3/27/2013

早稲田大学卒業

早稲田大学を卒業した。

付属高校からの推薦で入学した僕は厳しい受験戦争をくぐり抜けたわけではない。正直、ゆとってるなぁ…頭悪いなぁ…と自分自身の「甘さ」「未熟さ」を常々痛感しながら過ごした5年間であった。それでも、周りの優秀な友達に負けず劣らず勉学に励むことができ、しっかりと学位を授かることができた。僕ひとりの努力だけでは成せなかったこと。勉強や生き方を教えてくれた先生方や先輩、刺激を与えてくれた友人、楽しい時間を過ごすことができた仲間、在学中に出会うことの出来たすべての人に感謝の気持ちを伝えたい。ありがとう。

そして誰よりも、僕の両親に感謝の気持ちを伝えたい。
付属高校からの推薦で大学進学を決め、留学にも行き、さらに大学院への進学…それら全てを「そうすることが当然」であるかのように僕は決めてしまった。僕が親であったら、「もっと他のキャリアも考えてみれば?」とか「お金たくさんかかるんだからしっかりね」といったような僕の考える正しさを押し付けたり小言を与えてしまうかもしれないけれど、僕の父親と母親はほとんど何も言わなかった。それって、本当にすごいことだと僕は感じる。父親と母親の、さらには祖父祖母の、無言のエールをしっかりと受けて、これからも続く学生生活を悔いのないように過ごしていきたい。
父さん、母さん、ありがとう。もう少しだけ迷惑かけます。


卒業式で鎌田総長は早稲田大学の創始者である大隈重信の建学の理念を踏まえたスピーチをされていた。
早稲田大学教旨をもう一度読み返してみる。

早稲田大学は学問の独立を全うし、学問の活用を効し、模範国民を造就するを以て建学の本旨と為す。
早稲田大学は学問の独立を本旨と為すを以て、之が自由討究を主とし、常に独創の研鑽に力め、以て世界の学問に裨補せん事を期す。
早稲田大学は学問の活用を本旨と為すを以て、学理を学理として研究すると共に、之を実際に応用するの道を講じ、以て時世の進運に資せん事を期す。
早稲田大学は模範国民の造就を本旨と為すを以て、個性を尊重し、身家を発達し、国家社会を利済し、併せて広く世界に活動す可き人格を養成せん事を期す。

国立学校とは違う私立学校として、権力や時勢に左右されない学問を追い求めること。それは時に、先の見えないことをやっているという暗中模索感に苛まされたり、権力や流行という高速道路に乗り疾走する他者を見て羨ましく悲しく感じるような、そんな毎日でもある。でも、僕は思う。それこそが「自由」であり、それこそが大学たるものではないか、と。

何度も、何度も、何度も読み返しているコラムがある。大学で学んでいる自分自身はいったいなんなのだろうと考えたときに読む文章がある。その中に、大学に行くとは「海を見る自由」を得るためだと、「立ち止まる自由」を得るためであると、立教新座中学・高校の校長である渡辺憲司さんは言っている。
(→卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。

高等教育機関に属し「専門を究めること」と「自由を得ること」。これらは相反するように聞こえるけれど、それらを僕達大学生はひとりひとりの最適な割合でミックスさせて、日々を過ごすべきなんだと考えるようになった。遊び呆けるでもなく、勉強に没頭するでもなく、それらをうまく組み合わせて、人の世で生きることの辛さ楽しさ両方を知り、「模倣国民」へ一歩近づく。僕は2人の先生のお言葉からそんな風に解釈をして、それをもう2年間実践しようとしている。

卒業証書を受け取り眺めながら、自分自身のそれらの割合は偏ってないかな、ちゃんと配合されているかな…とゆっくり考える。これからの2年間を、「学生の頃は良かった…」と将来逃げるための洞穴を掘る作業ではなく、飛躍するためのジャンプ台を建設するような、そんな思いで過ごして行きたい。



3/22/2013

東京生まれ東京育ちの東京知らず

東京生まれ東京育ちではあるけれど、東京のことはよく知らない。東京に限らず、もっと大きな日本や世界のことだってよく知らないし、さらには自分の家族のことだってろくに知らない。人間の個性とは何を知っているかによって作られるものではなく、何を知らないかによることも多いのではないか…などと考えたりする。
とにかく、長年連れ添った相手や住み暮らしている場所のことであっても、僕たちは知ろうと思いそのための行動をおこさなければ生涯知らぬままであることは多い。

