「紙の本はなくなってしまうのではないか。」
電子書籍が普及し始めてからそんな言葉をときたま聞くことがある。紙の本は、かさ張るし、燃えたら消失してしまうし、アクセシビリティが悪い。確かに、実物の本は電子書籍と比べると非常に不便な部分が多い。
我が家にも『自炊』(この言葉を知らない人は、既に遅れている?→wikipedia-自炊(電子書籍))するための器具が導入された。電子書籍などの出版事情に明るい父が、気がついたらAmazonで購入していた。裁断機とスキャナー。週末に昔読んでた漫画なんかをせっせと電子化している。トイレの前に設置されている漫画用の本棚がだんだんと空いてきた。
「紙でないというその一点において、電子書籍に価値を見出せない」そう、紙ではないというのが電子書籍の最大の弱点。なんだか矛盾であるように感じられるけれど、結局はそういうことなのだろう。
本には2つの価値がある。1つは、その本に含まれている情報としての価値。もう1つには、その本が本であるという物質としての価値。twitterのコメントが意味するところはこの後者の価値が欠けていること。電子書籍は今はまだ物質的な価値観を作り出せていないのだ。
2つの価値の前者の価値は自明だろう。今まで出会った人の中で、何も記載されていない真っ白な本を読んでいると言う想像力豊かな人に、今のところ僕は出会ったことがない。(実はそんな本も発売されていて、そういえば昔、彼女にプレゼントしようと考えたことがあった→白い本/あなた自身が創る本です。…ちなみにこのリンク先のアマゾンのページに"Kindle化リクエスト"とあるのだが、一体どこの誰が白い本を電子化したがるのだろう。)
しかし、新しい「白い本」をカバンの中に入れて電車の中で読んでいるという人を僕は見たことがないけれど、存在してもおかしくないなあ…とも思っている。読書は、ページ上に書かれていることだけが全てじゃない。本を持つこと、それ自体が誰かを豊かにするからだ。それが、本が本であるという物質としての価値。
以前読んだ内田樹の著書『街場のメディア論』の中で「書棚の意味」という言葉について氏が語っていたことには、書棚に並べられた本というのは読みたい本だけでなく自分がこれから読みたい本、あるいは「俺はこんな本を読んでる人間なんだぞ!」といったような理想我を他人に見せ示すための役割も担っているという。本が本であるという物質としての価値もこの範ちゅうだろう。僕にも読んだ本を見せびらかしたいエゴがあり、その結果はこのブログをPCブラウザで見て頂いてる方は御存知の通り、僕の仮装本棚をブログ上に表示するようにしている。
大学教授の部屋で、例えば、テレビのアナウンサーがインタビューをするときには、意図的にその背景には大量の関連図書が積まれた本棚が選ばれる。そこには、「この教授はこんなにもたくさんの本を読んで専門家なんですよ」といったような「書棚の意味」や、本が本であるという物質としての価値が発揮されている。
「教授、ではインタビューを…あれ、お読みの専門書籍はどちらでしょう?」インタビュアーの感じる虚しさそれこそが物質としての本の価値である。
「あぁ、全て電子化したよ。これで研究室が広くなったし、管理が楽になった。」
「…」
さて、最後にもう一つ、僕の考える本の価値を追加して終えたい。
それは思いがけない出会いのもたらすドキドキ感や、山ほど積まれた本の中に身を置いた時に感じられるあの圧倒感である。僕は週に一度は必ず図書館、大型書店、古本屋に立ち寄っては本を「仕入れ」るのだけれど、その度に、「あぁ、この世にはこんなにたくさん本があるんだ…」と圧倒される。また、その中で目当ての本を探している最中に、ふと、目当ての本とは全く違ったものを手に取る。裏表紙の説明、まえがきや目次などに目を通すと、それは以前に凄く興味のある内容だったけれど忘れていたことや、ブログにもtwitterにもfacebookにもAmazonの購入履歴にも残されていないまだ言語化されていない大切な感情であったりする。それは、一目惚れや恋に落ちるときの感覚や、数度しか会ったことがないのに心通じる友人に対する思いと同じであるように感じる。そういった感情が含有している価値は、リコメンド機能や欲しい本をその場ですぐに買えるという電子書籍には付加しづらいものだろう。
電子書籍がビジネス的にもアクセシビリティにも優れていることは認める。自炊して、電子化も進めていくと思う。
それでも、僕は古本屋に通い続ける。
思いもよらない本と出会い、恋に落ちるために。
→「本」と、それにまつわる様々な「ストーリー」
→City Lights Bookstore