日本経済新聞の総合面の下部にある「迫真」。
記者がルポルタージュ形式でニュースの裏側に迫っていく連載で、一昨日から開催されたのが「リニアに賭ける」。超電導磁石で浮上して最高時速500キロメートルで疾走するリニア中央新幹線という巨大プロジェクトの実像に迫る内容で、とてもおもしろい。今年から工事が着工し、2027年に東京-名古屋間、2045年には大阪まで延伸されるリニアは、東京、大阪、名古屋を1時間以内で結び、通勤圏内にしてしまうという。
そんな500キロの高速鉄道に関する記事を読んだ昨日、日帰りで大阪へ行ってきた。交通費が支給されたので、ぜーたくにも指定席の新幹線に乗って。実は新幹線に乗ったことは数えるぐらいしかなく、大阪行きの新幹線の勝手がよくわからない。関西出身の彼女から「のぞみにの乗らないとダメだよ!」という初歩的なアドバイスをもらうまで、のぞみ、ひかり、こだまのどれがどのような路線であるかもわからなかったぐらいだ。(今はわかる)
1年前、僕は初めて大阪を訪れた。(⇒くいだおれと笑いの街の裏側)
鈍行列車に揺られ、時間をかけながら日本を横断したときのこと。この後に、東京へ帰るのも各駅停車の鈍行で、寄り道しながらで半日以上かかった。
2年前には、東海道を自転車で走り通し名古屋まで行った。(⇒東海道の旅路)
3日間かけ400kmを自力で走破し、400年前の中世から続く路に思いを馳せながら進んだ。
僕がかつて進んだ道を、時速250kmで駆け抜けていくN700系。そしてその倍の速度で行こうとするリニア。純粋に、この速度は革命的だと感じた。自分自身が汗を流し、多くの時間を費やした道をほんの数時間で結んでしまうのだ。時速5kmで中世の旅路を進んでいた人にとっては想像もできない文明の進化なのだろう…そんな思いに浸っていた。
文明の進化とは、速く、早く、とにかくスピードを追い求めていくものなのだろうか。
移動手段に限らず、衣食住、コミュニケーション、生き方、その全てはどんどんと高速化しているのだろうか。そんな気がする。現代はしょっちゅう引っ越しをし、その住居もあっといまに建てられ、取り壊されていく。より多くの人と接触を持つけれど、その関係もすぐに終わる。ファストフード、忙しい毎日に追われ5分以下で食事を済ませることも多い。ファッションの流行も、次の年には忘れられるようなものばかり。
目新しさ、移ろいやすさ、多様性、スピード。
これらが文明生活を表す主要な言葉となっているのはどうやら間違いがないようで、特に文明生活の最前線であるネット社会を生きる僕達の世代ほど、このような概念に取り付かれているように思える。決してそれが絶対悪だと思っているわけではない。しかし僕が危惧しているのは、5km/hから500km/hへと生活の速度が100倍早くなったとしても、僕達の脳が100倍ものごとを処理できるようになってはおらず、その結果生まれてしまうのが情報過多による思考停止なのではないか、あるいは人間として大切な感情をどこかに置き去りにしていってしまっているのではないか、と。
どんどんと早くなる乗り物、生活、文明。
新幹線に乗って、純粋に、僕は便利ですごい!と感じた。これからもこの恩恵を自ら進んで受けていくことになると思うし、それをあえて遠ざける必要は当然ない。
けれど、この速度が当たり前となる以前の人々の感情や経験も大切にしたいと、僕は思う。5km/h、人の感情がしっかりと働く速度、その中での経験を。
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