靖国神社へ行って来た。
この場所を訪れるのは初めてではない。境内の中には東京の桜開花や満開を宣言するための標本木があり、桜観光の名所でもある。標本木の桜の花は綺麗に咲き誇りたくさんの見物客と出店で賑わっていた。東京、桜満開。

今回靖国神社を訪れたのは、桜見物のためではない。広島・長崎と「日本の戦争と平和」について見て考える旅の終着点として、近いけれど遠く、生まれ育った地にあるのによく知らなかった、鎮魂の地としての靖国神社を訪れてみたかった。靖国神社は首相の公式参拝問題などで取り上げられていたのでなんとなくその神社の生い立ちは知っていた。戊辰戦争から東アジア太平洋戦争での戦死者が祀られている。ここに眠る御霊の数は240万になる。

僕は首相の靖国神社参拝問題には反対であった。
「隣の国や周りの国が嫌だって言ったり止めろって訴えてるのになんで強行する意味がわからない。争いが増えるだけなんだから自粛すればいい。だから反対。」
そういった未熟なものだった。
靖国を巡っての昨今の様々な論議を読んでみても、いまいちピンとこない。それは当然で、なぜなら靖国が何かを知らず見たこともなかったのだから。だったら、他人の論議に耳を傾ける前にまずは自分自身で見るべきだと常々思っており、それを実行に移した。

靖国神社の本殿自体は普通の大きな神社である。それよりも、その横にある戦争の歴史を語り残す目的の博物館である「遊就館」が目的であった。パンフレットの最初のページには、
「英霊のまごろや英霊の御事績を知ること…」
「愛する祖国、愛する故郷、愛する家族のために、尊い命を捧げられた英霊のまごころやご事績に直接触れることによって、大切な何かを学ぶことができるのではないでしょうか。」
とある。なんとなく、気が引けてしまうような文面である。それでも、足を館内に向けた。

感想を簡単に言う。
僕は泣いた。「死んだら、靖国で会おう」と誓って別れた日本兵の話。愛する妻や子供に宛てた遺書。入ってすぐのホールで上映されているドキュメンタリー「私たちは忘れない」は、僕の知りたかったこと感じたかったことが詰められたものだった。
それと同時に、ここで語られていることは日本側からの歴史認識だけであることもわかった。しかし、この認識の仕方を僕らに強要するものではないように感じた。純粋に、日本が戦争を経験してきたことを忘れないでいよう。今、日本があるのはそのときに亡くなった数々の人々のおかげなのだから彼らの思いを残していこう。そんなメッセージだけが伝わってきた。また訪れてみたいと思ったし、「ありがとう…」と手を合わせたくなった。

靖国問題の本質が解った。そして難しくなった。いま、仮に僕が日本国の首相であり、靖国神社を参拝することを先に述べた理由で一切やめろと問われれば、悩むだろう。日本を代表して働く首相として、この国のことを強く思えば思うほど靖国神社に眠る御霊への感謝の念は募る。歴史事実はひとつでも、歴史認識は国の数だけあるのだから、他国の歴史認識を認めていくというのは日本を否定することで、それは戦争で亡くなった人々の気持ちを踏みにじることでもある。そんなことはしたくない気持ちも生まれている。

安倍首相は靖国神社に参拝するのだろうか。戦略的に自粛を続けるのか。本当の感情を大切にするのだろうか。僕達日本人や近隣アジアの国の人にどう説明するのか。
これは決して安倍首相だけでなく、グローバルになった昨今では僕達一人ひとりが認識して考える問題であるとぼくは思う。

