3/04/2013

シンパシー、同調する力をいつまでも忘れずに

日本人の素晴らしい特性の一つにシンパシー、同調する力があると思う。これは空気を読む力、場を感じる力とも言い換えられる。たとえば、宗教にまったく興味のない人でも、お寺の本堂で座っていると穏やかな気分を味わったり、あるいは教会で美しい賛美歌を聴いて、なんとなく聖なる気分にひたったりする。教会がプロテスタントかカトリックか正教かわからなくても。留学中や旅先でも似たようなことを感じた。日本人は他のアジア人と比べるとどうにか現地に溶け込もうとする力や実際にそうできる力が強いように感じるのだ。
この力は、TPOの中でのPlace(場所)やOccasion(集まり)といったフィールドで特に強く、その場の雰囲気に自らを適合できることが多い。しかし、唯一、Time(時間)に関しては、あまりにも無関心であったり囚われなさすぎるようなこともあるかもしれない。長く独特な歴史や風土があるのにそれの理解が浅かったり、さらには、もっと身近に会った悲劇に同調する力でさえも。


久々に親友・剛と会い、六本木や麻布の街をブラブラと散歩した。
自分が普段活動している場所から離れてみると、そこには違った生活やコミュニティがある。クラブの客引きをしている褐色の肌の人、完璧なメイクと似たようなファッションで着飾ったお金持ちそうな女の人、僕達と同じようにちょっと背伸びをしに来た若い人。東京に生まれて良かったかな…と、少し複雑な気持ちになりながらも感じる瞬間の一つである。

六本木ヒルズの一画を歩いていたら、通路の両側に突然たくさんの写真が飾られているスペースが現れた。写真の一つ一つには、日本語と英語で、キャプションがついている。「記憶 わすれてはいけないこと」。東日本大震災の直後、その後、そして現在を切り取った日本経済新聞社の報道写真が飾られた、仮設のギャラリーであった。通りを歩く様々な人が足を止めて写真に見入る。僕と剛も、少しの時間、写真と向き合った。
以前に日本経済新聞社の東京・大手町本社で東日本大震災の報道写真ギャラリーが開かれていた。現在も大手町で開かれていて、六本木ヒルズのそれは、過去のギャラリーの一部を持ってきた特設会場であるようだ。
(→東日本大震災 報道写真ギャラリー「記憶」


2011年3月11日午後2時46分。
東日本大震災からもうすぐ2年が経つ。
復興は進んだ。原発は止まった。首相は変わった。風評被害は減った。除染は進んだ。手抜きも始まった。人々が街に戻っていった。人々が諦めて出て行った。たくさんの人が知恵と力を出し合った。季節が巡った。それでも、亡くなった人々が戻ることはなかった。
福島県から引っ越してきた子供がいじめられるという記事を新聞で読んだ。サッカー日本代表のGK川島の手が4本生えたような写真がある国で報道され「フクシマの影響か」などと冗談にならない冗談に使われた。被災地のがれきを受け入れてくれる自治体はまだ不足している。

2013年2月6日の警察庁発表のデータでは、震災の死者数は1万5880人。行方不明者は2698人。

写真展のタイトル「記憶」には、副題がついていて、「わすれてはいけないこと」となっている。それでも、2年の歳月は、人々に多くのことをわすれさせ、時間に縛られたシンパシーに弱い僕らの関心はどんどんと薄れてきている。もちろん、ただずーっと当時の悲劇を思い出しておけとは思わない。もうわすれたいよ、つぎにすすみたいよ。そんな声は、被災地で意外と多いのだという。震災に対してどんな態度をとればいいのかわからない。笑い飛ばせばいいのか、喪に服せばいいのか。空気の読み方がわからず、湿気った花火のようないじらしさが人々にも世界にも広がっているのかもしれない。


一週間後、震災から2年の黙祷が全国で行われるだろう。
せめてその一瞬だけでも、僕は自分自身のシンパシー、同調する力をタイムマシンに載せて遡らせて、今も困難な日々を過ごす人々や大切な人を失った人の気持ちに少しでも寄り添いたいと思う。それが、日本人としてあるべき姿であると思うし、それが、「わすれてはいけないこと」をわすれないでいるための最高の手段だと思う。


そのための準備を今日から、少しずつ。









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