現代は効率一辺倒になりがちである。もちろん、仕事、学習、政治やお金に関して言うならば効率や損得は大事だ。ことビジネスに感情論を盛り込んでしまうのはちょっと野暮ったい。けれど、普段の生活、日常ではそんなに効率ばかりを追い求めなくてもいいのではないかと僕は思う。人間には損得とは別に大切なものがある。
国土交通省は電車やバスのベビーカー利用に統一ルールを作るという。背景には、子育て支援のためにお母さんにやさしい環境をつくろうということと、混雑時の電車の中でベビーカーを乗せたまま入ってくる人が多く周囲の乗客が迷惑をしていることがある。統一ルールの中にはベビーカー用の優先スペースを設ける案や、「混雑時には折りたたんで乗るように」という文面が入るという。
先日、Facebook上で高校時代からの友人と電車内の「優先席」のあり方について意見を言い合った。僕は電車内の優先席に僕達のような若い人は座るべきではないと考えていて、彼は優先席はあくまでも「優先」する席なのだから僕達若い世代の人でも座る権利があり、譲ることができるのであれば座っても良いという考えであった。「優先」という言葉の意味が難しい。
でも、僕は考える。言葉は、意味だけでなく感情を伝えるものではないのではないか、と。例えば、久々に会った友達に「元気?」と聞くことがある。この言葉の意味だけを読み取るのであれば、「調子はどう?」だけれど、この短い問のなかには「久々だねー、会いたかった、元気にやってるのか心配だった、色々聴きたいことや話したいことは山積みだけれど、いかんせん久々過ぎて急にプライベートな話を切り込むのは失礼だから、とりあえずの挨拶です、でも、できたら心を打ち解けたいよ」といった、さまざまな感情が注ぎ込まれている。それなのに、「久々にあったのに元気しか聞かないの?」なんて返答しか出来ないのであれば、それは察する心がなさすぎないか。
同様にして、電車内の「優先」という言葉のおくにある感情は、「遠慮してね」とか「配慮してね」であると僕は感じる。席に座っていて、お年寄りがきたら必ず譲ることができるのであれば座っていてもいいかもしれないけれど、3分起きにたくさんの人が乗ってくる車内で、すべての乗客をチェックして声かける視野の広さと度胸を僕はまだ持っていない。座ったら寝ちゃうし。だから、座らない。
公共交通機関の「優先席」「ベビーカーの使用ルール」、これらを「専用席」「法律」に昇華されればコミュニケーションの効率は格段にあがるだろう。白と黒のわかりやすい世界。だけど、公共の場で発生するべきことは白黒つけることでも、利益の奪い合いでもない。やわらかく、細やかな感情を通じ合わせること。『粋』を増幅させることではないだろうか。
「おっ、粋だねぇ…」と思わせる行動は、自分さえ良ければいいという考えの人のもとでは見られない。効率の反対に位置するような、やせ我慢や自己満足の領域である。それがいい。それがかっこいい。見えないし、もしかしたらもうほとんどなくなりつつある感情である『粋』。僕はそれを静かに探したい。増やしたい。広げたい。
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