日本のために何かをしたいと考えるのであれば、一度はゆっくりと時間を作って足を運んで見て欲しい。日本に生まれ育ったすべての人に。

日本の国花、菊の紋と満開の桜を見ながら考えた。









3/21/2013

歴史教科書2ページのものたりなさ

3月21日付け朝日新聞朝刊の社説より。
内容は安部内閣が新たに制定しようとしている「主権回復の日」について。以下、記事より引用。

一人ひとりに忘れられない日があるように、国や社会にも記憶に刻む日がある。
(中略)安部内閣は4月28日を「主権回復の日」と位置づけ、政府主催の式典を開くと決めた。1952年のこの日、サンフランシスコ講和条約が発効し、連合国による日本占領は終わった。
 「経験と教訓をいかし、わが国の未来を切りひらく決意を確固なものとしたい」という首相のことば自体に異論はない。
 自分たちの考えで、自分たちの国があゆむ方向を決める。その尊さに、思いをいたすことは大切である。
 だが、外国の支配を脱した輝きの日という視点からのみ4・28をとらえるのは疑問だ。
(中略)4・28とは、沖縄をきりすてその犠牲の上に本土の繁栄が築かれた日でもある。沖縄で「屈辱の日」と呼ばれるゆえんだ。
(中略)こうした話を「自虐史観だ」ときらう人がいる。だが、日本が占領されるにいたった歴史をふくめ、ものごとを多面的、重層的に理解しなければ、再び道を誤ることになりかねない。
 日本人の忍耐づよさや絆をたたえるだけでは、3・11を語ったことにならない。同じように4・28についても、美しい物語をつむぎ、首相のいう「わが国の未来を切りひらく」ことにはつながらないだろう。
 影の部分にこそ目をむけ、先人の過ちや悩みに学ぶ。その営みの先に、国の未来がある。 
(→朝日新聞デジタル - 主権回復の日―歴史の光と影に学ぶ

僕は日本近代史未履修である。
小学校・中学校の社会や歴史の授業では過去にあった出来事を縄文、弥生...と巻物の左端からスタートし、右端にある「なう」に行き着くまでにタイムオーバー。大正、昭和、平成の年号や人の名前なんかを丸覚えした記憶は少なく、教わった記憶は皆無。高校では世界史を選択した。(文系科目嫌いだった僕はそれすら覚えていない。)
史実は学んだけれど、それらをどう考えるかは習っていない。考えようともしなかった。

先日、広島の原爆博物館を訪れた際に、出口に設けられていた一言ノートに次のようなコメントが書き込まれていた。
3・11
日本に生まれ、日本に育ち、日本に生きている私たちは
唯一の被爆国であることを知らなさすぎる。歴史教科書の2ページ分では
あまりに薄く、書く人も伝える人も見る私たち誰もが無責任すぎると思うのです。
知らなければ、動けない。動かなければ、なくならない。
もっと、しっかり生きたいのです。
世界の誰もが笑顔で生きられる日が遠からず実現しますように。
神奈川県 S.K
このコメントにすごく共感した。
例え近代史を学んだとしても、たった2ページから一体僕らは何を学び何を考えることができるのだろうか。歴史事実=骨格ならば最低限学べる。でも、その骨格に肉をつけていく作業、すなわち今日の朝日新聞の社説にある歴史の光と影を学び考えることは、思い立ったときに自分自身でやるしかない。

広島・長崎の旅の中で反芻していた言葉がある。
ひとつは、1年ほど前にアメリカ人の友達コリンと飲んでいるときに彼が言った言葉。
「韓国も、インドネシアも、アジアの国はみんな日本のことを憎んでるよ。」
もうひとつは、インドを旅していたときに出会った日本人の妻を持つ韓国人パクの言葉。
「日本人ってさ、本当に何も知らないよね。慰安婦のこととか。第二次世界大戦で僕らの祖母がどれだけ辛い目にあったのかを考えたこともないんだよね。」
日本のことを好きだと言う彼らの言葉だからこそ、よけいに胸に響き、痛み、残った。


今朝の朝刊を読み、以前買い求めた日中韓3国共同歴史編纂委員会の「新しい東アジアの近現代史」を読んだ。そこにはこうある。
この条約(サンフランシスコ講和条約)は敗戦国日本が満足を表するほどに日本に対して寛大だった。平和と和解の精神が貫徹している「平和条約」だったが、しかし、実際に最大の被害国だった中国と韓国・北朝鮮は講和会議にまねかれることがなかった。 (中略)結局、日本の侵略戦争の最大の被害国だった中国と韓国・北朝鮮が排除され、アジアの国々に対する戦争責任問題が留保されたままで調印された対日平和条約は、真の「平和条約」とはほど遠かった。
(上刊、p147)
日本人は原爆の経験から、戦争自体に絶対反対し、平和を大切にする光のような心性をもつようになった。でも、その影にある日本自らおこした侵略と戦争に対する深い反省は忘れさられている。

