2/27/2013

それでも、僕は古本屋に通い続ける。

「紙の本はなくなってしまうのではないか。」

電子書籍が普及し始めてからそんな言葉をときたま聞くことがある。紙の本は、かさ張るし、燃えたら消失してしまうし、アクセシビリティが悪い。確かに、実物の本は電子書籍と比べると非常に不便な部分が多い。
我が家にも『自炊』(この言葉を知らない人は、既に遅れている?→wikipedia-自炊(電子書籍))するための器具が導入された。電子書籍などの出版事情に明るい父が、気がついたらAmazonで購入していた。裁断機とスキャナー。週末に昔読んでた漫画なんかをせっせと電子化している。トイレの前に設置されている漫画用の本棚がだんだんと空いてきた。


電子書籍反対派の意見は、その大方がtwitter上で拡散していた次の一言に集約されるのではないだろうか。

「紙でないというその一点において、電子書籍に価値を見出せない」
そう、紙ではないというのが電子書籍の最大の弱点。なんだか矛盾であるように感じられるけれど、結局はそういうことなのだろう。
本には2つの価値がある。1つは、その本に含まれている情報としての価値。もう1つには、その本が本であるという物質としての価値。twitterのコメントが意味するところはこの後者の価値が欠けていること。電子書籍は今はまだ物質的な価値観を作り出せていないのだ。


2つの価値の前者の価値は自明だろう。今まで出会った人の中で、何も記載されていない真っ白な本を読んでいると言う想像力豊かな人に、今のところ僕は出会ったことがない。(実はそんな本も発売されていて、そういえば昔、彼女にプレゼントしようと考えたことがあった→白い本/あなた自身が創る本です。…ちなみにこのリンク先のアマゾンのページに"Kindle化リクエスト"とあるのだが、一体どこの誰が白い本を電子化したがるのだろう。)
しかし、新しい「白い本」をカバンの中に入れて電車の中で読んでいるという人を僕は見たことがないけれど、存在してもおかしくないなあ…とも思っている。読書は、ページ上に書かれていることだけが全てじゃない。本を持つこと、それ自体が誰かを豊かにするからだ。それが、本が本であるという物質としての価値。


以前読んだ内田樹の著書『街場のメディア論』の中で「書棚の意味」という言葉について氏が語っていたことには、書棚に並べられた本というのは読みたい本だけでなく自分がこれから読みたい本、あるいは「俺はこんな本を読んでる人間なんだぞ!」といったような理想我を他人に見せ示すための役割も担っているという。本が本であるという物質としての価値もこの範ちゅうだろう。僕にも読んだ本を見せびらかしたいエゴがあり、その結果はこのブログをPCブラウザで見て頂いてる方は御存知の通り、僕の仮装本棚をブログ上に表示するようにしている。
大学教授の部屋で、例えば、テレビのアナウンサーがインタビューをするときには、意図的にその背景には大量の関連図書が積まれた本棚が選ばれる。そこには、「この教授はこんなにもたくさんの本を読んで専門家なんですよ」といったような「書棚の意味」や、本が本であるという物質としての価値が発揮されている。
「教授、ではインタビューを…あれ、お読みの専門書籍はどちらでしょう?」
「あぁ、全て電子化したよ。これで研究室が広くなったし、管理が楽になった。」
「…」
インタビュアーの感じる虚しさそれこそが物質としての本の価値である。


さて、最後にもう一つ、僕の考える本の価値を追加して終えたい。
それは思いがけない出会いのもたらすドキドキ感や、山ほど積まれた本の中に身を置いた時に感じられるあの圧倒感である。僕は週に一度は必ず図書館、大型書店、古本屋に立ち寄っては本を「仕入れ」るのだけれど、その度に、「あぁ、この世にはこんなにたくさん本があるんだ…」と圧倒される。また、その中で目当ての本を探している最中に、ふと、目当ての本とは全く違ったものを手に取る。裏表紙の説明、まえがきや目次などに目を通すと、それは以前に凄く興味のある内容だったけれど忘れていたことや、ブログにもtwitterにもfacebookにもAmazonの購入履歴にも残されていないまだ言語化されていない大切な感情であったりする。それは、一目惚れや恋に落ちるときの感覚や、数度しか会ったことがないのに心通じる友人に対する思いと同じであるように感じる。そういった感情が含有している価値は、リコメンド機能や欲しい本をその場ですぐに買えるという電子書籍には付加しづらいものだろう。


