「世界一の本の街」と呼ばれる神田神保町の古書店街で開催されている「神田古本まつり」へ行ってきた。読書週間に合わせた東京の秋の風物詩は、今年で54回目。目抜き通りに設置されたラックに古本がどっさりと積まれた「青空掘り出し市」は、なんとなくパリのルーブル美術館対岸の古書通りを彷彿させる。「本の回廊」は国関係なく人々を魅了するものなのだろう。
僕が訪れた日の空模様は生憎の雨。青空の下の乾いた本の匂いを嗅ぐことはできず、ブルーシートで覆われた回廊を横目に、少しだけ安くなった本屋さんの前をぶらぶら歩く。そんな中でふと立ち寄った書店の一つがとてもユニークだった。「絵本の本屋さん」。壁一面に設置された本、平積みされた本、それらがすべて絵本のお店。なつかしいタイトルや見たこともない絵本をパラパラと眺めながら、童心に戻ったようにシンプルな本に見入り、「小さいころはこの本が好きだったよ」なんて話をしながら思いがけず長くそこにいた。
見覚えのある本を見つけた。僕の家の本棚にある2冊の絵本。小さい頃に読んだ記憶があまりないので、ぼくが少し大きくなってきたぐらいに父さんか母さんが買ってきたものなのだろう。シンプルな白い背景と線だけの絵本。文字は本当に少しだけ。
「ぼくを探しに」
「ビッグ・オーとの出会い」
シェル・シルヴァスタインの本を訳した倉橋由美子さんのあとがきが、印象的だった。以下引用。
「考えてみると大人の大部分はうまく大人のふりをしていけるようになった子供か、それがうまくできないでいる子供か、そのいずれか」
「シルヴァスタインの童話がアメリカで人気が高いのは、大人を演じるのに成功しているにしろ失敗しているにしろ、アメリカ人が自分の「子供性」を鋭く意識している人間であることを示すものかもしれない。」
「これに対して日本人の場合は、子供がそのまま大人として認められるように世の中ができていて、自分の中の子供を余り意識しないで済むし、またそのことで悩んだりすることも少ない。それどころか、日本では、大人を演じることが下手な人間はその純真さや童心、要するに幼稚さを売り物にして生きればかえって珍重されるのである。そういう日本人にはシルヴァスタインのような発想は案外なじめないのかもしれない。」
このあとがきで書かれている「子供性」について、ちょっと考えた。僕は海外に何度も赴くことで、逆に日本のことをたくさん知ることができた。僕が小さい頃から当たり前だと思っていた当然目の前にある日本の感覚が、実は特殊なものなんだなって知るきっかけを得た。それは、僕だけでなくたくさんの海外旅行や留学に行ったことがある友達ならわかってくれることだと思う。
それと同様に、僕たちは小さいころの子供性から、ある日に急にスイッチが入って大人性を得るわけではない。連続的な日々の中で子供から徐々に大人になっていく…はずなのだけれど、それはやっぱり難しい。倉橋さんが述べているようにどこか日本には子供性を引きずる基質は誰にでもある。さらに日本には子供性がいつまでたっても認められる環境があるように僕は感じるのだ。自分自身が子供性を引きずっているかどうかは、日本の素晴らしさや自らがそれらに関して無知であることに気づくのと同様にして、いっぺんその同質なコミュニティから這い出て、客観的に自らのポジションを俯瞰しないと気づかない。
「おおきくなるっていうことは ちいさなひとに やさしくなれるってこと」この文も、絵本からの引用。おおきくなるっていうことは (ピーマン村の絵本たち)。
おおきくなって、大人になれるってことは、自分の中の子供を意識できるようになって、それゆえに悲しくなったり辛くなったりすること。 でもそれは、僕達のつぎのちいさなひとに、子どもたちに、優しくなれるってことなのだと、中川ひろたかさんは伝えている。
さて。AKBとか、ゆるきゃらをもてはやす日本の文化は、自分自身が子供だと認識している人が楽しんでいるのか。それとも、子供だと気がついていない子供のままの大人がはしゃいでいるのか。後者ばっかりの日本が続いたら、他の人に、弱き人に、マイノリティに、ちいさなひとに、やさしくなれない日本になっちゃうんじゃないかなって、僕はちょっと悲しくなる。
読書の秋。
新書、哲学書、小説、就活本…そういう本は、おとなになるための子供が読むための本。でも、ときにはその反対の、こどもを思い出すための大人の本を、人は読む必要があるんじゃないかな。3分ぐらいで読み終わる絵本。どうぞ手にとって見てください。やさしい人になるために。子供の心を思い出すために。
本当に大切なことが、絵本には詰まっていて、僕は涙が流れました。
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