5/10/2013

愛を語る授業は必要かな。

日本の初等道徳教育と、フランスの高等哲学教育について。

政府の教育再生実行会議で、小中学校の「道徳」のクラスを「教科」に格上げするということが提言されている。現在は国語算数理科社会といったテストのある授業と区別されていて、教員には免許もいらず、教科書は適当なものを、また数値でその習熟度を測ることもない。しかし、現在の授業水準を「不十分」とする安倍政権は、格上げをすることによって学生がより主体的に学べるような環境を作ろうとしている。

この話を聞いてふと思いだしたのが、留学時代のフランス人の友達との会話。
一緒にテニスチームを組んでいたAntoineとその彼女Julieとは何度か一緒に御飯を食べに行ったけれど、彼らはときどき「愛について」や「学ぶということ」を真剣に語り合っていてびっくりした。話を聞いてみれば、フランスではバカロレア、日本で言うセンター試験の科目に「哲学」があるからそういった話が身近なのだとか。

バカロレアの哲学試験はなかなか興味深い。
問題は専攻によって異なるが、受験者(=18歳)は3つの問題から一つを選択して、4時間かけて小論文形式で答えを出す。たとえば、昨年出題された問題は次の通り。
文科系
「働くことで、我々が得ているものは何か?」
「すべての信仰は理性に反するものか?」
「スピノザの『神学・政治論』の抜粋について論ぜよ」
理科系
「国家がなければ、もっと自由になれるか?」
「我々には真実を探す義務があるか?」
「ジャン=ジャック・ルソーの『エミール』の抜粋について論ぜよ」
(Courier Japon6月の記事より)
日本の小中学校の道徳のクラスも、フランスの大学入試の哲学のテストも、人間の心について考えて学ぶという点では同じであるように思える。 僕は道徳を科目にすることには賛成。でも、税金使って運営していてただでさえ忙しく大変な小中学校の負担を増やすのではなく、高校や大学ですこし体系的に「教養としての哲学」を学ばせてもいいんじゃない?と考える。

昔よりも、僕達学生の考え方は多様になっている。バリバリ働いて世界と戦って生きて行きたいという人もいれば、のんびりと安定した終身雇用をもとめる人もいる。若くして起業している人から何も考えていない人まで、そのブレ幅が凄く大きい。高度資本主義社会というお金を定規にして物事を測ることの暴力性を知り、新自由主義という皆が好きなことやって成長しようという考え方の矛盾や脆弱性を発展途上国と先進国の立ち振舞方の違いに見た。価値観の振れ幅が大きくなって、正しさの平均点がどこにあるかわからなくなっている。

そこで考えなおされているのが、「美しさ」とか「徳」とか、目には見えないけれど大切な感情。これを判断の基準にしようという流れ。
目に見えないものが大事であるという言葉は聞き飽きるほど巷で囁かれているけれど、僕達日本人は大事なことは語らずに察するを良しとして生きてきた。愛とか自由とか親切とか、社会とかお金とか生死とか、そういったもの。そんなこと語り合わなくてもわかってるよねーと、無言の間で通じ合っていると思っているもの。でも、こんなにも多様な人々がやわらかくつながるようになった世界で、「なにがどのようになぜ大事なのか」というみんなのコンセンサスを無言のうちに得るって凄く難しいように思える。

自民党の憲法改正草案の中には、そんな世論や近未来を予想してか、はたまたお金をかけずに愛国心を高ぶらせるためか、「家族は互いに助けあいましょう」とか「憲法尊重しよう」とか、暗黙の了解だったことが言語化されている。道徳教育の教科格上げも同じようなものかもしれない。中国の愛国教育と同じようなナショナリズムを高めるための安倍政権の見えない第四の矢かもしれない。

でもさ、目に見えない大事なことは、できたら誰かに言われて渋々語り合うんじゃなくて、一人ひとりが大事である理由を見つけて主体的に語りたいよね。それが結果的に安倍総理の目標とする「強い日本」「美しい日本」になるんだったら万歳。ならなくても、「俺らは大事なことを考えている!」ってなんだか誇れるし。

日本の道徳教育は今後どうなるのか。
今後も注目。

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