電子書籍がビジネス的にもアクセシビリティにも優れていることは認める。自炊して、電子化も進めていくと思う。
それでも、僕は古本屋に通い続ける。
思いもよらない本と出会い、恋に落ちるために。


以前に書いた本に関するエントリー
「本」と、それにまつわる様々な「ストーリー」
City Lights Bookstore


2/26/2013

韓国の国花、槿から思うこと

2月26日付け朝日新聞朝刊の天声人語より一部を抜粋。
昨日就任された韓国初の女性大統領朴槿恵の名前の中にある花について。

 ひとつの花を眺める心も、国によって違う。朝に開いて夕方しおれる槿(むくげ)は、日本では儚さの象徵とされる。だが、お隣の韓国の人々は、苦難をしのいで発展していく民族や国の姿をこの花に託した。知られるように国花である。
 一輪一輪は短命でも、一つの木として見れば次々に咲いて秋まで果てることがない。だから韓国では無槿花(ムグンファ)と呼ぶ。彼の国の朴正熙(パク・チョンヒ)元大統領は、長女の名前にその「槿」を入れた。時点と首っ引きで選んだそうだ。きのう就任した朴槿恵(パク・クネ)大統領(61)である。
(中略)
 日韓関係は呪文のように「未来思考」が言われながら、思うように進まない。暖まったかと思えば、寒の戻りの冷え込みが繰り返されてきた。歴史と領土の問題で、新大統領も甘い友ではありえまい。
 槿に戻れば、韓国の人は日本の植民地支配をしのいだ歴史を、この花に重ねたとも聞く。海峡の波は高い。行き交う言葉が日韓新政権のもとで未来に向くか、どうか。よく見守りたい。

隣国・韓国の国花が槿であり、リーダーとなる朴槿恵大統領の名前の中にその花が入っていることを初めて知った。槿とはどんな花なのか。調べてみた。

槿(Hibiscus Syriacus)
wikipedeia-「槿」より。
 学名にもあるようにハイビスカス属の花のようで、なるほど大きな5片の花びらと真ん中の特徴的な花冠などの形状は南国に咲く真っ赤なハイビスカスと似ている。けれど、色合いと佇まいから感じられるものはアジアの風情。栄枯盛衰。儒教文化のおしとやかさだろうか。


日本の国花は桜と菊である。皇室の象徵としての意味合いが強い菊の花はギラつていていて、「国花である!」と自他に見せるびらかすにはなんとなく気が引けてしまう。他方の桜は、嫌いだという日本人はあまりいない。名実ともに国花としての地位を築いているようである。天気予報に桜前線なる桜の北上行進具合が日々告げられるようになる日も近い。今週末はもう、3月。


他国の国花も調べてみると、アメリカは「バラ」と「セイヨウオダマキ」、中国は「牡丹」と「梅」、フランスは「ユリ」、スペインは「カーネーション」に「ザクロ」、などなど。国花の選定方法に決まりはないため、国によってはしっかりと定まっていなかったり周知の事実や人気投票で自然発生的に決まった花もあるのだとか。それでも、なんとなく、国花からその国の人柄も想像させられる。


天声人語の書き出しにもあるように、槿の花に対する印象は日本と韓国で少し異なるようだ。同様にして日本の国花である桜の感じ方も日本人と韓国人、その他の国出身の人では異なるだろう。「桜前線」がテレビ放送されるなんておかしいだろ!と、もしかしたら他国の人には不思議がられている日本独自の文化のひとつかもしれない。先日書いた「美しさを判断の基準にする」の中にあるように、美的感覚は人や国でそれぞれ異なる。それが個性をつくる。日本の感性を韓国に押し付けず、また韓国の感性を否定せず、お互いに認め合い競い合い成長しあえる日韓関係になれればいいと願う。国同士も、僕と僕の韓国人の友人とも。