昨年2012年5月15日は、沖縄返還40周年の節目の日であった。そのときに書いたブログでも、本土の人と沖縄の人の歴史解釈の違いについて書いて、その原因を『無関心』であると僕は書いた。
(→『沖縄返還40年』)

何度でも自分に言い聞かせる。関心を抱こう。歴史の光と影に。歴史は科目ではなくて、ともに生きる相手なのだから。
自分が未履修であることに気づいて恥じるようになるために。
歴史教科書2ページにものたりなさを感じるようになるために。

「主権回復の日」の影に学ぶ。


3/17/2013

『思考停止型バカ』卒業のために憲法改正を考える

日本国憲法の改正が話題になっている。
日本の憲法は硬性憲法と呼ばれ、他国のそれと比べると改めるのに超すべきハードルが高いらしい。小学校だか中学校だかの社会のテストで覚えた文言が今になって役に立つ。
「日本国憲法の改正に必要な条件は、国会総議員の3分の2以上の賛成と、その後の国民投票での過半数の賛成である。」
最近話題となっているのは、先の「国会総議員の3分の2以上の賛成」を「2分の1」に改めるために、まずはこの数や仕組みを定めている憲法96条を変えて、改憲手続きを容易にしようというもの。安倍首相の国会での言葉を引用すると、
「国民の60〜70%が変えたいと思っても、国会議員の3分の1をちょっと超える人達たちが反対すれば指一本触れることができない。これはおかしい」
となる。


ここからは、僕の考え。
まずは、一票の格差を見なおしてからこの論議をするべきだと思う。
先日、東京高裁は前回の衆議院選挙での一票の格差を違憲とした。最大で2.43倍にもなっていて、つまり、「この私に清き0.50票を!」「あなたの2票が政治を変える!」と訴える選挙になってしまっていること。その結果、衆院にいるのは「違憲の選挙」で選ばれた「違憲の議員」となっており、フェアに選ばれた国民意見の代弁者ではなくなっている。そう考えれば、先の安倍総理が「国会議員の3分の1をちょっと超える人たちが反対すれば〜」という文言は数値を使いその不都合性を定量的に訴えているけれど、反対する議員を支える国民の数は3分の2にもなれば6分の1にもなる。極論ではあるけれど。
まずは民主国家のそもそもである自由で公正な選挙の仕組みを整えて欲しい。国の屋台骨を修復するにはまず地盤から。

その先。
憲法改正に関しては、日本人は政治をすごく遠くて悪者だと思っているから、「憲法改正=戦争放棄を定める9条の改悪」との警戒や固定観念が強く、改憲の議論自体がタブー視されている気配がある。「平和憲法を守れ!」の声を大にして叫ぶの簡単だけど、「どうしてこの憲法を守ったら平和を維持できるの?」という問いを自分自身にとうてみても、すぐに行き詰まる。

「どうしてこの憲法を守ったら平和を維持できるの?」 
「だって、戦争放棄や核武装をしないって書いている世界で唯一の平和憲法だよ。これを変えるということは、多かれ少なかれ日本が武力を持つということになる。安倍首相は国防軍とか言ってるし」 
「でも、北朝鮮が核兵器の開発をすすめていて、中国との中も悪くなっていて、万が一攻撃とかされたらどうするの?」 
「それは安保条約で米に守ってもらうしかない。あとは、日本は外交力をしっかりと持って対話で解決するべきだ。」 
「じゃあ、アメリカが日本に軍を配備しろって命令してきたらどうするの?アメリカ経済は斜陽だし。外交と言ったって、日本の経済力もこのままどんどん弱まっていったら相手にされなくなってしまって発言力弱まってしまうんじゃない?」 
「じゃあ、やっぱり経済力を強くするべきだ!そのために日本の国力を再生する必要がある」 
「それは、憲法改正を推し進めている安倍首相の言ってることと同じだよ。」 
「…」

憲法改正は、何が変わるのか、変わった結果何が良くなり何が悪くなるのか。
自民党だって日本を悪くするために変更するわけではない。HPには丁寧な解説が載っている。
森永卓郎さんの戦争と平和講座は、改正案の負の面の一部を理解するのには役に立った。

