10/25/2012

金木犀と記憶と記録

ランニングのみちみちに、金木犀が咲き誇っている。


昨日の台風のような通り雨で、オレンジの小さな花の多くは地面に落ちてしまったけれど、アスファルトに並ぶオレンジの点々もまた綺麗。雨に打たれてその儚くも特徴のある香りが一層際立つ。
「金木犀」を辞書で引いてみた。"orange osmanthus"とか"fragrant olive"とあまり聞き覚えのない言葉が出てきた。欧米ではマイナーな木や花なのだろう、アメリカや旅先で金木犀の花や香りに気づいたことがない。日本では昔から洗面所の窓の近くにこの木を植えたものだと母が言っていた。今ではラベンダーや石鹸の香りがメジャーになったけれど、一昔前まではトイレの芳香剤の香りというとこのキンモクセイの香りであったという。
小さい頃から社宅・マンションで住み暮らしてきた僕には、「庭に金木犀」なんて風流なものはなかったけれど、小学校・中学校にこのオレンジの小さな花は咲いていた。当時はなにも意識していなかったのだけれど、金木犀の香りを嗅いで、中学校の図画工作室の窓の外にあるその木と、その当時のことなんかをふと、思い出した。


嗅覚や味覚から過去の記憶が呼び起こされることを「プルースト効果」という。
フランスの文豪マルセル・プルーストの長編小説『失われた時を求めて』の中で、主人公がマドレーヌを熱い紅茶に浸して食べたことからさまざまな記憶がフラッシュバックして物語が進行していく…そんなさまから、この名前がつけられた。匂いや味をスイッチとして蘇る心の奥底に眠っている記憶、特別に努力して覚えておこうとしたのではないぼんやりとした記憶、そんな「無意識的記憶」を金木犀の香りが連れてきてくれて、なんだか嬉しくなる。


「無意識的記憶」ってなんだか面白いし素敵だ。
しかし、悲しいけれど、インターネットの普及でどんなものでも無尽蔵に記録することができる世界が出来上がりつつあるいま、「無意識的記憶」が薄れ弱まりなくなってしまう日もいずれ到来するかもしれない。
自分にまつわるものをすべてネットに取り組んで残そうとする「ライフログ」が当たり前の時代になった。文学の発明、活版印刷の実用化、コンピュータの開発…こういった進歩はまさに記録を残そうとする人類の欲求の表れだ。Facebook、twitterなどのSNSもすべて「ライフログ」である。今日食べたもの、出会った人、ため息やつぶやきもすべて記録したくなる。人間には自分や世界の出来事を残したい本能がある。


先日、研究室の友達とEvernoteのCEOであるPhil Libinのインタビュー記事を読んで少し話し合った。
「すべてを記憶する」「第二の脳」とうたう情報蓄積サービスのEvernoteを僕はサービス開始と同時に使い始め、その当時はその便利さやキャッチコピーに惹かれて使いこなそうと躍起になっていたけれど、最近は使うのをやめてしまった。「第二の脳」があったとしても、インプットやアウトプットの量が2倍になってスーパー頭よくなるわけでもないし、学生のうちはそんなになにかを効率的にこなす必要はないんじゃないかと思っている。そして、気がついた。無尽蔵のEvernoteに記録させたモノコトは、そこに情報があるという安心感のせいか、ふとした気付きやひらめき、「無意識的記憶」をもたらしてくれなくなるということを。「記録」と「記憶」は似ていて異なるということを。


僕は写真が大好きで、デジタルカメラや携帯カメラを日々使っている。写真に残しておけば、データとしてさまざまな情報は手軽に、即座に、無尽蔵に記録される。そこから生まれる安心感ゆえか、撮りに撮った写真を整理整頓したり現像しようという作業をしなくなった。間に合わなかった板書を撮った写真を見て、それをノートに写そうとはしなくなった。
素晴らしい景色を見て、写真に納める。あるいは誰かに出会ってすぐにFacebookで友第になる。その結果、手のひらの中のデバイスに記録できたことに満足してしまって、記憶をしなくなる。ふとした瞬間に思い出す必要がなくなって、思い出さなくなる…そんなことがあるのではないだろうか。


香り、味覚、あるいは視覚や音、5感で感じられる全ての刺激が「無意識的記憶」を呼び戻すスイッチとなりうる。そして呼び起こされるその記憶は、「第二の脳」やCドライブなどの中の記録からは出てこない。
効率的に生きるのは、もっと賢く大人になってからでいいと最近思い始めた。今はもっともっと「第一の脳」をしっかりと使って考え悩み、さまざまなリアルなことに敏感に真面目になって、日々を過ごす。それがきっと、50年後の僕の「無意識的記憶」の一端となっていて、素晴らしい思い出となっているはずだから。


記録より、記憶を。
人が死ぬ瞬間に見ると言われる走馬灯、一生の記憶のリピート現象。天国にいるじいちゃんに負けないぐらいたくさんの良い記憶や思い出に包まれて最後を迎えたい。走馬灯がすべてFacebookで事足りてしまうなんていうのは、なんだか悲しい。
そうならないためにも、感性豊かに、元気に、笑顔で、リアルな会話や出会いや体験を大事に、家族や友達や大切な人を愛して、毎日を丁寧に、生きていきたい。



2 件のコメント:

  1. SNSやカメラが発展して色々なものを容易に記録できるようになりました。しかし一方で、それらを使っても記録できないものも未だ多くあります。そんな記憶をいっぱい貯め込んでいけたらいいな、と思います。

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  2. 匿名さん、
    コメントありがとう:)
    記録できないものを大切にしたいですし、なんでもかんでも頭の外に記録できるようになった時代だからこそ、記憶といったような自分の頭の中でしかつくりあげることができないものを大切にしていきたいです。いっぱいため込むだけでなく、それらを使って、いっぱいひらめきたいですよね。

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