真っ赤なバラやカーネーションでも、見栄えのするユリでも牡丹でもない、ほのかな色と儚さに美と盛衰を見て取れるデリケートな感性を心の奥で日本と韓国は共有している気がする。留学中も、ヨーロッパからきた白人達のなかで目に見えない圧迫感や劣等感を感じる中、一緒にいて心通じ安心することができたのは韓国人の友達だった。そのときの感性をこれからも忘れずに過ごしていきたい。


木槿の見頃は6月から10月。今年は桜咲き誇り散った後にも気になる花の存在ができた。嬉しいことである。

2/22/2013

美しさを判断の基準にする

サッカーの元日本代表監督を勤めた岡田武史氏が、インタビューで答えていた言葉が心に残っている。
ある人がこんなことを書いていた。人間の価値判断の基準は経済状況によって変わるのだそうだ。経済が伸びているとき、人は損か得かで物事の価値を推し量る。経済が頂点に達すると、今度は好きか嫌いかで判断する。そして、経済が落ち始めると正しいか、正しくないか、で決めるという。そして、そのとき、争いが起きる。正しいか、正しくないか、という基準は人に押しつけたくなるものだ。例えば、米国にとって正しいことは、中国にとって正しいとは限らない。でも、僕はこの話を読んだとき、思った。美しいか、美しくないか。そういう価値観を持つべきじゃないかと。 
ある人が「あの人は美しいですね」と言う。言われた人は「そうですか?」と思ったりする。でも、同時に「ああ、この人はこういう人を美しいと思うのか」と納得もする。そう、美しさは主観の問題。美しさを判断基準にすれば、相手の違いを受け入れることができるのだ。私はこの美しいか、美しくないか、という価値観を大事にしている。大きな決断をする前には「自分の生き方は美しいか?」と自分に問いかけるようにしている。
2月10日付け日本経済新聞web版コラム『岡田武史の「中国細見」』より抜粋)

損か得かではなく、好き嫌いではなく、正しいか正しくないかではなく、美しさを判断の基準にしよう。そういった考え方。岡田監督は「美しさ」と一言で済ませたけれど、美しさにも色々種類があって、大分すると2つの美しさで表せると思う。
「個性の美しさ」と「当然の美しさ」だ。


「個性の美しさ」
インタビューの中で岡田監督が述べているように、美しさとは主観の問題。だから、みんな違ってみんないい。これは「個性」という言葉に置き換えられる。人とは違った考え方をしていて、それが当人にとっては当たり前であるかのような生き方をしている、内面的な美しさやユニークさ=個性なのである。
集団社会で生まれ育った僕は、主張をすることが苦手だった。前は、「気がついてるけど俺は言わないだけだよ」なんてきどったような、高みの見物をしているような、そんな心持でいたのだけれど、その実は意見を発することを怖がっていたりバカが露見するのを恐れているだけだった。稚拙でもいいから、自分が美しいと思うことを決め、それを表現することが大事なのだと最近になってやっと気がついた。そして自分自身の個性を深めるために必要な知識を蓄えようとして、必要な経験を積むように行動できるようになってきた。そんな気がする。自分自身の個性という美しさを判断基準にすることで、まだまだブレブレだけれど、徐々にその振れ幅が小さくなってきているように感じる。


「当然の美しさ」
個性だけを判断基準にしていると、ただの迷惑人間や社会不適合人間が出来上がってしまうこともある。そこで必要なのが、集団の中での美しさ。同じコミュニティの中で生まれ育ったからこそ分かち合える普遍的な美しさも存在して、それらを明確にすることも大事。

人間に生まれたから美しいと思えるもの。
和音の音色の心地よさ、笑顔を幸せだと思える感情、黄金比。
地球に生まれたから美しいと思えるもの。
月をみて物思いに耽ること、太陽光のあたたかさ、満点の星空。
日本に生まれたから美しいと思えるもの。
桜散るところの無常感、礼節わきまえるところ、四季の移ろい。