憲法も、国も、ほとんどのルールも、それを持続させるために存在しているのではなくて、人々を幸せにするためにあるはずだと僕は思っている。
現在の憲法で現在の日本や将来の日本は幸せになるのだろうか。
考える必要がある。


在日20年のイタリア人建築家、ファブリツィオ・グラッセッリさんは、先のイタリア人と日本人の気質を対比してこう言っている。
「ワーワー騒ぐばかりのイタリア人を『空回り型バカ』と呼ぶなら、日本人は『思考停止型バカ』だと思います」
ものごとが単純化され、わかりやすい解説が次々にコピーされて、いいね!とRTの数が正義になってきている。僕もそれに毒されて、『思考停止型バカ』になっていることを痛感する。楽しげな日常をネットで過剰にアピールしたりして、Likeの数が気になってしまう。
SNSを僕は否定しない。そこから得られる人間的な感情はある意味一つの人間の真理だと思うから、無理して我慢もしない。でも。なるべくひとつひとつの発言に、伝えたいメッセージを含ませる。「日本は良い国だよ」とか、「もっと幸せになろうぜ」とか、「小さなハッピーは日常にありふれてるんだよ」とか。単なるエゴ開放の場にはしたくない。

今年の目標は、考えること。(と、学生だからできる自由な遊びをすることと、恋愛をすること。)
思考停止型バカ脱却のために、学生という目先の利益を上げるために何かに追われる必要がないという立場をフルに活用して、考える1年にする。
憲法改正というトピックも、そのための題材の一つ。時間を作って草案を読んだり、誰かとゆっくり話し合ってみる。


3/16/2013

コーヒー飲みながら、全部。

カップを持つだけで幸せな気分にさせてくれるスタバ。
高いけれど静かで時間の流れがゆっくりな喫茶店。
ノマドワーカーやESライターが集う活気溢れるカフェ。
新進気鋭のスペシャリティコーヒーを取り扱うロースター&スタンド。

色々な場所で様々なコーヒーが飲める。
苦いもの。薄いもの。高いもの。安いもの。静かなもの。騒がしいもの。ブレンドしたもの。シングルオリジンのもの。インスタントなもの。丁寧に淹れたもの。
なんで僕はコーヒーが好きなんだろう。

コーヒーというものを初めて飲んだのは、小学校の低学年の頃だろう。家族でスキーに出かける車の中で、夜通し運転する父親の助手席に座って話し相手=眠気覚ましをするのが僕の役目だった。父さんのために自販機で買ってきたノンシュガーの缶コーヒーを少し貰い、なんだこの苦い飲み物はと顔をしかめた。もう15年以上も前になる。

その後は受験勉強の時の眠気覚ましにコーヒーを飲むようになり、気がつけばなんとなくこだわるようになった。コーヒー店でのアルバイトも経験して、自分の中で毎朝のルーティーンワークが決まった。お湯を沸かす。豆を挽く。ドリップをする。朝のうちに少なくとも2杯は飲む。

バイクの免許を取って東京を散策するうちに、カフェやコーヒーに詳しくなった。せっかく豊かなカルチャー集まる地域やおしゃれ感溢れる街に繰り出しても、お酒が飲めない。お金もそんなにない。腹はそんなに減らない。そういった場所における僕の目一杯の背伸び的消費行動は、とびきりに美味しいコーヒーと時間を楽しむことだった。

留学先の影響も大きかった。西海岸から始まったサードウェーブというコーヒーカルチャーの渦のまっただ中にあったSan Franciscoでの毎日。新鮮で美味しい一杯3$のコーヒーと、スタバやピーツなんかのにがーい1杯1.5$のコーヒー&エスプレッソと、ダイナーやドーナツショップで提供される薄い1杯1$のコーヒー。様々な種類のコーヒーに毎日囲まれていた。

そんなに舌が肥えていない僕にとっては、どのコーヒーも美味しく感じる。次第に、コーヒーとその周りで繰り広げられる人々の行動や感情が好きになってきた。コーヒーの美味しさについて。豆の産地と種類と特徴。カフェインの効能。様々な機器。そしてコーヒーの上で語られるたくさんの話、話、話。

