美術館や博物館の展示品、歴史ある建物、ランドマークなどの「モノ」のなかにではない。時間の流れ方、笑顔の作り方、自然との接し方、そして人々の心の中にある寂しさ…そんな写真では切り取れない場所にこそ本物の文化はある。沖縄で体験したことを中心に、文化について感じ考えたことを書こうと思う。
沖縄・石垣島を訪れた初日、その夜に僕はこんなことを思った。
「ほとんど見るもの全て見てしまったな…残りの日数どうしよう」僕は無意識に、沖縄で「見るモノ」を探していた。それは沖縄の前に訪ねていたイタリアでの経験を引きずっていたのかもしれない。町の至るところにある美術館に集められた数々の名画、宝物。何百年も堅牢に立ち続ける協会、家々。綺麗にアーカイブされ、初めての訪問者にもわかりやすい視覚的に理解できる文化。たくさんの写真を撮って、それが文化を経験した「証」として残っていった。
そんな文化の「証」が、沖縄の島々では見つからなかったのだ。あるものは、海、空、山、さとうきび畑に、来襲する台風に耐え続けてきた味気ないコンクリートの家々…。どこにでもありそうな絵が多かったのだ。
見るものがないな…と思った翌日から、僕はたくさんの新たな文化に出会った。それは写真に収められるものではない、人々との接点から見いだすことができた文化。台風などの自然災害と共に生きてきた人が語る「自然には敵わない」という言葉、観光で訪れただけの見知らぬ人である僕に対する島の人々の優しさ、世俗的ではないお金や地位なんかをまったく気にかけない雰囲気、前のブログ(⇒失われるものを唄うこと)で書いた最上級の自然そのもの…そういった日常生活の近辺にあるものだった。
優しさ、時間の流れ方、自然の雄大さと残酷さは、写真には収められない。モノとして触ったりすることもできない。無形の文化。文化とは本来、権力者が一箇所にまとめて愛でたりすることができるものではない。「物」とか「ある」という前提にたって文化を論じてしまうと、沖縄の文化、ひいては日本の文化を理解することはできないように感じる。
琉球朝日放送の記者の方とお会いして、お酒を飲みながら沖縄で体験した面白いエピソードを伺った。(その方は沖縄出身ではなく、千葉県出身)
会社の近くの定食屋を連日訪問して、同じメニューを食していたら、前の日と味が違うことに気がついた。「昨日とは少し味が違うように思うんですが…」そう店主に尋ねたら、こう怒鳴られたという。
「当たり前だろ!!俺は人間なんだ、毎日おんなじ味に料理が作れるかぁ!!」八重山日報というローカル紙でインターンをしていたときに、朝刊の配達時刻が(2010年当時は。今はわからないとのこと)9時ぐらいで、「配達時間、遅すぎませんか?」と上司に尋ねたときに、言われた言葉。
「どこの誰が朝早くから新聞の細かい字なんて読みたがるんだ。昼すぎののんびりした時間に読むもんだ、離島の新聞は。」
この2つのエピソードからもわかる。「ヒト」主体で沖縄の文化が動いているということ。東京に住み暮らし、知らず知らずの間に西欧的な物質主義であったり、多様な人々の中でひどく簡単に価値を見いだせる「カネ」に重きを置く生き方をしてしまっていたことに、ふと気がついた。場所、モノ、カネ…それらは全て泉から湧き出る水のような栄枯盛衰する表層的なものであり、その源泉となりうるものは「自然」とその中で暮らす「ヒト」でしかない。あまりに日本的かもしれないけれど、文化とは、建設的に積み重ねられていくものではなく、輪廻のごとく移り変わり、惑い、時に滅びて忘れ去られていくまさにその様子であるのかもしれない。
時間、唄、空気、ヒトの生き方…
沖縄。築いては滅びていくことが当然となり、あまりに人間的・自然的な無形の文化が残る場所。また、ただ感じるままに訪れたい。そんな場所、旅だった。
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