 自然を愛する
自分を捨てて誰かのため何かができる
―MONGOL800「琉球愛歌」



『空はつながっている』

真喜良小学校三年 増田 健琉



ぼくのお気に入りの場所

みどり色のしばふに

ごろんとねころぶと

そよそよとふく風がぼくをやさしくなでる

遠くでひびくアカショウビンの鳴き声

目の前ではお母さんやぎがやさしい目で

子やぎたちを見まもっている

青あおと広がるやさしい空

 

でも

遠くの空の下では

今でもせんそうをしている国があるんだって

ばくだんが次つぎとおとされ

なきさけびにげまわる人たち

学校にも行けない

友だちにも会えない

家族もばらばら

はい色のかなしい空

 

空はつながっているのに

どうしてかな

どこまでが平和で

どこからがせんそうなんだろう

どうしたら

せんそうのない

どこまでも続く青い空になれるのかな



せんそうは国と国のけんか

ぼくがお兄ちゃんと仲良くして

友だちみんなともきょう力して

お父さんとお母さんの言う事をきいて

先生の教えをしっかりまもる

そうしたら

せんそうがなくなるのかな

えがおとえがおが

遠くの空までつながるのかな

やさしい気もちが

平和の心が

丸い地球を

ぐるっと一周できるかな



まだ子どものぼく

いのる事しかできない

どうか

せかい中の子どもたちみんなが

学校に行けますように

友だちとあそべますように

にこにこわらって

家族でごはんが食べれますように

夜になったら

すてきなゆめが見れますように

しあわせでありますように

いつか友だちになれますように



白い雲

ぼくの平和のねがいをのせて

この地球をぐるっとまわって

青い空にそめてきて



きっと

せかいは手をつなぎ合える

青い空の下で話し合える

えがおとえがおでわかり合える

思いやりの心でつうじ合える

分け合う心でいたわり合える

平和をねがう心で地球はうるおえる



だから

ここに

こんなにきれいな花がさくんだ

だから

こんなに

ぼくの上に

青い空が広がっているんだ