8/31/2014

自衛隊が守る"国民"と"沖縄の人”について

先週末、金曜日の夜10:00のこと。
研究室で後輩との勉強会を終え、暑中見舞いで届いたビールを飲んでいた(そんな、いつも飲んでいるわけではありません)ときのこと。携帯電話が鳴った。
「明日の早朝、富士山の麓に自衛隊の総合火力演習見に行くんだけど、一緒に行かない?かなり貴重なチケットを、親父からもらったんだよね。」
地元の友達からの誘いだった。 特に予定もなかった僕は、どのような催しかを確認することなく、ふたつ返事で「行く!」と伝えた。


翌朝、4時。友達の車に揺られながら、総合火力演習がどのようなものかを友達から聞き、インターネットで調べてみた。年に一度、陸上自衛隊が開催する催しで、実弾を用いた国内最大の火力演習であるという。(⇒陸上自衛隊:富士総合火力演習 - 防衛省
一般に開放されるのだが、その入場チケットの倍率は24倍。友達が手に入れたチケットは、土曜日に行われる関係者向けの演習であるらしく、会場には自衛隊学校の生徒が半数を占めていた。




これが、本当に、物凄かった。実弾を撃つ戦車が目の前数百メートルの場所で演習を行う。砲弾を撃つときには、思わず見が縮むほどの爆音と衝撃波を全身に感じる。テレビでしか見たことがなかった「武力」が、目の前にあった。演習の後半(専門用語なのか、後段と呼ばれる)では、戦闘様相を展示し、「島しょ部に対する攻撃の対応」という名目でヘリからの攻撃や戦車が一斉に展開する様子が披露された。



僕は、圧倒され、様々な現実を目の当たりにした。
まず、日本がこんな「武力」を持っていたという実感。自衛隊で働く人々は、万が一の事態や戦闘を想定して訓練し、それに必要な武力を備えている。パンフレットにも、自衛隊の活動意義にも、「国民の生命と財産を守るため」、日々訓練を重ねているとある。これ事態は僕はとても大切なことであり、正しいことであると僕は思う。

しかし、ここで自衛隊や各国の軍隊が守る「国民」というものに、僕は違和感を感じたりもする。一体、「国民」とは誰なのか。自衛隊がその存在の拠り所とする国民というものは、高度に抽象化された国民であって、僕や、あなたや、例えば沖縄の人々という具体的な国民ではないじゃないか…という違和感。それを、後に引用する司馬遼太郎の本を読んで気がついた。平均的な人間というものが存在しないように、人を具体的に、個人的に見るとみなそれぞれ特徴があり、優れたところと劣ったところがあり、それぞれの人格や主張を為す。平均な人や意見というものはありえない。

でも、たくさんの人が共同で生活をする際には、皆がなんとなく納得する統計的に平均された「人間」、抽象的な国民をペルソナとして考え、それらを守るための理論で物事がすすめられる。決められる。多数決の原理。民主主義が抱える「数派の専制」という問題が発生しうる。

今、僕は沖縄にいて、そして沖縄の問題を考えるときに直面するのは、この"国民のため"という抽象化された必要に対して、沖縄という具体的な人々が犠牲になってしまっている矛盾である。日本の米軍使用基地の74%が沖縄に集中している。人口1500人の与那国島には新たに300人規模の自衛隊基地が設置される。基地移設問題で、辺野古の海が埋め立てられる…。これらはすべて、沖縄の人々のためというよりかは、”国民のため”の処置である。

さらに、矛盾を強調させてしまうのが、沖縄と日本の関係性。歴史を紐解けば、沖縄が”日本”になったのはとても新しい出来事であり、だからこそいまだに土地の人が使う言葉の中には内地という本土の表し方が残っていたりする。そして、第二次世界大戦末期の沖縄戦において、"国民" のために"沖縄の人"が実際に25万人も犠牲になった。日本で唯一、"日本からの独立論"がずーっと存在する土地。存在してしまう土地。それが、沖縄なのである。



いろいろ書いたけれど、この問題を土地の人と話してみても、「難しい問題」という言葉で締めくくられる。どれだけ掘り下げても、明確な答えがない。けれど、自分自身が生まれ住む土地にある問題を、一国民として僕は感じ、考え、自分なりの答えを見つけてみたいと思う。
司馬遼太郎の「 街道をゆく 6 沖縄・先島への道 」の中の印象的だった言葉を引いて終える。
軍隊が守ろうとするのは抽象的な国家もしくはキリスト教のためといったより崇高なものであって、具体的な国民ではない。たとえ国民のためという名目を使用してもそれは抽象化された国民で、崇高目的が抽象的でなければ軍隊は成立しないのではないか。

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