これらの圧倒的多数が美しいと思えるものもまた、自分自身がそれらから大きく道外れていたときに戻るべきだと気付かされる大切な判断基準となりうる。(もちろん、これらから離れていてもそれは個性という美しさになる。その場合、その離れたシチュエーションが当然となった姿をイメージしてみて、それが果たして本当に美しいものなのかと一考すべき。また、ルールを破ることと個性的は根本的に異なる)


この2つの美しさを判断基準にする。2つとも。
「当然の美しさ」だけに心奪われていれば、きっと「カワイイ」や「イイネ」を連呼する没個性人間になる。「いい人」として慕われて、当たり障りのない友人はたくさんできるかもしれない。ただそうなると、心底からなんでも語り合える親友や、魂がふれあう熱い絆は期待できないじゃないかと思う。
個性の美しさを追い求めるのは素晴らしいと思う。しかし時にはそれが周囲と一致しているかどうかを自ら確認する努力が必要。定められた枠の中(今はグローバルな時代、日本という枠の中でとどまる必要はない)からはみ出ていないか、他人と違うことが「カッコイイ」ことだと勘違いしていないか、と。


どんな生き方が美しいのか、美しくないと思うのかと自問自答する。そして、その答えをこれが俺の個性だぞ、と、自分自身に言い聞かせながら誰かとすり合わせてみせたりする。

写真を撮るときにピースをするのは美しくないと僕は思う。
(→なぜ、みんな、ピースをするのか。
人々がマイノリティに対して寛容な社会が美しいと僕は思う。
(→マイノリティであることはハンディなのか、ユニークなのか。
親切や感謝、挨拶といった感情が慣れ親しんだ個人だけで消費されるのは美しくないと僕は思う。
(→メルハバの数だけ心が軽くなってゆく
(→「親切量」の配分について考える

例えばそんなこと。


美しさを判断基準に。
そう考えられることが美しいと言えるような岡田監督のような人間性豊かな人になるために、しっかり学び、しっかり生きる。

2/17/2013

「思い出」がよく見える場所

東京スカイツリーへ行って来た。


350m地点の天望デッキ、さらにその上450mにある天望回廊からの眺望。好天に恵まれ本当に素晴らしかった。東京の街が見渡せ、遠くには富士山も見え、房総半島・三浦半島も見え、関東平野がすべて眼下にあるようだった。


この場所から見えるものは景色だけではない。
普段とは違った視点に立つことで、忘れていたり見えなくなっていたたくさんのものに気がつき、訪れた人々は指さしながらそれらを語り合う。
「思い出」だ。


小さい子供がお母さんに言う。
「タワー・オブ・テラーが見えるよ―!」

おばちゃんの軍団が陽気に喋る。
「箱根も見えそうねぇ。」

お父さんが子供達に話しかける。
「あれが今日乗ってきた電車だよ。」

若い夫婦が指さしながら目を凝らす。
「家はあそこら辺かな、見えるかな。」


「思い出」がよく見える場所。素敵な場所だと感じた。
鳥は、もっともっと高いところからの眺めを知っている。けれど、彼らが人間と同じ感性を持っていたとしても、高さだけから得られる感動は少ないだろう。どんなに高くて見晴らしの良い場所に昇っても、低い場所での毎日がなければそこでの感動は半減する。

東京スカイツリーでの感動 = (地上での思い出 × 高さ) ÷ 2










2/16/2013

亡くなったけど生きていた、けれど届かない僕のじいちゃんの話


「今生きている人は今まで死んだ人より多い」
こんな小説の行を読んだ記憶が在る。ふと気になってGoogleで調べてみたら、興味深いことに、計算をしてこの説が合っているというブログ記事と、さらにそのブログに対してその計算が間違っているというブログ記事を見つけた。
(→今生きている人は今まで死んだ人より多い
(→「今生きている人は今まで死んだ人より多い」は間違いである


外資系の入社試験で出されるフェルミ推定の問題のようで面白いなぁと思いながら、検算してみようかなと思ったけれど面倒なのでやめた。
この台詞を急に思い出したのには訳がある。祖父の命日が近づいて来ているから。そして、その祖父を思い出して1人泣いたから。



祖父はうるう年の去年、うるう日に亡くなった。だから厳密に言うと祖父が亡くなった日は今年はやってこない。なんて、子供だましは通用するわけもなく、命日から数えて366回目の太陽は間違いなく昇り、人間が作った年月という制度の一つの節目がやってくる。
来週末には祖父の一回忌が訪れる。


