「東日本大震災で、一体何人の人が亡くなったか知ってる?」この質問を、例えば小学生なんかにしたら、なんと答えるだろうか。小学生だけではなく、もしかしたら高校生、大学生、社会人であったとしても、なんと答えるだろうか。
「え、あの大震災で亡くなった人ってそんなにたくさんいるの?」そうやって答える人が、僕は、少なくないほどいるのではないかと考えてしまう。なぜか。日本の報道では、怪我も、傷も、血も、死も、全くもって報道されなかったからだ。
奇跡的に生還した人。
愛する人を失い悲しむ人。
奔走する自衛隊と政治家。
原発に怒れる市民。
なにもなくなった所で呆然と立つ人。
そういった風景描写を強烈に描き出すことで、映し出せない『死』を炙り出す。それが日本のメディアの伝え方である。今回の大震災でも、死人の姿は、一切カメラを通して届けられなかった。たったの1人も。
この伝え方が悪い方法だとは思わない。これが日本のメディアの表現の仕方なのである。表現とは何かを切り取ること、付け加えること。僕は制作に携わった人々の苦悩と努力を映像の端々から感じ取る。優しさすら感じる。でもそれは、日本の放送が血や死を映し出さないようにしているという事実を知っているから思えること。地震直後の三陸海岸線に水死体が山のように浮いている映像を海外から見たから言えること。そういった映像を知らない子供、そして『死』を炙り出す能力のない人にとっては、3.11の日にキャンドルに火を灯す理由は見つけられないだろう。
インドのヴァラナシに集まるたくさんの死体、それが焼かれる姿。
チュニジアのテレビに映る近隣諸国の紛争の様子、銃で打たれ血を流す兵士と子供。
僕の大好きだった祖父が亡くなったこと、死に際に会えなかったこと。
思い返せばこの1年間、僕はたくさんの消えていく命を目の当たりにした。すごく近くにはまだ怖くていけなくても、今までよりもすこしだけ近づいた。そのおかげで、さまざまな情報から巧妙に消された大切なものを補間する力を少し身につけたように思う。でも、まだまだ全く足りなかった。
今日、授業にてイラク戦争のドキュメンタリー映像を見た。
日本ではイラク戦争は正しい戦争であったという報道ばかりであった。フセインの像が倒され喜び騒ぐ人々。ブッシュ大統領の十字軍という発言。日本の自衛隊派遣。僕も幼かったせいで、戦争の意味も何も考えなかったし、漠然と良きものだと考えていたフシがある。
ドキュメンタリーの最後に、病院に運び込まれた子供の姿を5分ほど追っていた。5歳ぐらいの女の子。米軍の砲撃を受け、血だらけになって、目が開かない。無意識のうちに着けられた酸素ボンベを手で払う。この子を写してくれと周りの医師が叫ぶ。日本人は出て行けという声も聞こえる。
女の子は、次第に、動かなくなる。父親が胸に耳を当てている。鼓動を聞いているのか。呼吸を聞いているのか。手をその子の顔の上に被せ泣き崩れる。動かなくなった右手を握りしめながら。もう二度と動かないその小さな手を。
涙が出た。
切り取られた映像や事実を補間する力が僕にはまだまだ足りないのだと痛感した。
死を炙りだす力が足りないのだと。
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