僕のブログのタイトルにもなった"All Over Coffee"。その意味は、「コーヒーの上で繰り広げられる全てのこと」とか、「コーヒーを飲みながらのすべて」とか。San Franciscoで出会って一目惚れした一冊の本から拝借した名前だ。
(→"All Over Coffee" - Paul Madonna
この本は親友に貸してしまってから返ってきていない。どうやらなくしてしまったらしい。また、西海岸のSan Franciscoに行く機会があれば自分で買い求めようと心に決めている。本当に好きなものはワンクリックで手に入れたいとは僕は思わない。

"All Over Alcohol(Beer)"でもいいかな、と少し思った。酒も好きだし。
でも、酒は1人で飲んでも楽しくないし、酒に酔うと人を殺してしまったりする。だったら酔うても犯罪にまでは至らないコーヒーのほうがいいやと、コーヒーに落ち着いた。半熟の哲学や下手な文化論、勝手な感情論を忘れずに書き留める作業能率があがるのであれば、やはりコーヒーはプラグマティックで悪くない。どこかにコーヒーステインを残そうとも。

コーヒーでも飲みながら、いろいろ、すべて。












3/14/2013

くいだおれと笑いの街の裏側

「大阪に来たら、竜之介に見せたいものがあるんだ。」
留学中に知り合った、京都で学び今は大阪に住む昂平が、通天閣の袂にある串カツ屋でビールを飲みながらそう言った。僕は原爆や平和について学ぶために広島・長崎を訪れ、電車を使って東京へ帰る途中に初めて大阪に寄ったところだった。
「San Franciscoにシビックセンターとか、テンダーロインとかのghetttoな場所があったでしょ?あれの日本版が大阪にあるんだ。見た方がいい。」

"ghetto"(ゲットー、発音的にはゲローの方が近い)とは、もともとヨーロッパで迫害を受けていたユダヤ人の居住区を指す言葉。そこから、アメリカでは貧しい民族的・階級的マイノリティが集まり住むエリアを形容するときに使われる。
サンフランシスコのテンダーロインはghettoの極みとして有名で、僕も何度か足を運んだけれど、昼間から乞食や挙動がおかしく目が虚ろな人が徘徊している。ションベンとweed(マリファナ)の匂いが入り混じりストリートのあらゆるところから漂ってくる。危険で安宿が多いことでも有名なダウンタウンの一画。

「テンダーロインみたいって言っても、流石にweedなんかはやってないでしょ、日本だし。」
「いや、深夜になると売買してららしい。とにかく、大阪中の貧しさがそこに集められてて、日本で一番安く泊まれる宿が建ち並んでる。」
一体どんな場所なんだろう。想像もつかないまま僕は昂平に案内をお願いした。

大阪のテンダーロインは、環状線の駅、新今宮のすぐ近くにあった。駅を降りてひと気の少ない出口を進むと、ションベンの匂いがツーンと鼻を刺す。シトシトと降る冷たい雨が仄暗い雰囲気をさらに強めている。駅から歩くとパチンコ屋のようなネオンが光っているが、なんとそれはスーパーだった。中に入ると総菜なんかが異常に安い。その日暮らしの日雇い労働者が利用するためだ。

「ここら辺から、かなり雰囲気変わるよ」
昂平がそう言った道路の脇には、ホームレスの人が住むダンボールやブルーシートで作られた「縄張り」が雨の当らないわずかなひさしの下にずらっと並ぶ。自販機に目を向けると飲み物が50円からある。少し先の小学校の塀は3メートルほどの高さがありてっぺんには有刺鉄線が張り巡らされている。監獄のようだ。狭く汚い居酒屋の提灯が寂しく光る。雨のせいか、人通りはほとんどない。

中に進んで行くと安宿街に行き着いた。一泊700円。一週間5000円。生活保護。人生相談。社会保障。社会復帰…そんな単語が書かれた看板があちこちに掲げられている。
バックパック旅をする中、物価の安いインドやスペインなんかでかなり安い宿に泊まったことがあったけれど、それと比べても一泊700円は破格だ。でも、ここに泊まってみようという気持ちは生まれなかった。僕の目の前にある安宿はカースト制度の名残で最下階級がいるインドでもない。アフリカからの貧しい移民が集まる南スペインの寂れた町でもない。「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ことが可能なはずの日本の、大都市・大阪の一画だ。

