5/18/2013

ボストンのテロから1ヶ月

遠く離れた場所で起こった出来事であっても、自分が訪れたことのある都市、思い入れがある場所ならば、住む人の顔や情景が自然と思い浮かぶ。他人ごとのようには思えなくなる。体験や経験の重要性がインターネットが発達してからものすごくたくさん主張されるようになった。僕もそう思う。情報はインターネットで手に入るけれど、最終的に「わかる」「感じる」ようになるには、人に合わないと、自分の目でみて体験しないといけない。そうではないだろうか。

マサチューセッツ州のボストンのマラソン大会最中に発生したテロから1ヶ月が経った。
3人が死亡し、170人以上が負傷。犯人は2人の兄弟であり、1人は警察との銃撃戦で死亡した。

留学中に2度もお世話になった母の古くからの友人がボストンにいる。居候させてもらいながら市街をのんびりとランニングしたり有名大学に潜り込んだり、チャールズリバーをヨットで渡ったり。知的な街の雰囲気。歴史と革新入り交じる街。道路に記された赤いサイン。ニュー・イングランドの香り残る僕の好きな街の一つ。そこが悲劇の舞台となった。






「テロの時代」
僕達が物心ついてから現在までの時代は、後にそうやって称されるのではないかと時折考える。戦争や紛争は亡くなる気配がないのだけれど、それにテロの脅威が加わった。今回の事件、容疑者はアメリカに受け入れられたチェチェン共和国出身の兄弟。アメリカに長く住み、永住権を持っていたにも関わらずの犯行だった。内製化テロリストという、外部から及ぼされた脅威ではなく社会の内側から生み出された悲劇。

僕にはこの悲劇が遠くアメリカの都市で発生したことだとは考えられなかった。日本でも、むしろ日本のほうが、内製化テロリストを生み出しやすい環境が整っているように思える。「それでも日本は平和でしょ?」警備体制とか犯罪率を見れば確かに日本ほど平和な国は世界にはない。拳銃もなく、殺人事件は極めて少ない。でも、内製化テロリストを発生させ得る要素、それを爆発させうる環境が確かにこの国にはあるように感じるのだ。

それはオウム真理教といった新興宗教が発生して広まった日本の環境とニアリーイコールだと思う。集団主義だといいながら、社会のセーフティーネットが少なくてとことん個人主義にならざるを得ない時代。ワーク・ライフ・バランスなんて言葉が当たり前になるぐらい仕事と家庭の両立が難しい現状。時代の変わり目にあり、モーレツに働けばいいのか家庭を愛せばいいのかわからない状況。キレる子供、孤独死、いじめ、3万人を超す自殺者の数。これらの帰結は少し違っていたら、すべて内製化テロリストに変わるのではないか。

テロの時代、それは無縁社会と二元論でしか考えられない人々が生み出した時代。
僕らはもっともっと、縁を大切にできる。友達にしっかり挨拶をする。見知らぬ人にフレンドリーにできる。日本のことばかり考えずに他国の人々の価値観を尊重できる。原理主義に陥らず、想像力で他の誰かの意識も理解できるようになる。小さいことから少しずつ、少しずつ。

僕は大好きなこの国、日本でテロ発生なんて悲しいニュースを絶対に見たくない。そのために僕ができること、みんなができること、それは小学校や幼稚園のときに教わるようなことなのだと思う。

優しくなろう。
人の痛みを感じれる人になろう。
思いやりができる人になろう。

たった、それだけ。できてるかな。できなくてはいけない。できるようになろう。

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