8/04/2012

『命の人称性』

2012年8月4日付け朝日新聞のオピニオン欄、”原発事故調査を終えて”の中より。
政府原発事故調の委員長代理・柳田邦男さんの言葉。氏は36年生まれ、御年76歳。

記事の中で、柳田さんは、原発事故に関する調査を行い報告書をまとめる過程で見知った、事故の全容解明の必要性や、2度とあのような事故が発生しないようにするための意見を述べている。
その中で氏が用いた『命の人称性』という言葉について。以下、引用。

「息子が脳死状態になったことを契機に、『命の人称性』を考えるようになりました。それまでは理屈のみで『脳死=人の死』と考えていましたが、息子は脳死状態になっても心臓は鼓動するし、体も温かいし、ひげも伸びます。息子と魂の会話を繰り返している中で、息子の体を死体として考えることはとてもできませんでした。同じ死でも、自分の死、家族の死、第三者の死ではそれぞれ意味が違うのです。それが『命の人称性』です。」
「周辺住民の命を見る官僚や専門家は『三人称の視点』で見ているわけです。客観性、平等性を重視するので、どうしても乾いた冷たい目で事故や災害を見がちです。『もしこれが、自分や家族だったら』という被害者側に寄り添う視点があれば、避難計画の策定もより真剣になっていたでしょう。私は客観性のある二人称と三人称の間の『2.5人称』の視点を提唱しています。」

最近、死とか生とか、命にかかわることを漠然と考えることがあったのだけれど、この『命の人称性』という単語には考えさせられた。

当然のことながら、世界では毎日たくさんの人が死んでいく。それらはほとんど全て三人称の命であるわけで、そこから感じる悲壮感というものはたかが知れている。
隣人が死んだとして喪に服したとしても、その次の瞬間には笑ってお酒を飲むことができるだろう。

では、それが二人称の死であったら。
血の通った家族、あるいは血縁がなくても家族と呼ぶ本当に大事な人。その死を直面したり、あるいは死が近づいている様を感じることができるようになると、笑っていられなくなる。本気で悲しみ、その死をもたらしたものに怒り、全てに真剣になる。
しかしそんな機会は多くはない。見知った家族など両親と祖父母と兄弟姉妹と、多くても10人に満たないだろう。
僕は二人称で呼べる家族をこの春に失った。そのことが、命に関して考えるきっかけを与えてくれた。

最後に、一人称の死。
人は最後は1人だとよくいうけれど、この最後の1人の死というものが一番良くわからない。特に僕のようにまだまだ先が長いと感じる世代の人には。
だから、自分自身の死は二人称、三人称の死を経験し、それらと相対的に比べることでしか測ることが出来ない。
誰かの死、家族の死、そこから逆算する自分の死。それらが人生のカウントダウンとなる。見飽きてしまった季節の巡り代わりは、カウントダウンの目盛りとなる。祖父は80回の夏を経験して逝った。同じ年頃で亡くなるのであれば、僕の父はあと30回桜を見たら亡くなるだろう。ぼくは、あと50回程厚手のコートに袖を通す季節をすぎれば死ぬだろう。


人の命と一言で言うけれど、それは一意には定まらない。
そんな当然のことを再認識することができた柳田さんの『命の人称性』という言葉。
御年76歳であり、息子の脳死、家族の死、様々な死を経験してきたからこそその言葉には熱い思いがこもっているように思えた。

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