住む場所に払うお金というのは、人間の生存に関わる物凄く大切なもの、安心料とか存在を認められる価値であったりする。
旅を続ける中で、ある街に数日間の滞在を決めて 前払いで3日や4日ぶんのベット料金を払うと、それだけでこの街に認められたような気持ちになる。あぁ、疲れたら寝転がれるベッドがあるんだ、と。雨が降っても濡れないでいられる場所があるんだ、と。宿が見つからなかったりして公園のベンチやクローズしたフードコートに忍び込み寝たことが何度かあるけれど、その時に感じた自分の非人間感や悲しさは忘れられない。

新今宮に住む人が自分の存在を認めてもらうために一晩に払うお金は、僅か700円なのだ。僕はショックを受けた。
なぜこんな区画が出来たのかという昂平の案内を聞きながら、日本のghettoを小一時間見て回った。一泊700円。一ヶ月でも20000円弱。

すぐ隣に位置する、日本に唯一遊廓が残る飛田新地も案内してくれた。そこでのショックも相当だったが、細かい説明は省く。セットのような旅館の玄関口に売り物となったモデルのように綺麗な女性が座る。スーツ姿の男の人が徘徊し、おばちゃんがキャッチをする。値段の交渉する声が聞こえる。15分で12000円。30分で20000円。交渉が決まれば即座に座敷の上の階に行き「本番」が始まる。売れ切れ中でおばちゃんのみが座った店が多く、二階に思わず目と耳が集中してしまう。
ここも、ある種のghettoだと僕は感じた。

一ヶ月の存在と安心に払うお金が、三十分の快楽と射精に消える。
そういう存在を知っていても、それらを続けて目の当たりにすると感じるものは相当違う。

日本のghetto、日本のテンダーロイン。
くいだおれと笑いの街の裏側がそこにあった。


3/10/2013

平和ってなんだろう。

僕の誕生日は8月9日。小学校の頃に自分の生まれた日に歴史上どんなことが起こったのかを調べる時間があり、そこで、8月9日が長崎に原発が落ちた日だと幼かった僕は知った。今でも誕生日を覚えてもらうために使うフレーズは変わらない。

「誕生日?長崎に原発が落ちた日だよ。」


義務教育のもとで、あまり記憶には残っていないけれど、「戦争はいけないね」と眈々と教わり漠然と考えるようになった。「ヒロシマのある国で」を歌い「はだしのゲン」を読んだ。
けれど、高等教育に移るに連れて、大人になるにつれて、一日の時間が早く感じるようになるにつれて、日々想像力が枯渇していく毎日を送るにつれて、澄んだ目が曇り透明な思考が濁るにつれて、学ぶ機会も考えることも減っていった。
これから社会に出たらもっともっと考えなくなるのだろう。


日本人から「平和」という言葉が遠ざかる一方で、今でも世界の多くの人々は広島・長崎を核の犠牲の地としてしっかり認識している。
留学をしたり旅をしたして異国の人とつかの間の会話を交わす。その中で日本出身だと告げると、「オー、ヒロシマ!ナガサキ!」と答える人は少なくない。そんな時に僕はどんな反応を示せば良いのかわからなかった。
笑えばいいのか、悲しめばいいのか。
怒ればいいのか、泣けばいいのか。
最後の被爆地を抱える被害者を演じればいいのか、核の傘に守られて平和を論じる偽善者になればいいのか。
無知である自分を恥じた。


北朝鮮の核実験、平和憲法の改正、福島の原発事故、アジアの近隣諸国との諍い…
「核と平和」というテーマは今でも日本をやんわりと包んでいるけれど、僕たちの世代の身体には染み込まない。でも、僕は思う。おそらく僕達がこのテーマに本気で考え感じられる最後の世代になるのではないか、と。戦争とその後の運動を肌身で感じ生きた祖父祖母の世代と、僕の子供の世代はもうほとんどつながらない。祖父を亡くしてそう思った。
被害者の側から核を考えることができる稀有な人間は、世界からどんどん減っている。


僕が生まれた日にちに最後の被爆地になった場所・長崎に着いた。今回の旅の目的地の一つだ。
龍馬ゆかりの道を歩き、異国情緒感じる街並みを楽しみ、そして原爆の記憶を伝える街を考えながら歩いた。

