3/21/2013

歴史教科書2ページのものたりなさ

3月21日付け朝日新聞朝刊の社説より。
内容は安部内閣が新たに制定しようとしている「主権回復の日」について。以下、記事より引用。

一人ひとりに忘れられない日があるように、国や社会にも記憶に刻む日がある。
(中略)安部内閣は4月28日を「主権回復の日」と位置づけ、政府主催の式典を開くと決めた。1952年のこの日、サンフランシスコ講和条約が発効し、連合国による日本占領は終わった。
 「経験と教訓をいかし、わが国の未来を切りひらく決意を確固なものとしたい」という首相のことば自体に異論はない。
 自分たちの考えで、自分たちの国があゆむ方向を決める。その尊さに、思いをいたすことは大切である。
 だが、外国の支配を脱した輝きの日という視点からのみ4・28をとらえるのは疑問だ。
(中略)4・28とは、沖縄をきりすてその犠牲の上に本土の繁栄が築かれた日でもある。沖縄で「屈辱の日」と呼ばれるゆえんだ。
(中略)こうした話を「自虐史観だ」ときらう人がいる。だが、日本が占領されるにいたった歴史をふくめ、ものごとを多面的、重層的に理解しなければ、再び道を誤ることになりかねない。
 日本人の忍耐づよさや絆をたたえるだけでは、3・11を語ったことにならない。同じように4・28についても、美しい物語をつむぎ、首相のいう「わが国の未来を切りひらく」ことにはつながらないだろう。
 影の部分にこそ目をむけ、先人の過ちや悩みに学ぶ。その営みの先に、国の未来がある。 
(→朝日新聞デジタル - 主権回復の日―歴史の光と影に学ぶ

僕は日本近代史未履修である。
小学校・中学校の社会や歴史の授業では過去にあった出来事を縄文、弥生...と巻物の左端からスタートし、右端にある「なう」に行き着くまでにタイムオーバー。大正、昭和、平成の年号や人の名前なんかを丸覚えした記憶は少なく、教わった記憶は皆無。高校では世界史を選択した。(文系科目嫌いだった僕はそれすら覚えていない。)
史実は学んだけれど、それらをどう考えるかは習っていない。考えようともしなかった。

先日、広島の原爆博物館を訪れた際に、出口に設けられていた一言ノートに次のようなコメントが書き込まれていた。
3・11
日本に生まれ、日本に育ち、日本に生きている私たちは
唯一の被爆国であることを知らなさすぎる。歴史教科書の2ページ分では
あまりに薄く、書く人も伝える人も見る私たち誰もが無責任すぎると思うのです。
知らなければ、動けない。動かなければ、なくならない。
もっと、しっかり生きたいのです。
世界の誰もが笑顔で生きられる日が遠からず実現しますように。
神奈川県 S.K
このコメントにすごく共感した。
例え近代史を学んだとしても、たった2ページから一体僕らは何を学び何を考えることができるのだろうか。歴史事実=骨格ならば最低限学べる。でも、その骨格に肉をつけていく作業、すなわち今日の朝日新聞の社説にある歴史の光と影を学び考えることは、思い立ったときに自分自身でやるしかない。

広島・長崎の旅の中で反芻していた言葉がある。
ひとつは、1年ほど前にアメリカ人の友達コリンと飲んでいるときに彼が言った言葉。
「韓国も、インドネシアも、アジアの国はみんな日本のことを憎んでるよ。」
もうひとつは、インドを旅していたときに出会った日本人の妻を持つ韓国人パクの言葉。
「日本人ってさ、本当に何も知らないよね。慰安婦のこととか。第二次世界大戦で僕らの祖母がどれだけ辛い目にあったのかを考えたこともないんだよね。」
日本のことを好きだと言う彼らの言葉だからこそ、よけいに胸に響き、痛み、残った。


今朝の朝刊を読み、以前買い求めた日中韓3国共同歴史編纂委員会の「新しい東アジアの近現代史」を読んだ。そこにはこうある。
この条約(サンフランシスコ講和条約)は敗戦国日本が満足を表するほどに日本に対して寛大だった。平和と和解の精神が貫徹している「平和条約」だったが、しかし、実際に最大の被害国だった中国と韓国・北朝鮮は講和会議にまねかれることがなかった。 (中略)結局、日本の侵略戦争の最大の被害国だった中国と韓国・北朝鮮が排除され、アジアの国々に対する戦争責任問題が留保されたままで調印された対日平和条約は、真の「平和条約」とはほど遠かった。
(上刊、p147)
日本人は原爆の経験から、戦争自体に絶対反対し、平和を大切にする光のような心性をもつようになった。でも、その影にある日本自らおこした侵略と戦争に対する深い反省は忘れさられている。

昨年2012年5月15日は、沖縄返還40周年の節目の日であった。そのときに書いたブログでも、本土の人と沖縄の人の歴史解釈の違いについて書いて、その原因を『無関心』であると僕は書いた。
(→『沖縄返還40年』)

何度でも自分に言い聞かせる。関心を抱こう。歴史の光と影に。歴史は科目ではなくて、ともに生きる相手なのだから。
自分が未履修であることに気づいて恥じるようになるために。
歴史教科書2ページにものたりなさを感じるようになるために。

「主権回復の日」の影に学ぶ。


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