11/28/2013

人を好きになるとき

好きな人ができました。
そんな話をすると、必ず周りの友達から聞かれることがある。
「可愛いの?」
「どこが好きになったの?」
そんな質問を受けると、僕は考えてしまう。良いところが見当たらないからではない。条件付きで誰かを好きになりたくない、こと友人関係や恋愛、家族に関しては…って、そう思っているから。世の中には評価によって成り立つものと、評価では測れないものがある。


社会を生きていくなかで、僕たちは常にだれかに評価され、だれかを評価する。
うまくできたらAをあげよう。内申書に○をあげよう。人事評価に反映しておこう。判断され、分別し、選択する/される。そんな利害関係がときにはひっそりと、ときには露骨に僕らの目の前にあらわれる。しかしそれは社会が持続可能なシステムとして稼働するためには必要不可欠なことでもあると思うし、自らの行動が評価されない社会の失敗なんかはソ連崩壊の姿からも感覚的にわかる。みんなが同じ服、同じ食べ物、同じ作業をする評価を欠いた世界からは生産性が生まれないだけでなく、何よりも多様性がなくつまらない。様々な人の意欲や感情を奮い立たせるものにあふれる社会のほうが活気があり、なにより人間らしく生きられる。


しかし、評価をしてはならないものも僕にはたくさんあるように感じられて、その一つが恋とか愛とか友情とか。本当に大切な人を条件付きで愛したり信頼していいのだろうか。
「性格がやさしいから好き」その人が鬱になってギスギスし始めたら別れるの?
「可愛いから付き合ってる」事故で顔に怪我を負ったらさようなら?
そんなの、友情じゃない。愛情じゃない。社会を支配している、大切だけど心苦しい「評価」。それらを使って判断してはいけないものが、人間をミクロに見たとき、一対一の関係を築くときには往々に現れる。


以前どこかで読んだストーリーにこんなものがある。
おばあちゃんが、家に訪れた小学生の孫にこのような言葉をかけられた。
「おばあちゃんは、英語しゃべれないってことは、バカなんだね。」
大切な親類との関係を、幼い子供が英語できる・できないで評価してしまったという話。英語が初等教育の教科になった以上、「評価」せざるを得ない。そのため、英語ができない人=劣った人と教育されてしまう幼い小学生。でも、英語ができようが、できまいが、おばあちゃんとか大切な人に、英語能力という単一の物差しを当てて評価をしてはいけないと、僕たちは知っていなければならない。


この小学生と同じようなことを僕たちも日常的に行ってしまっていないだろうか。友人をその語学能力で、家族をその稼ぐ能力で、恋人をその見た目だけで。
僕たちは知らず知らずのうちに、評価してはいけないものに対しても、格をつけたり点数をつけたりして、プラスマイナス、損得で考えてしまっていないだろうか。


「うまくいってもいかなくても、わたしにとってあなたの価値はかわらないよ」
条件付きの愛が蔓延している世の中で、みんなが心の奥で求めているのはそういうもの、そんなふうに言ってくれる人なんじゃないかと、僕は思う。


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