留学先で知り合った彼には感謝してもしきれないほどの恩がある。というのも、彼がほぼ毎週ビールを飲みに行こうと声をかけてくれ、たくさんの友達と引きあわせてくれ、会話する時間をつくってくれたから。
英語力が伸びたことはもちろん、お互いの国の文化、世界のこと、エンジニアとしてのキャリア、恋愛…たくさんのことを語り合った親友であった。
そんな彼が、初めてのアジアである日本を訪れ、街をぶらぶら歩きながら、ふと、言ったこと。
「日本人は、手をつながないね」日本人は、手をつながない。
「ドイツ人はもっと手をつないでる?」
「ドイツ人だけじゃなくて、ヨーロッパの人は若いカップルも、おじいちゃんおばあちゃんも、もっと自然に手をつないでると思う」
それは、僕が異国を訪れるたびに得られるたくさんの気づきのひとつでもある。
異国の街を歩いていると、ひとりである寂しさがが余計にそうさせるのか、家族やカップルの姿が普段以上に目に入ってくる。そして、彼らはたいてい肩を寄せあわせていたり、手を組み合わせていたりすることが多い。
その姿は、とても、自然。
息を吸うように、会話を交わすように、とてもとても気軽に手をつないでいる。僕にはいつもそう見える。
いまでも心に残っている光景がある。
3年前の夏、パリのルクセンブルグ公園。白髪の、いまにも倒れてしまいそうなおじいちゃんおばあちゃんが、のんびりと手をつなぎながら散歩している姿。何気ない、どこにでも見られそうなワンシーンだったのだけれど、僕の心の深いところに響いた。
一人旅も2ヶ月を迎えるころで、たくさんの出会いを楽しみながらも、出会いとは不思議なもので、すぐに別れがくるんだ…悲しいなって、人との付き合いの有限性というか、儚さを感じていたまさにそのときであったから。人は結局は1人であるということを漠然と考えていた。
そんな矢先に出会ったおじいちゃん、おばあちゃん。出会った時のように、しっかりと手をつなぎ合っている様子から、恋って愛って素敵で強いなって心あらわれる気持ちになった。
手をつなぐことなく結ばれたカップルは、きっといない。でも、日本人のカップルはだんだんとみんな手をつながなくなっていく。キスもしない。ハグもしない。
新渡戸稲造はその著書『武士道』の中で、
「外では妻や子には厳しく接するが、家の中ではいたわるのが日本流、外ではラブラブぶりを見せていても、見えないところで妻を殴ったりするのがアメリカ流」と、日米における妻や子に対する態度の比較を、ウィットに富んだ言葉で紹介している。我が妻のことを「愚妻」、我が子を「愚息」なんて呼ぶ武士的価値観の一環で、身内を褒めること=自らを褒め称えることを「美」としない日本古来からある価値観である。
日本人は、手をつながない。
美しくないから。恥ずかしき行為であるから。きっと、いまでもそんな価値観が残っているのだろう。
でも、手をつなぐ行為は、本当に今でも「美しくない」ものなのだろうか。
僕は古典的な考え方や美意識に憧れを抱いているし大切にしている。けれど、それら全てを良しとは思わない。時代の変化に合わせて、過去の価値観を守り続けるだけでなく、その価値観を変化させていく必要があると思う。
「愚妻」とか、「いや、自分の彼女は人に見せられるような人じゃないんで…」なんて謙遜使うの、やめません?
もちろん今でも謙遜であることは伝わるから本気で言っているのではないことはわかるけれど、やっぱりそんな汚い言葉を好きな人・愛する人に対して使うのは、今の時代では逆に無粋。もっと、身内を大切にしましょう。人の目線とかうんぬんとか言うけれど、今の世の中、思っているほど周りの人はあなたを見てはいないのだから。
その最初の一歩として、もっと、手をつなごう。
付き合い始めだけではなくて、これからも、ずっと。
大人も子供も自由に手をつなぎあえる「美しさ」が、共有されたらいいな、日本にも。
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