僕は祖父が大好きだった。正確には、祖父が僕のことを大好きだったのかもしれない。僕は初孫だったので、記憶にはないけれど、祖父からの愛情をたっぷりともらって育って来たのだと思う。
それでありながら、僕は祖父の臨死を経験することができなかった。昨年のこの時期、インドと香港へと旅に出ていた。聖地バラナシへ向かう途中に、母から「おじいちゃんの意識が朦朧としはじめている、竜が帰ってくるまで持たないかも」と連絡があり、「すぐに帰国する必要はない、おじいちゃんもきっとそう思っている」とも言われた。


すごく悩んだ。けれど、旅を続けて、バラナシに滞在した2日目に、祖父は亡くなった。バラナシのホステルの部屋の中でその知らせを受けて、泣きまくった。ヒンドゥー教の聖地であり、インド中から集まってくるくるたくさんのインド人の亡骸が火葬・水葬される様子に祖父の姿を重ねた。ブッダが悟りを開いた菩提樹があるブッダガヤで祈りを捧げて、菩提樹の葉っぱとバラナシの聖水を手に持って帰国した時には祖父の葬儀は終わり、祖父は戒名を授かって仏壇の脇の骨壷の中で静かに眠っていた。また、泣きまくった。


祖父を失って気がついたことがある。それは、人は、誰かの記憶の中では永遠に生きて行けるのかもしれない、ということ。「名残」という言葉のとおり、人の存在は物理的には消えてなくなってしまっても、その名前は様々なところに残される。記憶の中だけでもなく、紙の上やモノの中、そして、コンピュータのメモリの中にも。


今日、留学をしている友達と会話をするために久々にスカイプをつけた。スカイプのリストの中に、"Yukio Shimoyama"のオフラインマークを見つけて、思わず涙が出てきた。もう、オンラインにはならないskypeアカウント。会話記録は何も残ってなかった。
なんとなく、"Call"ボタンを押したのがマズかった。一瞬だけ「トゥルルル…」と鳴って、消えて、表示されたメッセージを見て涙が止まらなくなった。
"Call Ended, unable to reach this contact."
じいちゃんは亡くなって、じいちゃんのスカイプアカウントは生きていたけど、やっぱり届かなかった。


ライフログ、ムーアの法則、データマイニング、人工知能…
Googleで働くことになった米の有名な未来学者Ray Kurzweilは2029年に人間と同じレベルの人工知能ができると予想した。そんな言葉を聞く度に思うことがある。僕のFacebookやmixiやこのブログに残した永遠のデータから僕が死んだ後もオンラインで在り続ける"Ryunosuke Shimoyama"アカウントはできるのかな、ということ。
僕の孫やひ孫が、僕の死んだ後にそのアカウントと会話をする。
「じいちゃんの若い時って、どんな時代だったの?」
データマイニングしてパーソナライズされたAIの僕は答える。
「うーん、そうだな…まぁいい時代だったよ。日本では戦争は無かった。人の命は凄く大事だった。英語の勉強を自分で頑張ってしないと海外の人とコミュニケーション取るのが大変でね…」


冒頭に引用した「今生きている人は今まで死んだ人より多い」。この言葉にはどうやら続きがありそうだ。

「今生きている人は今まで死んだ人より多い...かどうかはよくわからない。けれどきっと、亡くなっても生き続けている人の数は今後もっと多くなっていくよ。」
そんな未来が実現するのか、SFの中の夢物語で終わるのか。
果たして良い未来なのか、悪い未来なのか。
人の記憶がAIでトレースされてしまうなんてやだなぁって感じるけれど、今日じいちゃんのスカイプを見つけた時に、アカウントが緑色になって、もしも話すことが出来ればなんて嬉しいんだろう…って強く思ったことも事実。


かつてのマッド・サイエンティストは、墓場で死体を組み上げてフランケンシュタインを作り上げる。
未来のマッドorグッド・サイエンティストは、ウェブ上でデータを組み上げて思考する人を作り上げる。