平和ってなんだろう。

「原子爆弾落下中心地」と書かれた盤とモニュメントのある広場で、空を仰ぎ見る。

平和ってなんだろう。

涙が溢れてくる。

平和ってなんだろう。















3/04/2013

シンパシー、同調する力をいつまでも忘れずに

日本人の素晴らしい特性の一つにシンパシー、同調する力があると思う。これは空気を読む力、場を感じる力とも言い換えられる。たとえば、宗教にまったく興味のない人でも、お寺の本堂で座っていると穏やかな気分を味わったり、あるいは教会で美しい賛美歌を聴いて、なんとなく聖なる気分にひたったりする。教会がプロテスタントかカトリックか正教かわからなくても。留学中や旅先でも似たようなことを感じた。日本人は他のアジア人と比べるとどうにか現地に溶け込もうとする力や実際にそうできる力が強いように感じるのだ。
この力は、TPOの中でのPlace(場所)やOccasion(集まり)といったフィールドで特に強く、その場の雰囲気に自らを適合できることが多い。しかし、唯一、Time(時間)に関しては、あまりにも無関心であったり囚われなさすぎるようなこともあるかもしれない。長く独特な歴史や風土があるのにそれの理解が浅かったり、さらには、もっと身近に会った悲劇に同調する力でさえも。


久々に親友・剛と会い、六本木や麻布の街をブラブラと散歩した。
自分が普段活動している場所から離れてみると、そこには違った生活やコミュニティがある。クラブの客引きをしている褐色の肌の人、完璧なメイクと似たようなファッションで着飾ったお金持ちそうな女の人、僕達と同じようにちょっと背伸びをしに来た若い人。東京に生まれて良かったかな…と、少し複雑な気持ちになりながらも感じる瞬間の一つである。

六本木ヒルズの一画を歩いていたら、通路の両側に突然たくさんの写真が飾られているスペースが現れた。写真の一つ一つには、日本語と英語で、キャプションがついている。「記憶 わすれてはいけないこと」。東日本大震災の直後、その後、そして現在を切り取った日本経済新聞社の報道写真が飾られた、仮設のギャラリーであった。通りを歩く様々な人が足を止めて写真に見入る。僕と剛も、少しの時間、写真と向き合った。
以前に日本経済新聞社の東京・大手町本社で東日本大震災の報道写真ギャラリーが開かれていた。現在も大手町で開かれていて、六本木ヒルズのそれは、過去のギャラリーの一部を持ってきた特設会場であるようだ。
(→東日本大震災 報道写真ギャラリー「記憶」


2011年3月11日午後2時46分。
東日本大震災からもうすぐ2年が経つ。
復興は進んだ。原発は止まった。首相は変わった。風評被害は減った。除染は進んだ。手抜きも始まった。人々が街に戻っていった。人々が諦めて出て行った。たくさんの人が知恵と力を出し合った。季節が巡った。それでも、亡くなった人々が戻ることはなかった。
福島県から引っ越してきた子供がいじめられるという記事を新聞で読んだ。サッカー日本代表のGK川島の手が4本生えたような写真がある国で報道され「フクシマの影響か」などと冗談にならない冗談に使われた。被災地のがれきを受け入れてくれる自治体はまだ不足している。

2013年2月6日の警察庁発表のデータでは、震災の死者数は1万5880人。行方不明者は2698人。

写真展のタイトル「記憶」には、副題がついていて、「わすれてはいけないこと」となっている。それでも、2年の歳月は、人々に多くのことをわすれさせ、時間に縛られたシンパシーに弱い僕らの関心はどんどんと薄れてきている。もちろん、ただずーっと当時の悲劇を思い出しておけとは思わない。もうわすれたいよ、つぎにすすみたいよ。そんな声は、被災地で意外と多いのだという。震災に対してどんな態度をとればいいのかわからない。笑い飛ばせばいいのか、喪に服せばいいのか。空気の読み方がわからず、湿気った花火のようないじらしさが人々にも世界にも広がっているのかもしれない。


一週間後、震災から2年の黙祷が全国で行われるだろう。
せめてその一瞬だけでも、僕は自分自身のシンパシー、同調する力をタイムマシンに載せて遡らせて、今も困難な日々を過ごす人々や大切な人を失った人の気持ちに少しでも寄り添いたいと思う。それが、日本人としてあるべき姿であると思うし、それが、「わすれてはいけないこと」をわすれないでいるための最高の手段だと思う。


そのための準備を今日から、少しずつ。