そんな「ものづくり」という言葉について、今日の朝日新聞朝刊のオピニオン欄にて一橋大商学部長の沼上幹さんが鋭く考察をしていた。いづれ僕も使うことになりそうな大事なキーワードであるので、少し長いけれど、備忘録のために以下に一部を抜粋。
「ものづくりが危機に瀕している」
「ものづくりが基本だ」
日本企業を語るとき、こうした表現を聞かないことはない。しかし、「ものづくり」という言葉は実はかなり厄介である。
一つ目の理由は、それが多義的だということである。「日本のものづくりを守れ」というスローガンをみて欲しい。(中略)大まかには「日本の製造業を守れ」ということだろうが、その対象は大企業か中小企業、はたまた地場の産業集積なのかひとによって異なる。さらに雇用を守るのか、高度熟練工の「匠の技」やハイテク技術者の高度技術力を守るのか。
(中略)これらすべてを「ものづくり」という言葉で表現可能な時代もあった。(中略)「ものづくり」という言葉の多様な側面が実態としてひとつにつながっていて、同床異夢でも皆が利益は共有できたのだから、「ものづくり」という言葉で人々を糾合しても問題はなかった。
いまでも多様な人々と企業が連動して利益を享受できる業界もある。しかし、皆が協力しても成長が望めず、限られたパイの奪い合いをせざるを得ない分野も多い。開発と試作は日本、量産は海外、少量の需給バランスは国内の中小企業というバラバラな役割分担になっていて、濃密な相互作用に寄る知恵の蓄積から離れてしまった業界もある。
実態も利害もバラバラになったから、言葉も多義的になり、「ものづくりが重要だ」という点では合意できても変革行動は統合できなくなっている。
「ものづくり」という言葉が厄介な二つ目の理由は、それが感情に訴えかけるパワーをもっていることである。
「日本のものづくりを守れ」というスローガンに対する感情的な反応は強い。人や地域の生活がかかっているからか。国際競争の中でナショナリズムに訴えかけるからか。あるいはまた、製品の完成度をひたむきに高めていく修行者のような美徳や、どれほど高度技術になっても「ものづくりの現場」を尊重し続ける美徳などをぜひ残したい、という気持ちが背後にある可能性もある。
(中略)「ものづくりが大切だ」という気持ちが感情的に強くなりすぎると、ビジネスモデルとかマーケティングなど、ものづくり以外のことを「なんとなく、うさんくさい」とか「本質的ではない」と考える傾向を持つ人が一部にでてくる。
自分たちは本質部分は負けていなくて、「相手はうさんくさいところが上手なだけだ」と愚痴を言う。日本の「ものづくり」を守るためには、そこから利益を確保する仕組み(ビジネスモデル)や、こちらの「ものづくり」の力量を最も高く評価する顧客層を見つけ出すマーケティングに注力するべきかもしれないのに、「今まで以上にものづくりに注力する」という単純な発想に感情的にとらわれがちになる。
(中略)感情的なうえに、その言葉が多義的であれば、多様な見地の人々が集まった時に、誰かしらが微妙なニュアンスに過敏に反応して、理性的庵対話が不可能になる。(中略)
感情的で多義的な言葉は、議論を通じた自己改革を阻害するという意味で、本当に厄介なのである。
なぜか僕は先日までのインターンシップで「本質を語る変な奴」といったようなキャラクターになってしまったのだけれど、この記事の中でも後半に「本質」という言葉が出てくる。「ものづくり」=「本質」という考え方だ。
たしかに、これまでの日本を支えてきたのはトヨタやキャノン、ソニーを代表とするメーカーであり、彼らのつくるモノが優れていたからこそ日本がこれほどまでの地位を得ることができた。そういう意味で言えば作るものは「本質」なのであろう。
しかし、本質を語るだけでは、変人扱いされてします僕のように、お金を稼ぐことはできない。「本質」は大事なことであるけれど、利益をあげるとき、誰かと争うときにはその本質よりも重要である要素(記事の中ではビジネスモデルやマーケティングという言葉が取り上げられている)が存在するのも事実である。
「日本のものづくり」と同じくらい大事なのが、「つくったものをどうやって売るか」とか「誰に売るのが一番いいか」を考えることだと沼上さんは記事の中で語る。
「優れたものを作り出せば受け入れられる」という言葉も時たま耳にはするけれど、それは結局、ビジネスやマーケティングにも最大限の努力を費やしてきた本当に一部の成功者の体験談である。
優れているけれどコスト、タイミング、ユーザーなどに受け入れられず沈んでいった「もの」や「アイデア」もこの世には多数存在する。
時代を読み、その時々にあった最高の品を作ること。それが本当の「ものづくり」の姿なのではないだろうか。
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