このストーリーは今後どうなるか。
いつか、一緒にゆっくり考えてみましょう。


2/11/2013

色即是空、空即是色。

"言葉はいつも曖昧で
日替わりな気持ちをはぐらかせてる
昨日はいつも明確で
記憶の整理で一日が終わる"
 ―『空っぽ』SPECIAL OTHERS


言葉は使わないと忘れてしまう。
僕は1年間の留学に行き、その前後も今も英語学習は続けているけれど、こぼれ落ちるように僕の記憶から学んだ言葉は失われていく。
言葉の役割は2つある。僕はそう思っている。1つには、自分自身の思考を整理整頓するためのツールとして。もう1つは、自分以外の誰かと意思疎通をするためのツールとして。


1つ目の整理整頓。
僕がこのブログを書いている理由もそうであるけれど、言葉は僕達の感情とか記憶といった頭の中の絶えず変化して消えていくものを留めておくために使うもの。原始時代の洞穴ので暮らしていた人たちは、朝と夜が何回訪れたかをカウントするために洞穴の壁に線を一本ずつ引いていった。その線と、同じもの。その線一本に「一日」という意味を持たせたことで、今日が何日目であるかを明確に理解することができるようになった。同様に、僕達の内側から来る感情や外側から来る影響、有形のもの無形のもの、それらを言葉で現すことで、流動的に存在する身の回りのことが固定して、扱いやすくした。それが整理整頓。


2つ目の意思疎通。
洞穴に書いた一本の線=「一日」だということを一緒に暮らす家族の中での共通認識とすることで、原始人は「一日」について語り合うことができるようになる。今日の線一本はなんだか寒かったなぁ。ちょっとギザギザした線にしておくか。今日の線一本は大事な人を失った。忘れないように消えないように強く深く刻んでおこう。そうやって、僕らは大事な感情を誰かと共有することが出来るようになった。お互いに足りない情報を補いあい、大事だと思ったことを同じ表現方法で理解し合う。それが意思疎通。


言葉は万能なのか。そんなことはない。ある老齢の作家がこんなことを言っていた。
「未だに、空の色の形容の仕方に悩む毎日だよ」
作家という人の心情を言語化する仕事を日々続けている人であっても、空の色の表し方に悩むのだと。透き通る青、コバルトブルー、陰鬱な灰色、群青、…
人は皆、自分自身の感じる空の色がある。心に思い浮かべる天上に存在する空間の色。整理整頓するために、「青」という色の名前をつける。意思疎通するために、「青」がみんなの平均点となる。


言語の表現方法に限界を感じて、写真、絵、音楽、ファッション、アート、そんな自由度の高いものを選択する人もいる。論理的思考に疲れて、感情的表現を愛するようになる人もいる。より自由度が高く、自分の思いを忠実に表せる方法。しかしそこで発生するジレンマは、言語化されていないためにブレてしまうこと、間違った認識が生まれてしまうこと。伝わらないこと。整理整頓と意思疎通の難しさ。


留学中に1年間、アメリカ手話を学んだ。American Sign Language。クラスメートと一緒に、San Franciscoの公園やバーで開かれる集まりに参加したり、時には車に乗りBerkeleyまで行き、Deafの人達(耳が聴こえない人)とのコミュニケーションを楽しんだ。
ASLはもう1年半も使っていない。だから、すっかり忘れてしまっていてもおかしくないのだけれど、意外と手も身体も覚えている。手話という言葉は、表情や身体の動きが必要不可欠で、すごく自由度の高い言葉なのだけれど、意思疎通がしっかりできる。感情が言葉になっていると言ったら言いすぎかもしれないが、先に述べたようなジレンマを乗り越えている。"Hello"という手話の時には、自然と笑顔に。"sad"という手話の時には自然と悲しい顔に。
旅先でも、結局言葉が通じなかったらボディ・ランゲージ。これだけで、意外と人とは心が通う。


言葉の本質は感情。
感情があり、言葉が生まれる。言葉があり、感情が伝わる。
言語を忘れないためには、感情を忘れないことが大事なんだろう。


色即是空、空即是色。



2/08/2013

インサイド・アウトサイダー、より良き脳内比較文化論のために。

研究室の書棚に、『英語で日本のこと話そう』という本があった。
525円という安くて、薄い本。内容もその表題からわかるように、日本の風習を英語ですごーく簡単に説明するというもの。文化的背景の説明もほとんどない。英語のストレートな表現で書かれた日本の文化。
以下に、少しだけ文を引用・紹介。

To disagree with someone ca be sometimes considered impolite.
→誰かの意見に反対するということは、ときに無礼であると考えられる。  
When drinking beer or sake, it is a Japanese custom to serve everybody else rather than pouring beverage into your own glass.
→飲み会の席ではお互いに酒をつぎあう。 
There are even students who commit suicide because of being bullied.
→いじめ問題。日本の自殺率は世界で5位だ。 
Recently, we've got cars just for females to avoid sexual harassment against women.
→女性専用車両は、おそらく日本にしかないもの。すこしでも身体が触れ合ったら"Excuse me!"って声をかけるのが当然の欧米人にとって、満員電車はかなりの地獄だろう。 
Talking of religious in Japan, not many Japanese really thing that they are Buddhist.
→日本人の多くは、自分達が仏教徒であることを知らない。無宗教であると言うことはしっかりした理由が述べられないと場合によっては無節操だと思われる。 
Go-kon is a party arranged to find boyfriends and girlfriends among different groups.
→僕の知る限り、合コンなんて文化は海外にはない。(韓国あたりにはありそうだけれど)

こんな、日本独自の文化や問題。僕は決して、
「海外にはそんなことやっている奴はいない。だから辞めようぜ」
と安直に言いたいから引用したのではない。それが世界のスタンダードなのか、日本のガラパゴス文化なのか、しっかりと理解することが大事だと思っているからである。文化の違いを知り理解することは、他人の発言は発言として、自分の意見をきちんと持つことにつながる。そしてガラパゴス文化には、とても貴重な価値があるということを再認識することにもつながる。


例えば、
「日本では麺類を音を立てて食べるけれど、これは世界では行儀の悪いことだよ」
と言われて、「そうですか、では音を立てずに食べましょう」というのは僕はいかんと思う。
「いやいや、世界では行儀が悪くても、日本人にとっては、そばは音を立てて食べた方が美味いんだよ!でも、パスタはすすらずに食べてみるね。」
そんな風に自分たちの価値ある文化を守り、それでいてスタンダードに歩み寄るような、バランス感覚を持った正しい意見を述べることが大事じゃないだろうか。


同時に、当たり前となってしまったけれど大きく世界のスタンダードから離脱してしまった悪しき習慣を見つけ、それを是正するソリューションを考える努力も大事だと思う。先進国の中でもダントツの自殺率。以前のブログでも書いた(→「親切量」の配分について考える)で書いたような「ありがとう」や「小さな親切」の欠如。セクシャル・ハラスメント。世界的に見ても異質な問題は、世界の事例や自らの体験・思考をもとに「脳内比較文化論」を繰り広げて、自分や社会にとっての最適解を見つけたい。


脳内比較文化論を行うために、大事なリソースは、何よりも自分たちの文化を深く知ること。留学から帰ってきたり、長期の海外旅行から帰ってきた人がみな口をそろえて言うことが
「日本の文化を全く知らないということを知った」
ということ。僕もそう。留学中や帰国後に日本の文化や宗教や習慣にとても敏感になり、自分なりにアンテナを張って学んでいるつもりだ。


今までは本などからの知識が多かったけれど、やっぱり見て感じることが大事。というわけで、今年の春休みは日本を少し見て回ろうと思って、買ったのがこれ。


世界で一番のシェアを持つ英語のガイドブック"lonely planet"の"Japan"。
日本に来る旅行者の多くはこの本を持ち、2週間ぐらいの短期間で東京、広島、京都などを訪れ、そして日本がどういう国であったかをジャッジして、母国の友人や家族に報告する。それが世界中の人々が行う「脳内比較文化論」の日本の文化となる。そうであるなら、そういう視点で日本を見ることは大事だし、なによりも発見が多いはず。自分自身が知ってるつもりだけれど実は知らなかったこと、そんなことを見て知り感じたい。


"Trying to be like an inside-outsider."
日本人にいながら、外からくる人の目線で日本を楽しむ、そんなインサイド・アウトサイダーを目指して、旅の準備を始める。

幸せと悲しみと掌のメカニズム

イメージしてみる。
会社でも、研究室でも、教室でも、家でも。
親しい人や知人が集まっている場所のドアを開けてみる。
そのときに、そこにいるみんなが、なぜかニコニコと笑っていたら。

きっと、なぜだかわからなくても自分も笑顔になって、
「え、なんで笑ってんだよ!!」
って嬉しくなると思う。理由を知らなくても。

少し違ったシチュエーションをまた、想像してみる。
集まっている人がなぜかみな悲しんでいたり泣いていたら。
「もらい泣き」という言葉があるように、先の例のような感情のシンパシーによって悲しくなるだろう。けれど、周りの笑顔につられてにじみ出てくる「もらい笑い」(あまりそんな言葉は聞かないけれど、あるのかな)よりも、悲しみが表面に現れるまでには時差がある。みんなが泣いている理由を探そうとして、それが僕にとっての悲しみや大切な人の苦しみだと理解して、心が揺さぶられ、そして初めて涙が流れるもの。


笑いや幸福は、明確な理由がなくても訪れることがある。一方で、悲しみや悩みや涙といった感情には原因やキッカケが存在する。言い換えると、幸せという感情は僕らが思っているよりも凄くナチュラルに存在しているけれど、悲しみという感情には力や意志が働きがあって初めて存在しえるものだということ。


そんな幸せと悲しみのメカニズムは、僕達の掌のグーパーと似ていると思う。
手の平は、なーにも意識をしていないとグーとパーの中間のような、なんとも形容のし難い状態になる。筋肉にはどんな電気信号も渡っていない、ストレスもかかっていない。自然な状態なのだけれど、なぜだか見慣れていなくて、不自然に感じる。不恰好に感じる。特別な名前がないから、ダランの手と名付ける。
ところが、「手に力を入れて!!」といわれると、きっとみんなグーかパーをつくる。そのときの手の形は、所謂「手」や「拳」であり、自然状態であるはずのダランの手よりも見慣れている。電気信号が行き渡り筋肉が思いっきり収縮しているためにものすごくストレスのかかっている、自然とは違った状態であるのだけれど、なぜだかダランと比べてより「手」のイメージに適っている。


なにが言いたいのか自分でもなんだかよくわからなくなってしまったけれど(笑)、


自然な状態のダランの掌と、不自然な状態のグーパーの掌。
ナチュラルに存在する幸せと、意識や思考が原因となって存在する悲しみ。
当たり前に存在するけれど気付きづらいものと、意識した結果過剰に発生してしまっているもの。


こんなアナロジーが存在しているように思える。


自己啓発の本の見だしなんかに、「笑うことで効率があがる!」「幸せだから笑うのではない、笑うから幸せになるのだ」というものがある。これらの言葉が僕は好きだけれど、笑っていては解決できない難問もあるのも事実だろう。そうでなければ世界中のテスト会場はニコニコ笑って解答用紙に向き合う人のほうが多くなるはずだが、実際にはそうなっていない。彼らがこの笑顔→効率UPの秘密を知らないからというわけではなくて、うーんうーんと眉間にシワを作り考えることは、筋肉を鍛えるためにわざわざ思いダンベルを上げたり下げたりする行動と一緒で、新たなパワーを得るためになくてはならないもの。しかし、その新たなパワー=自然発生するプリミティブな幸せではないということを忘れることがある。


うーん、ここまで書いたけれど、やっぱり何が言いたいのかよくわからなくなってしまったので、ナチュラルな状態の幸せを手に入れるために今日はダランの掌に戻します。


人間は、ネガティブな情報に興味をひかれがちで、グーやパーを無意識のうちに意識して作っている。なんだか思い悩み詰まっていると感じているのであれば、たまには本来は無意識のうちにできあがってる自然状態の幸せを得るように意識して、次のグーパーに備えよう。ずーっと考え続けてたら疲れちゃうよね。


そういうこと。